『現象学入門』検証
『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)について、これまで分析してきた内容を一つにまとめました。PDFファイルにしてあります。
(ファイルサイズ:426KB)
文章の重複や無駄な箇所を削除、引用の間違いを訂正してあります。
ブログの記事よりは読みやすいかもしれません。
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事物は実践的<関心>によってのみ”存在”する、という見解は、<内在>と<概念>とを混同していることから生じる誤解であることは、既に説明しました。
『現象学入門』再読(その10):<内在>と<概念>、<体験>と<名前>の混同
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-5664.html
つまり、下のような見解の前提そのものが誤解である、ということなのです。
人間存在の”対象化する本性”と事物存在の”対象化される本性”は、たとえばある構造を持った機械(身体)と、この機械を動かす動因、力(精神)という関係にすこし似ている。構造としての機械は、ただこの機械の目的からだけ、その各部分の存在の意味が理解(規定)され、またその相互の関係も理解される。しかし機械を動かす「力」のほうは、機械の目的そのものを作り出すなにかであり、その意味でこれは自己目的的な存在である。したがって、「力」それ自身を構造や因果として捉えることはできないのである。
事物存在が因果関係として捉えられるのに対して、心的な存在はその本性自身を因果関係として捉えられないのはそのためだ。
そういうわけで、心的な存在は、目的論的なかたちで(つまり因果関係として)把握されるわけにはいかず、あえてこれを把握しようとすれば、ただ自己了解的な仕方でしか捉えるほかはない。まさしくこの理由で、「存在論」は、”自分で自分自身のありようを本質直観(了解)する”という現象学の方法を必要とするのである。
(187ページ)
これはどう見ても詭弁でしょう。
いつから、目的論=因果関係 となってしまったのでしょうか?
(185ページにも「~のためにという観点から見られた因果連関」という表現があります)
無理やり目的論=因果関係、ということにして、客観的分析ができないことにしようとしている気がしてなりません。
たしかに、私たちの欲望は、目的論、つまり「~のため」、という意味付けがこれ以上できない「行き止まり」の地点です。しかし、私たちは、
・親に叱られた
・そのとき悲しいという感情を感じた
という一連の出来事から、
叱られた→悲しくなった という因果関係をいやおうなしに感じてしまいます。
これはどう見ても”因果関係”です。
これらの分析を、自らの頭の中で行う場合は、因果関係にならないということなのでしょうか・・・?
結局のところ、竹田氏(おそらくフッサール・ハイデガーも)は、<自我>の<還元(エポケー)>が不十分だったために、本質直観と因果関係の把握というものが、ごっちゃになってしまっていることから起こる混乱だと思います。
・・・『現象学入門』の検討は、ここまでです。
『現象学入門』は、全体的には非常にわかりやすく書かれていて、私にとってもとても良い出会いだったと思います。
一方、違和感を感じる箇所もかなりありました。
このたびは、その違和感を全部説明しきるぞ、という意気込みで細かく読みなおしました。
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『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)からの引用です。
事物は実践的<関心>によってのみ”存在”する
いま<私>の目の前には机があり、その上に原稿用紙や本や、ペン、ハサミ、タバコ、灰皿、コーヒーカップなどがある。さらに<私>はひとつの部屋の中にいて、また部屋の中には本棚やコピー機、ソファー、窓、ドアなどが<私>と共に存在している。
ところでこれらの事物は、”<私>にとっては”、けっして単に「たまたまあうときに与えられ」ている事物存在なのではない。原稿用紙や本やペン等々は、原稿を書こうという<私>の”関心”に応じて<私>にとって存在し、まさしくその理由で、固有の意味と価値の秩序として存在しているのである。
(145~146ページ)
この説明に果たして納得できるでしょうか?
そもそも、机や本やペン、本棚や部屋は、私たちの必要に応じて作られ供給されたものです。そして<私>の”関心”に応じて集められたものたちです。それらをもって、世界全体が<私>の”関心”に応じて、固有の意味と価値の秩序として存在している、というのはナンセンスとしか言いようがありません。
もちろん、竹田氏の見解はこれだけではありません。
海、陸地、山、川、草原地、砂地、森、林、樹木。これらの分類は、移住したり、魚や獣などの食べ物、水や温暖の地といったよい環境を求めて生きるという、人間の一般的な”関心”に沿って作り上げられてきたものだ。
(147ページ)
とありますが、本当にそうでしょうか?
自然は、私たちの関心などかかわりなく、次々に私たちに襲いかかってきます。
何かが襲ってきました。
黒く飛んできます。
草むらの中を歩いています。草が体にあたってチクチクします。
服にたくさん何か(種)がついてしまいました。
じっとしていると、小さいものが飛んできて皮膚にくっついてきます。
飛び去ったあと、小さな刺し跡があり、だんだんと腫れてかゆくなってきました。
風が吹いてきます。
心地良いときもありますし、前に歩くことを邪魔するほど強い風のときもあります。
私たちは、私たちが欲するかどうかにかかわらず、いやおうなしに記憶してしまいます。
全く関心のなかった事柄が、あるとき、ある欲望が生じたために、急に心の中に浮かんできます。
しかし、そのことに関する記憶が全くなければ、心の中に浮かんで来ようがないのです。
例えば、毎日、林の中の道を通っていて、何気なく木を眺めていたとします。
ある日、庭にある高い柿の木になった実を収穫しようと思いました。
でも高いところにある実は手が届きません。
でも、柿は食べたい・・・
・・・先端が二股になった細い棒でひっかけてとれば良いのでは、
と考えます。そして、
・・・そういえば、近くの林にちょうど良いサイズの枝があった。
とひらめきます。
そのとき、はじめて林の木が、私の”関心”にとって固有の意味と価値を持つことになります。
(事例としてはいまひとつな気もしますが、どうぞご了承ください)
このように、私たちが目的、つまり欲望・欲求を持ったとき、初めてそれに関係する身の回りの物に意味と価値が生まれてくるのです。
ミシェル・フーコーが言うように、自然存在はもともとは切れ目のない連続体であって、人間の実践的関心がそこにさまざまな切れ目(文節線)を入れたのである。
(147ページ)
これは、私たちの<内在>と、客観世界における<概念>とを混同しているのです。言い換えると、私たちの実際の<体験そのもの>と、物・現象の<名前>とを混同している、ということです。
確かに、私たちが身の回りの物に名前をつけるならば、私たちの関心(それが実用的であろうがなかろうが)に沿って、私たちが決めた基準により分類して命名していくでしょう。
しかし、一方で、フーコーが言うような直観も感じています。私たちは身の回りの世界において、名前がまだついていないものがたくさんあることも知っています。
それは<内在>として感じている体験のうち、概念と因果関係の客観世界に組み込めなかった部分がある、と感じていることを意味するのです。もちろん、それらも将来的に客観世界に組み込める可能性がありますし、ないかもしれません。
これらのことから、
<気遣い>と事物存在の関係の特質は、まず事物存在(客観)があり、そこに目的因が与えられて秩序(コスモス・意味)が生じるという意味生成論的関係ではなく、いわば相互にその存在意味を証明しあう(開示しあう)ような意味開示的関係にあるという点だ。というのは、事物存在は<気遣い>がなくては存在として規定されないし(現れないし)、<気遣い>のほうは、その欲望や関心の対象として事物存在がすでに現れているのでなかったら、自分自身のなんであるかを認定し、自覚することさえできないからである。
(190ページ)
というハイデガーの見解も誤解であることがわかると思います。
<意味>とは、<内在>として与えられているものではなく、あくまで客観世界における<理念>なのです。そして、意味とは目的(欲望)が発生することによりその対象物に対して生じる価値のことなのです。
事物の存在は、これまで客観的因果の連関としてのみ捉えられてきた。このことはつきつめれば、事物の存在はただ人間の生活上の関心にとっての一般的な現われの因果として捉えられてきた、ということを意味する。たとえば人間にとって現われる事物の世界の因果と、アメーバにとって現われる事物の世界の因果とは大いに違っている。アメーバにとっては、そもそも三次元的な空間の拡がりは存在しない。
このことは、事物の因果とは、その底に生の活動の上での実践的必要があり、この必要に応じて編み上げられた一種のフィクションだということをよく表している。これを要するに、事物の存在がなんであるかという規定を支えているのは、ただ人間の存在のありようだ、ということになる。
(184ページ)
ここでは、
生の活動の上での実践的必要=生物の身体的機能の限界、となってしまっています。
これはどう考えてもおかしいのではないでしょうか。
生物の身体的機能、つまり目の構造、耳の構造、それらの機能の限界=生の目的 ではありません。
そして、これら生物・人間の身体的機能が、人の認識に及ぼす影響は、既に客観的分析であって、<内在>レベルにおいてそのようなことは関係ないのです。
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『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)からの引用です。
ここで「生活世界」という言葉が出てきました。
近代社会は、人間の自由な理性によって世界をとらえるというかつてない試みを行ったが、そのことでひとつの独特な<世界像>を形成した。この世界像の特質は、<主観―客観>図式による世界の対象化、軽量化、理念化ということにつきる。しかしここには、ある根本的な誤りが存在していた。この誤診は、理論的には、近代諸学の”危機”というかたちで現れたが、もっと本質的には、人間の具体的な生活世界と学的な理念的世界の関係の転倒、理性によって世界を認識することの”意味”の空洞化ということを生じさせた。
(139ページ)
この文章がナンセンスであることは、
『現象学入門』再読(その8):「意味」こそが「倒錯」ではないのか
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-aefe.html
の記事で既に述べました。
「意味」という<理念>が<主観―客観>図式の思考の枠組みの中での話であり、意味は決して<内在>として現れるものではない、ということです。
「素朴な世界像」の<還元>の目標はただ、事物の実在、事象、経験などが<主観>にとって「疑えないもの」として構成される、その<意識の構造>を解明する点にあった。これに対して、「生活世界」の<還元>ではこれにとどまらず、この”構成”の意味本質を解明することに目標が向けられるのである。
人間の具体的な生が、さまざまな意味統一(経験一般)としてありありと人間に生きられていること、そういう意味の統一が、なぜ、いかにして人間の生の内実となっているのか、そういったことを”本質直観”することがここでの目標なのである。
(140ページ)
<還元>はあくまで<還元>であり、目標が異なるということはありえません。
おそらく、竹田氏と私の見解の違いは、
・私は、<還元>によっては<内在>しか残らないと考えているのに対し、
・竹田氏は、<還元>によって、<内在>のほかに<純粋意識>というものを(体験さえしていないのに)”絶対的な体験”として想定しまっているところにあるのだと思います。
重要なことは、
・私が”<自我>というものを体験した”と”判断”したことと、
・実際に<自我>というものを<内在>として体験していたかどうか
とは別なのだ、ということなのです。これらを混同してしまうと、私が既に述べたように、「私が自由と感じた」と判断したから「私には絶対的な自由がある」というふうに、「なんでもあり」の世界になってしまうのです。
私が”<自我>というものを体験した”と判断したことは、事実であり<原的な体験>と考えても良いでしょうが、ドクサ(憶見)をエポケーするということは、
”<自我>というものを体験した”という”判断”
に対し、その判断にドクサが含まれていないのか検証することなのです。
下の記事でこれらのことについて述べています。
『現象学入門』再読(その1):原的な経験かどうかの判断と憶見(ドクサ)かどうかの判断は別のものであるということ
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-76c8.html
生活世界の主観的性格と、「客観的で」「真の」世界の対比は、いまは次の点にある。すなわち、後者は理論的・論理的構築物であり、原理的には決して知覚できず、また原理的にその固有の自体存在について経験できないものの世界であるが、他方、生活世界的に主観的なものは、すべての点においてまさしく現実に経験しうる、ということによって特徴づけられる、という点である。(第34節、d、傍点引用者)
したがって生活世界こそが「根源的な明証性の領域」なのである。
(142ページ)
「根源的な明証性の領域」はあくまで<内在>なのであって、主観=<内在>なのではありません。
主観的”判断”の中にも、ドクサ(憶見)が紛れ込んでいないか疑う余地があるのです。
要するに、フッサールの言う「生活世界」というものは、単なる”主観”ということなのです。
「根源的な明証性の領域」はあくまで<内在>です。主観の中で組み立てられた世界は、確かに私が構築してしまった世界ではあります。そして、その世界は、主観的因果関係の網の目でもあります。私たちが感じてしまった、そう受け取ってしまった「因果関係」、そのものはドクサ(憶見)ではないか、と疑いうる可能性を有しているのです。
当然、
私が感じた感覚、それ自体は客観的<概念>のみで言いつくすことはできませんし、 私が感じ取った<因果関係>(主観的に把握された因果関係)が、巷で当たり前とされている<因果関係>(客観的に正しいと言われている因果関係)と違ったとき、ひょっとして私が感じ取ったものの方が正しい可能性もあります。
要するにこういうことなのであって、わざわざ「生活世界」という新しい概念を創出する必然もないのです。
『現象学入門』再読(その4):「内在」的には「思考」とは与えられるもの
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-0f57.html
『現象学入門』再読(その5):<還元(エポケー)>が不徹底であるために生じる混乱
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-f5fd.html
でも、これらのことについて一部説明しています。
客観的な「空間」と「時間」が存在する。実在の真の秩序が存在する。世界の総体は客観的因果関係の網の目として存在する。近代科学のこういった世界像は、必然的にひとびとの生活世界から遊離し、むしろときには生活世界を圧迫するような性格をもったが、この新しい”普遍学”の視線は、近代科学の論理的矛盾を解明し、しかも近代科学の成果を全く別の仕方で生活世界を結びつけることになるだろう。フッサールはそう説く。
(143ページ)
「世界の総体は客観的因果関係の網の目として存在する。」この見方は、おそらくキリスト教的な思考から受け継がれたものなのではないでしょうか。もともと科学的思考は、神様の意図を知りたいという欲求が原動力となっているという話を聞いたことがあります(というか昔、大学の講義で知りました)。全能の神様が作り出したこの世界・宇宙の謎を紐解く、それゆえに、世界の総体も客観的因果関係の網の目を解明する、ということになるのだと思います。
そして、この考えは「絶対的真実がある」という思考回路と同じであるということです。
『現象学入門』再読(その6):どれも因果関係の把握であることは同じ
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-0907.html
でこのことについても少し触れています。
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目の前にパンがありました。お腹がすいていたのでそれを取って食べました。
<内在>としては、
・お腹がすいた
・目の前にパンがあった
・そのパンを取って食べた
という個別の体験でしかありません。
(文章で示している時点で多少のドクサは紛れ込んでいますがそのあたりはご了承ください)
とにかく目の前にあるパンが欲しくなったのです。
もし「パン」ではなく、それが毒々しい色のキノコだったらどうでしょうか?
<内在>としては、
・気持ち悪い
・食べたくない
これも個別の体験でしかありません。
(これらも文章で示している時点で多少のドクサは紛れ込んでいますがそのあたりはご了承ください)
とにかく目の前のキノコを食べたくなかっただけなのです。
そこに<意味>という概念の入り込む余地などありません。
あるのは自らの感情・欲望、そして自らの視界に飛び込んできたパンあるいはキノコのみです。
お腹がすいた→パンが食べたいと思った
気持ち悪い→食べたくない
という因果関係は、事後的な分析にすぎません。
もちろん、因果関係による把握というものは、いやおうなしに受け取ってしまうものではあります。
<内在>的には思考それ自体も与えられるものだからです。
しかし、ここでドクサ(憶見)を取り除く、ということは、
・体験そのもの
・体験から導き出される判断
とを区別し、その判断の内容に対し、体験そのものとは別の要素が入り込んでいないか検証することなのです。これらを混同してしまうと、たとえば「私は自由を感じた」と判断したから「私には絶対的な自由がある」と断言するような「なんでもあり」の世界になってしまうのです。
そして、<意味>というものを考えてしまうこと、そのこと自体が既にフッサールの言う「倒錯」なのではないか、と私は考えています。
たとえば、歴史の必然が個人の生の意味を規定し、国家的、社会的価値が人間の価値を規定し、心理学決定論が人間のタイプを規定し、倫理的、道徳的価値が人間の存在の意味を規定するといったさまざまな倒錯が、人文科学の土壌から現れた(世界観やイデオロギーのかたちで)。それだけではない。19世紀後半から20世紀にかけて諸「学」は諸学説の対立を調停する力を全く失い、そこから相対主義、懐疑主義、不可知論が蔓延するままになった。また付け加えておけば、最近のポスト・モダン学説に見られるような<知>的領域における形式論的パラドクスの議論も、明らかにこういう問題の延長線上に位置するものだと言っていい。
フッサールによれば、こういう事態を克服するためにはふたつの課題をクリアする必要がある。
ひとつは、近代の理性がこのような倒錯の道をたどった必然を解明し、その意味と動機をはっきりとつかむこと。もうひとつは、では人間の理性がその本性に適うような仕方で使用されるべき対象はなんであるか、という問いを立てることである。
(123ページ)
私たちが体験さえもしていない<意味><価値>という指標に、私たちの存在が規定される、それ自体が既に「倒錯」なのではないでしょうか。
<意味>とは、科学の世界における「指標」と似ています。
温度、湿度、高さ、広さ、時間・・・それ自体は意味と同じく実体がないものです。
それらの実体がないもので、人間の世界を評価する、そのこと自体が「倒錯」と言えるのです。
(「疎外」という概念にも似ている気がします)
人間の思考というものは、科学的であろうとなかろうと、日常的に「倒錯」を伴っています。フッサールは「科学」のみを「倒錯」の原因に仕立て上げようとしている気がしてなりません。たしかに「数値化」というものが「倒錯」を助長したという側面については同意しますが。
近代社会は、人間の自由な理性によって世界をとらえるというかつてない試みを行ったが、そのことでひとつの独特な<世界像>を形成した。この世界像の特質は、<主観―客観>図式による世界の対象化、計量化、理念化ということにつきる。しかしここには、ある根本的な誤りが存在していた。この誤診は、理論的には、近代諸学の”危機”というかたちで現れたが、もっと本質的には、人間の具体的な生活世界と学的な理念的世界の関係の転倒、理性によって世界を認識することの”意味”の空洞化ということを生じさせた。
(138ページ)
<意味>という「理念化」の働きは、<主観―客観>図式の中の話なのです。
<内在>において<意味>というものはありえません。上の文章はまさにナンセンスだと感じます。
その<意味>というものに思考が縛られていること、その思考自体を<還元(エポケー)>できるものがまさに現象学だと私は思います。
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「間主観性」という概念について検討してみます。まずは『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)からの引用です。
「客観的世界」ということの現象学的な意味本質はなんだろうか。それは、<私>と<他我>が、<主観>の内容的違いをもちながら、しかしそれぞれが唯一同一の世界(時間・空間)の内に共属しているという間主観性(相互主観性)として理解される。(131ページ)
「間主観性」とは、”他我が<私>と同じ<主観>として存在し、かつこの「他我」も<私>と同じく唯一同一の世界の存在を確信しているはずだ”という<私>の確信を意味する。間主観性とは、<私>と<他者>の相互関係を言うのではなく、<私>の確信のある構造をさしているのである。
すると問題はこうなる。まず「他我」存在の妥当はいかに構成されうるか。つぎに、<私>―「他我」の相互存在の確信の条件はなにか。(132ページ)
なぜ「間主観性」が重要なのかというと、「客観性」(つまり誰が見てもそう見えるということ)について考えるとき、<私>と<他者>が同じようにものを見て、同じものがあると考えているという確信が必要だからです。その確信の根拠を考える場合、下の二つの視点が必要となります。
第一に、まず<私>にとって<彼>の実在が妥当(確信)されること、第二に、<私>にとっての「世界」と<彼>が持っているはずの「世界」の共通性、同一性の妥当である。(132ページ)
以下、フッサールの言う「間主観性」に関する竹田氏の説明の一部です。
この<主観>としての他人と<私>は、その趣味、生き方、意見を違えているとはいえ、唯一同一の世界(空間)の中に同時に共存している(つまり相互主観的な存在として)、と見なされている。これが、他人の存在というものに対してわたしたちが持っている自然な像である。
したがって問題は、最初は、他我のわたしに対する現存というまさしく一つの特殊な問題として、したがっていわゆる感情移入という、他我経験に関する先験的理論の問題として提出される。(第43節)
フッサールの「他我論」は感情移入説だが、他者の了解を、自分の思いを相手に類推(思い入れする)するということで済ませるのでは余りに粗雑ではないかといった批判がある。ところがフッサールの感情移入という言葉は、いわゆる”思い入れ”というようなことを意味しているのではない(「自己投入」という訳語が適切だという説もある)。
人間にとって、対象世界を<私>とは違ったものの世界として区別することは、さほどやっかいな事情ではない。ところが、他人を<私>と同じように意思し欲望する<主観>と見なすことは、<意識>の独我論的本性から見てそう簡単ではないのだ。だから一般に「感情移入」と呼ばれてる現象を現象学的に解明すること(=形相的還元を行うこと)が問題だ。そうフッサールは言っているわけである。
(130~131ページ)
形相的還元とは、「純粋自我から自然的世界像の妥当の構成へ向かう構造の解明」(129ページ)のことで、還元(エポケー)とは逆の思考順路になります。
一方、私の見解ですが、
共感、感情移入というものは、それ自体が<内在>、つまり”そう感じてしまった”ものであり、それを(ありもしない)純粋自我から説明すること自体がナンセンスであるということです。
数年前にテレビで見たのですが、ヒトデが天敵から襲われそうになったときに、まるであわてふためくように、わたわたと、逃げていく様子が放送されていました。私には、まるでヒトデが感情をもっているかのように、恐怖を感じているかのように見えました。ヒトデには大脳辺縁系もありませんし、人間のような感情を持っている可能性はほとんどなさそうなのですが、それにもかかわらずです。しかも、人間との<身体>的な類似もありません・・・
つまり、本当にそうであるかどうかにかかわらず、根拠などおかまいなしに、いやおうなしに他の生き物(場合によっては動くもの)に感情があるように感じてしまう、そして共感してしまう、ということなのです。
そして、この感情移入という感覚を分析することは、それ自体が既に概念・因果関係の体系からなる客観世界の思考であるということです。
もちろん、「間主観性」の検証について、感情移入という要素だけでは不十分だと思います。ヒトデと人間の共通点を感じることはあっても、ヒトデが人間と同じような世界を見ているという確信は当然持てないからです。
フッサールは、「間主観性」について、単一の論理で説明しようとしている印象を受けました。しかし、実際には「間主観性」というものは、様々な体験により得られるものなのです。
・他者の身体と私の身体に共通点があることも、当然要因の一つですし、
・他者と私が似たような行為をすることも要因の一つです。おいしそうなものを見つけ、それを取ろうとしたら、他の人も取ろうとしていたとか・・・身内が亡くなれば家族の者は皆悲しみます。ある人がおかしな転び方をしたのを見て(たいした怪我でなかったので)そこにいる人たち皆笑ってしまったとか・・・そういう様々な日常的な経験の積み重ねも「間主観性」の確信をもたらす根拠となりうると思います。
・なんらかのコミュニケーションも、要因の一つと思われます。常にというわけではありませんが、笑えば笑い返してくれることもあります。他人を殴れば(相手がより凶暴だと)殴り返されます。そして言葉の発明は、コミュニケーションの幅を広くし、「間主観性」の確信をさらに高めると考えられます。
・先に述べた共感する能力・感情移入ももちろん要因の一つです。いやおうなしに感じてしまう感情です。
私たちは、私たちの見たもの・聞いたもの・感じたもの、つまり<内在>から、概念・因果関係という思考の枠組みを用いて、客観世界を構築していきます。これは言い換えれば、私たちは、体験を積み重ねるうちに、他の人について少しづつ理解を深めていくということなのです。
つまり、「間主観性」というものを感じる道筋というのは、人それぞれの経験によるところもあり、必ずしも一つとは限らないのです。
人は、本来は様々な要因が絡み合って成立していることを、単一の論理で説明したがってしまう傾向があるようにも感じています。
たとえば、貨幣というものが存在する根拠が、貨幣商品説なのだ、とか貨幣法制説なのだ、とかいうふうに一つのみの根拠で示そうそしているのに似ている気がします。
(「貨幣、言語、神話」の記事 http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-25ce.html も見てみてください)
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『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)からの引用です。
中世以前の世界では、世の中のさまざまな因果を定めていたのは神学的な教義だった。もっと簡単に言うと、世界がどうなっているかという神の摂理の教え(図式)を、ひとびとは教会から受け取っていた。世界は、天国、地上、地獄という階層をもち、それらのあいだをどういう秩序がゆきわたっているかを、ひとびとは当時の知識階級である僧職者たちから教わったわけだ。しかしそのことはひとびとにとってべつに不都合でないばかりか、むしろ必要不可欠のものだったと言ってよい。
合理的な思考というものは、そもそも人間が自然を生活のために大がかりに利用、開発しようとする必要によって生じたものだ。科学の方法とは、誰でもがいつでもどこからでも「自然」を最大の効率で利用できるように、これを記述の体系としてつかんでおく、という特異な方法を意味している。(21ページ)
神学的な教義も、科学も、どちらも「世の中のさまざまな因果」なのです。
因果関係による物事の把握は、なにも自然科学により始まったわけではないのです。たとえば、下の例について考えてみると・・・
「そこでは人間に対して腹を立てた動物は病気を送り込み、人間の見方である植物が薬を供給して応戦すると解釈され、「胃病と足の痛みは蛇、赤痢はスカンク、鼻血はリス」等々・・・のせいにされる。」(『レヴィ=ストロース 構造』現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社:228ページ、アメリカ合衆国南東部のインディアンの事例)
動物が腹を立てる→病気を送り込む
植物=薬→病気の応戦する(病気を治癒する)
蛇→足の痛み・胃痛
スカンク→赤痢
リス→鼻血
というふうに、やはり因果関係による物事の把握なのです。宗教、呪術、占い、その他科学以前の様々な世界把握も、やはり因果関係の把握のそれぞれのやり方なのです。
一方、科学とは、一言で言えば「客観性」を求める因果関係把握の方法です。
「客観性を求める」とは、「誰が見てもそうなる」という確信、あるいは可能性を高めるということなのです。
その結果として、自然を利用する効率が高められるかもしれませんし、
もちろん、そういう意図を持って科学的な手法で研究・調査が行われることが多いと思います。
しかし、それはあくまで科学という方法によってもたらされる産物にすぎないのです。
フッサールによれば、近代の合理主義的世界観はガリレイの測定術に端を発する。近代合理主義の世界観は、三つの大きな特質を持っている。ひとつは、時間、空間の均質性ということであり、ひとつは世界の総体を客観的な因果連関の系列として把握しうる、またそれを計量(数式化)しうるという理念、さいごに心身二元論である。(114ページ)
(1) 時間、空間の均質性、ということに関しては、あくまでその時代の仮説であり、科学が進むにつれ、つまり因果系列の網目が広がるにつれ、そうでもないことが分かってきている、つまり必ずしも自然科学的な見方=時間・空間の均質性とはいえません。数値化によって基準を持つことで、かえって不均質性が理解できることもあるのです。
ただこれら数値化された基準というものが、私たちのものの見方を硬直させてしまった面があることも否めません。
時間について
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-3a49.html
という記事で、私も「時間」という概念について検証しています。「一定の時間」というものは、どこを探しても見つからない、そんなものはもともとない、という内容です。
(2) 世界の総体を客観的な因果連関の系列として把握しうる、という見解についても、それは何も科学だけの話ではない、ということもここで述べました。宗教も、この世界の出来事を説明し尽くすための一つの方法だったのです。
ただ、世界の総体を客観的な因果連関の系列として把握しうる、と確信することは、「絶対的真理」があると確信することと同じ思考回路のように感じられます。絶対的真理に関する、私の見解は下の記事で述べています。
絶対的真理(と呼ばれるもの)と客観世界における真理について
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-429a.html
現象学的に考えてみれば、「絶対的真理」というもの自体がドクサ(憶見)にしかすぎません。私たちは<内在>という私たちの体験と客観世界との突き合わせにより、より「正しい」という確信を持つにすぎないのです。
私たちが、明確に言えることは、
世界の総体を客観的な因果連関の系列として把握しうる
ということではなく、
私たちが、世界を把握しようとするとき、いやおうなしに因果関係という思考の枠組みを使ってしまっている
ということなのです。
(3) 心身二元論については、これからじっくり検証してみたいと思います。『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)を読みながら、私自身、かなり違和感を感じています。これから『現象学入門』の記述を検証しながら、竹田氏と私の理解の違いを確かめていきたいと思います。
たとえば、歴史の必然が個人の生の意味を規定し、国家的、社会的価値が人間の価値を規定し、心理学的決定論が人間のタイプを規定し、倫理的、道徳的価値が人間の存在の意味を規定するといったさまざまな倒錯が、人文科学の土壌から現れた(世界観やイデオロギーのかたちで)。それだけではない。19世紀後半から20世紀にかけて諸「学」は諸学説の対立を調停する力を全く失い、そこから相対主義、懐疑主義、不可知論が蔓延するままになった。また付け加えておけば、最近のポスト・モダン学説に見られるような<知>的領域における形式論的パラドクスの議論も、明らかにこういう問題の延長上に位置するものだと言っていい。
(122~123ページ)
このあたりの倒錯は、わたしたち周辺で日常的に見られることだと思います。
たしかに、現象学的なものの見方は、これらの倒錯を克服する非常に有効な方法であると、私も思っています。
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竹田氏は、『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)の中で、現象学的<還元(エポケー)>という方法について、解説しておられるのですが、
その<還元>自体が不徹底であるために、
<自我><意識>というものを<還元>しきれなかったために、
<内在>としては現れない<自我>というものを「絶対的体験」と想定してしまっているのです。
私たちの「生のありありとした経験世界」とは、「内在」それ自体のことなのであって、
竹田氏の言う「実在」とは、ときには「内在」ときには「客観世界」ともとれる、あやふやな概念となってしまっているのです。
以下、『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)からの引用です。
<自我>はさまざまな因果の束だという答え方は、じつは現象学でいう<超越項>にほかならない。ここでは<自我>という極、つまり、<意識>がつねに疑いを発しそのつど<内在>にむけてさまざまな<超越項>を験す能力それ自体が、身体や無意識や社会や他人という<超越項>へと”還元”されていることがわかる。ところが、<自我>=<内在>はさきに見たようにたまねぎの芽ではなくその「はたらき」自体だから、原理的にどこにも<還元>することはできないのである。
たまねぎの芽はその「皮」(組織)なしにはやっていけないということはできても、「皮」がその「はたらき」を作るとは言えないからだ。だから現象学的な<自我>とは無意識、身体、他者へと<還元>されることはできず、むしろあらゆる<超越項>を<還元>する動機それ自体であり、またさまざまな<超越項>の何であるかを確かめ規定する根拠それ自体なのである。このように考えてみると、わたしたちは現象学的な<自我>という極を、もはやそれをどこにでも”還元”できない極であるという意味で、ひとつの「絶対的体験」と呼ぶことができる。フッサールによれば、「この絶対的体験こそは、経験的体験の意味を成立させる前提にほかならない」(第54節)。
(100ページ)
私は、『現象学入門』再読(その4):「内在」的には「思考」とは与えられるもの
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-0f57.html
において、「思考」そして「確信」、そのものは「与えられた」ものである、と述べました。
そして、<自我>というものは「内在」として感じられるものではありません。
つまり、<自我>=<内在>ではありませんし「絶対的体験」でもありません。なぜなら「体験」さえしていないのですから・・・
なぜならすくなくとも<知覚>は、<意識>の(意識的、無意識的を問わず)この志向の能力にかかわりなく、いわば<意識>という「絶対的な存在の王国」(第76節)の中で、ほぼ唯一の<異人>として立ち現れるものだからだ。(106ページ)
そもそもが、<意識>という「王国」、<意識>という舞台のようなものは<内在>として感じられてさえいないのです。
私たちはついつい<意識>という舞台のようなものを想定して、それに様々な<内在>あるいは感覚が飛び込んでくる印象を受けがちだと思います。しかし、
『現象学入門』再読(その2):<私>は超越である
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-6d18.html
において私は、あくまで<内在>として感じているのは、感覚そのものであって、「意識」を感じているのではなく、感覚を感じている(感覚がある)、その事実から、「意識」がある、と判断しているのだと述べました(<意識>を<還元(エポケー)>したのです)。
つまり、<私>の<意識>、あるいは<意識>の舞台のようなものは、現象学の言葉で言えば、<内在>そのものではなく、ドクサ(憶見)を含む可能性を持った「超越」なのです。
<意識>という「王国」の<異人>/そしてそうでないもの、という区別それ自体が、まさに主体・客体の枠組みにおける思考なのです。
すべての実在的統一は「意味の統一」である、と。意味の統一というものは、意味付与的な意識を前提し、この意識の方は、絶対的であり、それ自身がふたたび意味付与によって存在するものではない。
(101ページ)「これは机だ」、「これは友人何某だ」、「ここは私の家だ」、「私は東京に住んでいる」。これらの確定は先に見たように現象学的にはすべて<超越>である。こういう現実の認識はしかし、ふだんは自明のものだ。ただ、なんらかの理解でそれを疑う必要が生じたとき、わたしたちはいつも必ず<内在>に立ち戻ってこれを確かめうる可能性をもっているわけだ。
ところがこれらの感覚は、さまざまな<知覚>の体験流から、そのつど<意識>の「志向的統一」によって与えられているものである。フッサールはこの志向的統一を「意味統一」とか「意味付与」と呼ぶ。たとえば、<意識>がある痛さを表象したとき、それがたとえば父親に叱られて頭をゴツンとたたかれたという意味の了解を伴わなければ、この痛覚は、くやしいとか情けないとかいう感覚を伴った日常のありありとした事象(実在)として経験されないのである。
こうしたことから、現象学的には、わたしたちの生のありありとした経験世界(=事象の実在)は、すでに、絶対的に与えられている<意識>の体験からなんらかの変容をこうむったものだ、と見なされうる。
(101~102ページ)
この文章の中の、
たとえば、<意識>がある痛さを表象したとき、それがたとえば父親に叱られて頭をゴツンとたたかれたという意味の了解を伴わなければ、この痛覚は、くやしいとか情けないとかいう感覚を伴った日常のありありとした事象(実在)として経験されないのである。
・・・という表現についてですが、
<意識>という概念が既に前提されてしまっているのは間違いだ、ということは既に述べました。
そして、
・頭をゴツンとたたかれた
・痛みを感じた
・叱られた
・くやしくなった、情けなくなった
これら様々な出来事の関連、
頭をゴツンとたたかれた→痛みを感じた
叱られた→くやしくなった、情けなくなった
父親は叱ろうとした→頭をたたいた
竹田氏が、<意識>の「志向的統一」と読んでいるものは、まさに「思考」そのものです。
つまり因果関係の把握なのです。
おそらく竹田氏の中では、
・思考=能動的なもの
・<意識>の「志向的統一」=与えられている感覚
という、主体・客体の枠組みが既に前提されてしまっているのです。
しかも・・・
ところがこれらの感覚は、さまざまな<知覚>の体験流から、そのつど<意識>の「志向的統一」によって与えられているものである。
確か、<純粋自我>は、”外側”から与えられたとは言えない「はたらき」である、という説明もされていたような気がしますが・・・
私は、
『現象学入門』再読(その4):「内在」的には「思考」とは与えられるもの
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-0f57.html
において、「思考」というものも、「内在」的には与えられるものである、と述べました。
「内在」レベルにおいて、能動・受動という言葉はありえないのです。能動・受動というものは、あくまで客観世界(概念・因果関係の体系)での話なのです。
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