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『これが現象学だ』その6:基本的には数も色も普通名詞と同じ名詞である

基体の抽出
 さて、最も基本的な直接経験=志向的体験は、知覚的な直観である。これをもとにして、意識の働きは、そこから能動的に成分を抽出(抽象)することができる。これによってノエマから抽出されてくるのが、カテゴリー的(述定的)成分である。まずもって、「数」と「意味」という成分の抽出について述べよう。
 第一に、もろもろの現出がそこに収斂する基体が、純粋に「形式」として抽出されると、「一」が成立する。これは、言語的レベルでは、不定冠詞(英語のaやドイツ語のein)となって現われてくるだろう。(『これが現象学だ』谷徹著、講談社現代新書、136ページ)

さらに、ひとつの現出者ともうひとつの現出者を、それぞれの事象内容(「何」)をどうでもよいものとして無視しつつ、それぞれが「一」であることだけに注目しつつ、「と」によって結合することができる。これによって新たに構成されるのが、「二」という数である。これは、ひとまとまりの概念であり、一種の集合である(フッサールは「総合概念」と呼ぶ)。さらに、これに新たな「一」を結合すれば、「三」が成立する。(『これが現象学だ』136ページ)

意味の抽出
 基体を抽出されたノエマには、別の成分が残っている。ノエマ的意味そのものである。これは、ノエマの「何」を規定する、事象内容をもった質料的成分である。サイコロのノエマで言えば、たとえば「白い」とか「立方体」などという意味がそうである。これらは、意味であるかぎり、理念的・普遍的である(「白い」や「立方体」という意味は、他のサイコロも、そしてサイコロ以外のものも、持つことができる)。ここから抽出されて、言語的レベルの述語規定が可能になることは、もはや言うまでもないだろう。
 さて、「白い」という意味は、サイコロがサイコロであるために必要不可欠というわけではないだろう。これに対して「立方体」のほうは、サイコロに必要不可欠だろう。このような、当のものにとって必要不可欠な意味は「本質」と呼ばれる。私たちは、ものの意味(そして本質を)直観している。フッサールはこの直観を「本質直観」などとも呼ぶ。(『これが現象学だ』141~142ページ)

 さて、ノエマから「形式」として「数」が抽出され、「質料」として「意味」が抽出されるわけだが、これらはノエマの「時間位置」とは独立の成分である。それゆえ、これらは、時間位置から切り離されることができる。この時間位置の喪失が、じつは、アプリオリということなのである。アプリオリであるということは、時間位置をもたないということである。かくして、時間位置から切り離された成分が、数および意味というアプリオリなものとして抽出される。(『これが現象学だ』143ページ)



フッサールの思考には、私たちが日常使う文法による”思い込み”が激しいと感じます。

「1」とはあくまで名詞です。
ある塊が目の前にあり、それを「1」と呼びます。
同じものがさらに目の前にあったとすれば、それを「2」と呼ぶのです。

その塊は、別の観点からは「石」と呼ばれるものであるかもしれません。
あるいは何等かの鉱物として化学式であらわされることもあるでしょう。

さらには別の観点から「灰色」をしていると観察されることもあるでしょう。

それぞれ、私たちの物を見る観点から、様々な名詞、つまり名前が付けられうるのです。

小さな「粒」は、あくまで「粒」ですが、それがたくさん集まると「砂」になったりします。
それは「1」と「1」がくっついて「2」になることと、基本的には同じ論理なのです。

(「砂」という定義のあいまいさ、という違いはありますが)

また、文法的には、<1つの>石、<灰色の>石、というふうに形容されることから、「石」というのが基体で、<1つ>あるいは<灰色>というものが抽出された別の成分であるように錯覚してしまいます。

しかし、一方で<石のような>○○、という表現も可能なのです。
一般的な表現ではありませんが、<石のような>灰色、<石のような>1、と言うことも可能なのです。



さらに、ひとつの現出者ともうひとつの現出者を、それぞれの事象内容(「何」)をどうでもよいものとして無視しつつ、それぞれが「一」であることだけに注目しつつ、「と」によって結合することができる。これによって新たに構成されるのが、「二」という数である。これは、ひとまとまりの概念であり、一種の集合である(フッサールは「総合概念」と呼ぶ)。さらに、これに新たな「一」を結合すれば、「三」が成立する。(『これが現象学だ』136ページ)


この文章については、反対のことも言いえます。つまり、それぞれの現出者が「一」であることを無視しつつ、「石」という概念で総合することもできるのです。それぞれの粒が「一」であることを無視しつつ、(「数万・数億」と呼ばずに)「砂」と呼ぶこともできるのです。

つまり、<石>も<灰色>も<1>も、結局は同じ名詞であり、どちらかが「基体」でどちらかが「抽出成分」なのではない、ということなのです。



因果関係と自由意思

今、

ランダムとは?
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_a875.html

の扱いをどうしようか、考えているところです。
私の考えも進展・変化しているために、初期の記事と内容に矛盾が出ることがあるかもしれません。
果たして、現在だったらこの内容をどのように書きかえるかなぁ・・・

慌てずゆっくり考えます。


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自由意思を論じる際に、

私たちの意思というものは常に何等かに影響されている、

私たちの意思は因果関係により規定されている、

という意味合いで、自由意思を否定する人もいます。

しかし、この論理は、
現象学的<内在>(私たちの日々の体験、見たもの・聞いたもの・感じたもの)と、それらから思考により構築する客観世界(概念・因果関係の体系)とが混同されてしまっているのです。

因果関係はいつも疑う余地を残している
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-89d3.html

の記事でも触れているのですが、私たちの体験がまず先にあり、ある体験と別の体験の同時性(あるいは同じ場所であること、あるいは同じ物であること)により、因果関係があるのではないか、と把握されているのです。


私たちの認識は究極的には、

因果関係があって、私たちの意思が生じてくるのではなく、

私たちの意思が出てきたあとで、それらが因果関係によって生じているのではないかと考えているのです。

因果関係は常に疑いうる可能性を持っている、ドクサ(憶見)を含んでいます。
因果関係というもの、それ自体さえも疑いうる可能性があるのです。


私たちの体験を、概念化し(区分し)、因果関係の網目に当てはめていく、それが私たちの思考そのものです。
その概念・因果関係の体系が、客観世界として、私たちに認識されています。
(その客観世界は私たちの日々の体験により常に検証されることで、より確信が高められていきます)

そして、自由、意味、それらの概念も、あくまで客観世界の中の話にすぎません。

現象学的<内在>、つまり私たちの日々の体験、見たもの・聞いたもの・感じたもの、それ自体においては、自由、意味、そんな概念は関係ありません。私たちの意思が自由であるか、意味があるか、それらを<考える>こと、それ自体が客観世界の構築、私たちの思考なのです。

フッサールの言う「生活世界」とはこれらの概念の混同の産物であると言えます。



科学理論や論理学が哲学の根拠になってはならない

科学理論、数学や論理学は哲学の根拠にはなりえません。
反対に哲学が科学理論や数学、論理学の前提、あるいは土台・根拠となるのです。
要するに、論理学や科学理論の根拠を説明するものが哲学であると言えるでしょう。

新しい科学理論により、私たちのこれまでの思い込みが解消され、思考が深化することもあるでしょう。哲学が科学理論の進歩に刺激を受け、別の局面を迎えることもありうることだと思います。

しかしその場合でも、その新しい科学理論そのものが、哲学の論理的根拠となってはならず、その科学理論なくしても哲学の論理が説明可能でなければなりません。


また、論理学をもって哲学を論じようとする人がいるかもしれませんが、それは論理が転倒しています。

論理学がどのようにして成立するか、それを説明するものが哲学なのです。
論理学そのものは、単に形式的な説明であり、それがなぜ正しいのか、なぜ間違っているのかを答えることはできないのです。
数学についても同じことが言えます。

正しい、間違いを判断する根拠は何なのか。
因果関係とは何なのか。

・・・これらのことについて、このブログで説明してきました。

現象学はこれら哲学の課題を解決しうる有効な手段だと思っています。
しかし、竹田さんや谷さんの著作を読みながら感じたことは、現時点における現象学においては、まだまだ”思い込み”が多すぎて、エポケーが徹底されていない、ということです。
そのために生じる論理的矛盾を補うために、いたずらに論理が複雑になりすぎている・・・そんな印象を受けます。

今、このブログではそれら現象学の弱点を洗い出し、現象学の論理的齟齬を排除し、よりクリヤーな論理を構築しているところなのです。


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『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)について、これまで分析してきた内容を一つにまとめました。PDFファイルにしてあります。

genshogaku.pdf (『現象学入門』検証)
(ファイルサイズ:430KB)



答えは先に出てくる

思考してから判断する・・・多くの人は、当たり前のことだと思うでしょう。
しかし、よく考えてみると全くの逆であることが多いのです。

ある本を読んだとします。
読みながら、何か違和感がある、何かが違うんじゃぁないか・・・
だけど、それが何か上手く表現できない。

そう感じることはよくあることだと思います。

その違和感を感じた後で、その違和感を論理的に説明できるように、思い出せる様々な過去の出来事を掘り起し、因果関係を見つけ出しながら、違和感を説明しようと試みるでしょう。

あるいは他の人の言っていることや、書物などを読んで、自分の気持ちとぴったり来るような説明があったとしたら、「あぁ、この言葉は私の違和感を上手く説明してくれているなぁ」と感じる・・・そんなこともよくあるのではないでしょうか。


人は第六感を持っている、というようなことがよく言われます。

実は、私たちは、まず最初に判断してしまっていて、
その判断がどのような根拠によるものなのかを把握するのは、その後なのです。
その判断に至る様々な出来事・体験を思い起こし、それらを因果関係で結び付けながら、その根拠を辿っていくのです。

その根拠があまりに自明ですぐに把握できるものについては五感と呼ばれていますが、
その根拠になかなかたどり着けない、よく把握できないものについて六感と言われることもあるのです。

私たちは、私たちが知らない間に判断してしまっている、
あるいは判断の材料となる感情(たとえば違和感や不快感、喜びなど)を抱いてしまっている、

・・・不思議なものです。


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『これが現象学だ』その3:志向性批判
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-dd30.html

の記事で、

「現出」の感覚・体験を突破している、と見えるのは、既にその「現出者」をよく知っているからなのです。

と書きました。
要するに、「机」という概念・言葉を先に知っているから、「現出」の感覚・体験を突破しているかのように感じることができるのです。

「机」という概念・言葉を知らずにそれを見たとしたら、それが何なのか、とっさに言葉が浮かんで来るはずがありません。その細部をよく眺めたりしながら、何なのか考えたりすると思います。
これまでにない何等かの感情をある時感じたとします。それを表現する良い「言葉」はとっさには見つからないでしょう。既に知っている様々な言葉を用いて、出来る限りそれを表現できるように試みると思います。


・・・それでは、その「言葉」「概念」はどのようにやってくるのか、ということなのですが、

それは、ごく当たり前のことです。
「(ある人から)聞いてしまった」「(本などで)読んで知ってしまった」
あるいは、「新しい概念を考えついてしまった」

結局、そういうことなのです。考えついてしまったことは考えついてしまったことなのです。
聞いてしまったことは聞いてしまったことなのです。

それらの情報を聞いてしまった、考えついてしまった、

そして、それらがどのようにして私の耳に入ってきたのか、あるいは私の頭に浮かんできたのか、
それらの分析はあくまで後付けの説明、因果関係を辿りながら検証する事柄なのです。


因果関係はいつも疑う余地を残している

私たちは、どういうときに因果関係というものを感じるのでしょうか?

あるときリンゴを見つけ、そしてリンゴを食べたくなったとします。

・リンゴを見た
・食べたくなった

リンゴを見た→食べたくなった

という因果関係は事後的(といってもほとんど同時かもしれませんが)に把握されます。
なぜ、そういう因果関係を思いつくのでしょうか・・・?

それは、リンゴを見たことと、食べたくなったことが同時に起きたからです。

しかし、そのリンゴを見たとき、たまたま何か全く別の要素が突然にやってきて、そのリンゴを食べたくなったのだ、という可能性はゼロとは言えません(ちょっと屁理屈みたいですが)。リンゴを見た、ということと、そのリンゴを食べたくなった、ということの間には、一種の飛躍、つまりドクサ(憶見)が入り込んでいるのです。

しかし、リンゴを見た、と同時にそのリンゴを食べたくなった、というその同時性ゆえに、何の疑いもなく、それらの事象の間に因果関係を認めています。

 

ちょっと納得しにくいかもしれないので、別の例を考えてみます。

暗いところに入って怖くなったとします。

<内在>的には、

・暗い所に入った
・怖くなった

というかんじでしょうか。

そして、事後的に、暗いところに入ったから→怖くなった
という因果関係を把握していると思います。
おそらくまちがいないと思うでしょう。

しかし、本当に暗いから怖くなったのでしょうか?
ひょっとして暗さではなくまったく別の要素があり、それがたまたまその場所に入ったときに恐怖感を生み出しただけかもしれません。暗いことと、怖いこととの間に本当に関係があるのか、常に疑うことが可能なのです。

このように、因果関係というものは、常に疑いうる可能性、一種の飛躍(ドクサ・憶見)を伴っています。

 

要するに、科学というものに関しても理論は常に「仮説」という側面を持っていて、それが覆される可能性がゼロになることはない、というのと一緒です。

これは、目に見えるものであろうが、見えないものであろうが、自然科学であろうが心理学であろうが同じことなのです。

 

結局、因果関係というものは、事象と事象の同時性(あるいは同じ場所であること、あるいは同じ物であること)により、把握されています。

そして、因果関係に確信を持たせるためには(いわゆる客観性)、

(1) 同じ人が見て、何度も同じことが起こる
(2) 誰が見ても同じことが起こる

という体験の繰り返しが必要です。

何度も同じことが繰り返される、ということで、因果関係が確信されるのです。
また、その確信を効果的に高める方法もあるわけで、それが「科学的な」方法であるわけです。

ただ、それでも究極的には因果関係は本当の関係なのか・・・?
いわゆる絶対的真実というものには行きつかないのです。

 

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<私>というものは、因果関係から導かれた概念である
http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-3197.html

の記事でも述べましたが、私たちは、<私>という感覚を内在として受け取っているわけではないのです。
私たちが日々感じている何らかの感覚(見たもの・聞いたもの・感じたもの)があり、それらを感じるためには、それを感じる「主体」というものがなければならない・・・という「因果関係」という思考枠組みを前提として、<私>というものがあるはずだ、と結論づけているのです。

<私>というものを<内在>として捉えているわけではないにもかかわらず、「因果関係」の思考の枠組みに沿って、感覚の「原因」としての<主体><私>というものを想定しているため、<私>という概念を想定したのちに「<私>とは何なのか・・・?」という転倒した問いが出てきてしまうのです。

 

「因果関係」そのものは、必ずなければならないものなのか・・・?
実際のところ、そこまで考えることなく、「因果関係」というものが当たり前のものであるかのように、私たちは捉えているのです。

そして、考えること、思考することそのものが(「概念」を用いた)「因果関係」の把握そのものなのです。

 

言葉が別の意味を持ってくる

ある言葉が流行ると、それを様々な人たちが使うようになるため、だんだんと別の意味合いを醸し出してくることがあります。

このことについては以前、この記事でも書いてみました。

「夢」という言葉が、搾取の口実として使われるようになってきたり・・・

「絆」という言葉が、利権構造の隠ぺいに利用されるようになってきたり・・・

最近感じるのが、「気持ちに寄り添う」という言葉です。

この言葉が別のニュアンスを持ちつつあるような気がします。

別の意見を言ってはならないという同調圧力かな・・・?

本当のことを言ってはならないという圧力かな・・・?

・・・とにかく別の意味を持ち始めているような気がします。

「言葉」そのものは素晴らしいんです。

そして、その「言葉」どおり素晴らしい活動をされている方もいらっしゃるんだと思います。

ただ、いろいろな人がその「言葉」を使うとき、それを使う意図というものも、人それぞれ様々なのでしょう。

不純な意図でその「言葉」を使う人たちのために、もし誠実な気持ちで活動している人たちの「言葉」が軽くなるようなことがあるとしたら、悲しいことだと思います。

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(3月19日追加)

「気持ちに寄り添う」という言葉、
自分で決断せずに他人に考えを委ねてしまう、というニュアンスもあるかもしれませんね・・・


当ブログの新しい目的について

このブログを開設した当初は、あまり難しい用語を使わずに意味や欲望、自我、思考ということについて、考えをまとめていく方針でした。そのときに、現象学の考え方が非常に参考になりました。

昨年ごろから、これまでに感じてきた現象学への違和感が無視できなくなり、現象学それ自体をしっかり検証して、問題点を明らかにせねばという意識が強くなってきました。現象学における論理的問題点と社会科学における客観性の問題もかなり重なり合うところがあります。

私自身のオリジナルなアイディアもかなりまとまってきているので、それをより学術的なレベルで表現していく必要性も感じています。
・・・ということで、それに合わせてブログのタイトルも新しくしたのです。

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現象学は、まず私たちの体験から出発します。
いわゆる独我論ともいわれていますが、まずはそこから始め、私たちの体験から客観というものがどのようにして導かれていくのかを明らかにします。

これは現象学的なものの見方とも言えますが、実のところ私たちにはこの方法しかない、というのも事実なのです。
なぜなら、私たちは自らの体験(一般的に意識と呼ばれています)から外に出ることなどできないからです。

私は以前、考えることが哲学なのではない、と述べたことがあります。

例えば、「無」とは何だ、とか「有」とは何だ、
あるいは、「意味」はあるのか、ないのか、とか、

そういう議論について、
私はこう思う、○○さんはこう思う、△△さんはこう思う・・・

というふうに延々と議論が続くことはよくあります。結論の出ない議論です。

しかし、現象学的に見れば、つまり私たちの体験から見てみれば、結局、

私たちはどのような体験に対して「無」という言葉を用いているのか、
物が「有る」とは、どのような体験のことを言うのか(どんなときに物が「有る」と見なしているのか)、
私たちは、何をもって「意味」という言葉を使っているのか、

私たちの体験と照らし合わせて考えることができます・・・というか、答えを出すにはこれしか方法がないのです。

このように、”誤った”問いの形を正してやれば、(一般的な意味での)形而上学的な問いに延々と惑わされることもないのです。

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フッサールが言っていることとは違いますが、
私たちが自らの体験から、自己を客観視したり、客観的な世界を把握したりできるのは、結局のところ、

概念と因果関係

という思考の枠組み・思考の道具を用いているからなのです。自らの体験から、因果関係の連鎖を辿りながら、自己を客観視し、他者についての確信を持ったりするのです。
後日、因果関係というものについてもさらに厳密に検証してみたいと思います。



『これが現象学だ』その5:「意味」はアプリオリではない

 さて、ノエマから「形式」として「数」が抽出され、「質料」として「意味」が抽出されるわけだが、これらはノエマの「時間位置」とは独立の成分である。それゆえ、これらは、時間位置から切り離されることができる。この時間位置の喪失が、じつは、アプリオリということなのである。アプリオリであるということは、時間位置をもたないということである。(『これが現象学だ』谷徹著、講談社現代新書:143ページ)

「数」についても、私はフッサール(と谷さん)と全く違う見解なのですが、これについては後日説明します。

まずは、「意味」についてです。

谷さんのこれまでの説明では、ノエマ的意味として、あくまで”目にみえるもの”のみしか考慮されていないかのようです。そして、「意味」=「目にみえるものとしての対象」、ということになってしまっています。

つまり、私が「意味」として挙げた、

(1)あるものを他の世界から見分けるための特徴
(2)ある人にとってその物の価値・機能

の(1)のみしか考慮に入れられていない、ということです。
谷さんは、まるで辞書に既に掲載されている「意味」のみを考えているかのようです。

しかし、私たちが実際に物を見るとき、視覚のみでなく、五感全体、そして感情・欲望を伴うこともあります。

リンゴを見て、(リンゴが好きな人ならば)食べたいとか、うれしいとか、ちょっとうきうきするような気持ちとかそういうものを感じているでしょう。それらも、いわゆるノエマ的意味になりうるのです。

そして、「意味」というものとして、(1)リンゴの特徴(赤色をしているとか、主に視覚からの特徴、しかし嗅覚など視覚以外の感覚が関係することもありうる)、(2)リンゴの価値・機能(食べるもの、おいしいもの、楽しくなるもの・・・など)、というものが抽出されます。

とくに(2)の意味は、人によってまちまちです。さらに(1)の意味にしても、例えば「青色」が場所によっては緑色のようなものも含んだり、同じ概念が違うものを指し示すことだってあります。

つまり、「意味」というものは、決してアプリオリではないのです。



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