2009年6月29日 (月)

現象学入門

 『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)と『言語的思考へ 脱構築と現象学』(竹田青嗣著、径書房)は、非常に参考になった本です。この2冊を読んでから、自分自身の思考がかなりクリヤーになり、新たな問題に関して自分なりの視点を持てるようになりました。

 今、『現象学入門』を再び読み直しているところです。とてもわかりやすく説明してくれています。細かいところはだいぶ忘れてしまっていますね・・・数年前の本への書き込みを見ながら懐かしい気持ちになりました。

 ただ、いくつか違和感を感じる部分もあるので、それらの問題についても考えてみたいと思っています。

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 客観/主観と分離させることはナンセンスだ、と私も思います。そして、唯心論/唯物論、どちらが正しいとか議論することもナンセンスだと思います。

 結局のところ、本質・意味、客観・主観、世界の「本当の姿」、自由、偶然・必然、運命、これらすべて人間が頭の中で考え出した「観念」にしかすぎません。これらの観念を用いて世界を見ようとすることで、かえって人間の思考に混乱をもたらしています。

 それらの観念を一つ一つ検証していくことで、そのもつれた思考の糸をほぐしていけるのではと思います。

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 哲学といわれているものの中には、脳科学や生物学で解決できてしまうような、つまり「実証科学」の部分がかなり含まれていると思います。それら自然科学から目を背けながら、価値判断(これも哲学と呼ばれていますね)を混入することで、わざと結論を避けようとしているのでは・・・と思われるような文章を読んだこともあります。(何年も前のあいまいな記憶なのですが・・・すみません) 

 一方、生物学は、まだ思考が機能主義で止まっているような印象を受けます。生物学は、生物社会学や生物の行動の分析など、社会学との境界にあるような分野も含んでいます。そこでは、誤った観念の使い方をよく見かけます(このブログでも採り上げていますが)。

 このあたりの混乱を私なりに整理できれば・・・と思っています。

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2009年6月28日 (日)

『レヴィ=ストロース 構造』その6

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)、やっと最後まで読み終わりました。

 神話論はすごいですね。壮大なパズルを解いているようです。様々な知識がなければ解くことができないでしょう。アメリカ大陸以外の神話、昔話ではどうなのでしょうね・・・? 日本の昔話にも、何がいいたいのかよくわからない部分がけっこうありますね。

 ただ、これらの分析が本当に正しいと言えるのかどうにも確かめようがありません。また、神話には作者がない、とも言い切れないと思います。要するにわからないのだと思います(作者が複数の人たちである可能性もありますね)。その神話がどのように形成され、どのように伝承されていったのか、その神話が出始めた頃にタイムトリップ(?)して調べ上げれば(いわゆる『構造人類学』にも書いてある「詳細な歴史」がわかれば)謎がかなりの程度解けるかもしれません。しかしそれはもう無理な話です。

 レヴィ=ストロースがしているような、神話が無意識のうちに何を伝えようとしているのか、という分析については、分析が特に「意識されぬもの」の領域であるほど、その客観的な説明が困難にならざるをえないでしょう。結局、検証する術のない「仮説」であるため、共感する、しない、で評価が分かれざるをえない、と言えるでしょう。実際、この本にも共感、という言葉が出てきます。

 「こうしたレヴィ=ストロースの論旨の展開を共感をもってたどれるか、あるいは索強付会として距離を置くかによってその評価は大きく分かれるであろう。」(265ページ)
 「構造分析の感受性」(13ページ)
 「こうした構造分析の小手調べにも、意表を衝いた発見があることを認め、共感できるかどうか、という点が構造主義への感受性の評価の分かれ目のひとつとなるだろう。」(16ページ)

 また、複数の神話の中に、共通点や、あるいは対になる要素を感じ取れるのは事実でしょう。しかし、それが何を意味しているのかを判断する際、どうしても分析者の価値判断が紛れ込んでしまいがちです。

 社会科学では、仮説と証明された理論、客観的判断と価値判断との混同が生じやすいと思います。そのあたりが社会科学で感じる「あやしさ」なのでしょう。

 レヴィ=ストロースの理論については『構造人類学』を読んで、さらに考えてみたいです。まだ第一章を読んでいるところですが、レヴィ=ストロースの問題意識については共感するものが多いです。これらの問題にどのように立ち向かっていったのか、見てみたいと思います。

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2009年6月19日 (金)

ランダムとは? その2

 例えば、サイコロをふって1が出る確率をP1、xが出る確率をPxとします。

Px = f(x1, x2, x3,........., xn)

ここで、x1, x2, x3,........,xnとは、出てくるサイコロの目に影響を及ぼす要因です。例えば、サイコロを持った時の方向や、それぞれの筋肉の動き、その他無数にあります。(実際には要因どうしも網の目のように絡み合って影響し合っているのでしょうが、わかりにくいのでここではこのように単純化しておきます)

そして、n(要因の数)→∞ のとき、

P1=P2=P3=P4=P5=P6

と言えるのだ思います。つまり、ランダムとは「でたらめ」「乱雑」、「無秩序」なことではなく、関係する要因が多くなるほど、結果(確率)が均一化されるという「規則」「法則」なのだ、とも言えると思います。

 例えば、サイコロの1の目が上になるように持ち、なるべく低い場所からそっと押しだすように落としてやれば、1の目の出る確率はかなり高くなると思われます。あるいは、空気の状態その他周囲の状態を同一にして、精密機械でサイコロを同じ向きに同じ力で転がせば、常に同じ目を出すことができると思います。

 一方、サイコロを手に持って高いところから振り下ろすだけで、どのサイコロの目が出るのかとたんに判断が困難になります。人間の腕一本の中にも様々な筋肉、骨、その他数えきれないほどのさまざまな要素が関係しています。

 そして、そのサイコロの目が出るまでに関係する要因の数が非常に多くなれば、1~6の目が出る確率が平準化されていきます。

 実際、例えば1からnという整数がランダムに表示される、ということは、

P1=P2=P3=P4=P5=・・・・・=Pn

ということと同義のようです。


 しかし、実際に要因の数が無限大になるというのは、あくまで人間の思考の中のことでしょう。
(とりあえずここではこう断定しておきます。最新の科学では、このあたりはどのように認識されているのでしょうか・・・?)

 実際には、n(要因の数)が十分に多くなれば、それぞれのサイコロの目が出る確率は、

P1≒P1≒P2≒P3≒P4≒P5≒P6

となり、ほぼランダムと考えて差し支えない、といったところでしょうか。


 最初に書いた、

 Px = f(x1, x2, x3,........., xn) として、

 n→∞ のときに P1=P2=・・・=P6

という図式を考えれば、完全なランダムというものを見つけそうとすることは、無限大を見つけ出そうとすることと同じであると考えられます。


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 このように、人間によって制御されない、人間が知らないうちに出来てしまっている規則、というものがあることは、よく考えてみればとても不思議です。

 ランダムほどに厳密ではありませんが、経済学における「神の見えざる手」も、このような規則と言えるかと思います。そのような法則が、その他社会科学の分野においてもみられる可能性はあります。

 こうなると、社会科学なのか自然科学なのか、その境はよくわからなくなりますね。
 
 まだ頭の中がまとまってないのですが・・・ヴェーバーにおける「理念型」を用いた分析のような社会科学の手法、個別の事象の分析、そしてそれらを超えて知らず知らずの間に出来てしまう規則・法則・・・そういったことについて考えているところです。

 レヴィ=ストロースの『構造人類学』の序「第一章 歴史学と民族学」の7ページに書いてある文章ですが、

「だからして、タイラーが次のように書くとき ― 「われわれが諸事実の総体から一つの法則を引き出すことができたときには、詳しい歴史というものの役割はすでに大きく乗りこえられてしまっている。磁石が一片の鉄を吸い寄せるのを見て、その経験から磁石が鉄を吸い寄せるという一般法則を引き出すにいたったならば、なにも当の磁石の歴史などを苦労してきわめる必要はないのだ」 ― 、彼は実際にはわれわれを一つの円環の中に閉じこめてしまうのである。というのは、物理学者とはちがって民族学者は、磁石や鉄にあたるような対象の決定に関し、また二つの磁石あるいは二片の鉄とうわべは見える対象の同一性を確認する可能性に関して、いまだ不確かであるからである。ただ「詳細な歴史」のみが、一々の場合にその疑念を晴らすことを可能にするのだ。」

・・・もっと頭の中が整理されたら、また何か書こうと思います。

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2009年6月17日 (水)

『レヴィ=ストロース 構造』その5

『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)の第五章「幻想から思考へ」まで読みました。とりあえず感じたことを書いてみますが、最後まで読んでからまたきちんと考えたいです。

●レヴィ=ストロースは、機能主義を批判していますが、レヴィ=ストロースの説明のとおりならば、確かに当たっているかなぁ、と思いました。
 すべてのことが関係しあっていることと、すべてのことが機能で説明できることとは違うと思います。
 機能主義は、人間のすべての行為を、包括適応度で説明しようとすることと似ていると感じました。

●「種としての個体」という概念は、どのようにも説明できそうな、恣意性のようなものをどうしても感じてしまいますが・・・もっと理解が進んでから、またコメントしたいです。
 ただ、人間が自然から思考の体系を築き上げる、というのは「野生の思考」に限ったことではなく、科学的な思考においても、最終的には客観性を支えるものは、この世界・自然という人間にはどうしようもない、すでにあるものとして受け入れざるをえない事実・現実であると思います。
(やや理解がずれているかもしれないので、もう少し考えてみたいと思います。)

●「伝統社会における自然認識、そして生命形態の多様性の認識が、最先端の「科学的」分類にもけして劣らない首尾一貫した精緻なものでありうることを明らかにした。たとえばフィリピンに住むある集団は、1625種類の植物を区別するが、それは植物学上は650属約1100種に対応するという。」(216ページ)
・・・とあるように、複雑な知識を持っているのは、先進(?)社会というか工業国(?うまい表現がみつかりません)のみではないと思います。
 ただ、「そこでは人間に対して腹を立てた動物は病気を送り込み、人間の見方である植物が薬を供給して応戦すると解釈され、「胃病と足の痛みは蛇、赤痢はスカンク、鼻血はリス」等々・・・のせいにされる。」(228ページ、アメリカ合衆国南東部のインディアンの事例)のような、理論をどう思うか、ということなのですが・・・
 理論や知識が精密であることと、それが本当に正しいと思えるのか、ということとは別であると思います。確かに現代社会においても、根拠のなさそうな、本当に正しいのか疑わしいことを根幹にして精緻な理論を積み立てている思考形態が、あちこちにあるような気はしますが・・・

 レヴィ=ストロースに関しては、いろいろ考えるヒントというか、気になるフレーズもあちこちに見つけています。そのうち、それらをうまくつないで説明できればなぁと思っています。 
 ちなみに、タイトルについてですが、検証する術のない暗号解読という記事が、「『レヴィ=ストロース 構造』その4」にあたります。

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2009年6月12日 (金)

検証する術のない暗号解読

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)の第四章「神話と詩のあいだに」まで読みました。少しづつではありますが、だんだんと理解できるようにはなってきました。

 理論の客観性をもたらすものは、この現実世界です。理論をこの世界と照らし合わせ、適合するのか、あるいはどの程度適合するのか、ということを見極めることで、その理論が正しいか(あるいはどの程度正しいのか)を明らかにすることができます。

 自然科学においては、理論が実証(つまり現実世界でそれが再現あるいは観察できる)されてはじめて正しいと判断されます。経済理論は、現実の経済がそのように動くことを見極めたうえで、正しかったかどうか判断するでしょう。
 ちょっと違う分野になりますが、昔の文字の解読はどうでしょうか・・・? まずは、仮説として一定の文法を当てはめ、それぞれの文字の意味を推測し、それらがちゃんとしていた文章になっているとしたら、かなり信憑性の高い仮説であると認められるでしょう。そして、関連する遺跡やその他現存している遺品、その他の文献などを調べることで、ある程度はその解読法が本当に正しかったかどうか検証することが可能でしょう。
 学問とは違いますが、たとえば軍事的な暗号解読では、暗号を読み取って敵の作戦を正確に当てることができれば、その暗号解読が正しかったと判断できると思います。

 レヴィ=ストロースの構造についてですが、確かに、人間の知らないところで、いつの間にかいろいろな構造、相互関係が形成されていることは珍しくないと思われます。書いたもの、話したものについても、書き手・話し手が伝えようとした内容以外のものが、読み手・聞き手に伝わってしまう、そんなことも日常茶飯事だと思います。

 レヴィ=ストロースの神話論は、神話の暗号解読のようにも思えます。それぞれの文章、文節を取り出し、それぞれを意味づけして、並べ分析することは可能でしょう。
 ただ、その取り出し方に恣意性がなかったか、そしてそこから取り出した構造は、本当にレヴィ=ストロースの考えたようなものであったのか、それを検証する術はあるのでしょうか・・・?
 ここまで読んだかんじでは、あくまでそれはレヴィ=ストロースの感性に任されているような気がします。そして、それを他の人が正しいと思うかどうか、それもその人たちの共感力(?)にゆだねられているような気がします。

 レヴィ=ストロースの神話論は、なんだか、検証する術のない暗号解読のようです。

 だからといって、それが間違いだ、と断言しているのではありません。ひょっとしたら正しいのかもしれません。ただ、それを判断する方法はあるのでしょうか・・・?

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 例えば、私たちが「良いお天気ですね」と挨拶するとき、必ずしも天気の話をしたいと思っているとは限らないと思います。会話の内容ではなく、会話する、挨拶することで関係を確かめる意味合いもあるでしょう(あるいは人によってはさらに別の意味合いがあるかもしれませんが)。

 このような場合、

『「良いお天気ですね」と挨拶するとき、必ずしも天気の話がしたいわけではなく、関係を確かめるためにそう挨拶していることもある。』

 という仮説、というか、より一般的な表現にすれば

「話す内容以外に意味されるものがある」

という理論をつくったとします。これを、客観的に実証する術はあるのでしょうか?

 このような仮説は、それを知った人が、「なるほどそういう面もあるかもしれない」と共感する人が多ければ真理として認識されやすく、共感する人が少なければ正しくないと思われるような気がします。

 自然科学や一部の社会科学のように、現実世界の現象と突き合わせて、証拠を提示することが難しそうです。日常会話の場合は、完全には無理でしょうがある程度はインタビューや調査票などで話の受け手がどのように感じたか、ということを把握することは可能でしょう。しかし、神話のように話し手だけではなく、聞き手もその意味を掴みかねているような場合は、さらに検証が難しくなると思います。

 このように、仮説の検証において、客観的な証拠を提示できる場合と、人々の共感に依存している場合とがあると思います。後者の場合、科学と呼んでよいのかどうか・・・あくまで定義の問題でしょうが・・・あるいは脳科学やその他技術が進めば証拠を提示することができるようになるのかもしれませんが。

 後者(仮説の検証が、人々の共感に依存している場合)について、もう少し考えをまとめていきたいです。

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2009年6月 9日 (火)

『レヴィ=ストロース 構造』その3

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)は、今第四章を読んでいるところです。
 第三章「旅の終わり」まで読んでみて、この思考の方向性は結局、生物学や脳科学に行きつくのかなぁ、という印象を持ちました。

 レヴィ=ストロースの説明は、普遍的な構造(どの程度普遍的かどうかはわかりませんが)というものがある、というところまでは説明していますが、なぜそうなったのか、というところまでは証明されているわけではない、と感じました。その後の説明は、様々な思想が入り込んでいて、科学的と言えるのかどうか疑問です(これについては、最後まで読んでみてからまた考えたいです)。

 結局のところ、普遍的構造とは、生物としての人間の共通性のことでもあると思います。前にも書きましたが、「無意識の構造」とは(脳を含めた)人間の体の構造のことでもあると思います。第二章(107ページ)では、インセストの禁止の原因について生物学的説明を否定していますが、生物学的側面といいつつ、遺伝学のみからしか説明されていないのは、やはりおかしいと思います。
 いろいろなものが「無意識」ということで一からげにされてしまい、何か特殊なもののように扱われているようにも感じられます。

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 今ある社会は、生物としての人間が持つ普遍的なもの、そしてそれぞれの人々(ひょっとしてその地域の人々)の持つ特殊な性質、そして人々が住む自然環境、さらには周囲に住む人々との関係、それらがすべてからみあって、できているのだと思います。

 共通項を見つけて、人間はすべて一緒だ、ということもできるし、違いを探して、それぞれが違うんだと言うこともできます。

 また、普遍的な構造があったとしても、それは合理的、非合理的とは別の次元の話だと思います。

 今、この世界に生きている人たちは、どんな生き方をたどってきたのかにかかわらず、なんとか生きて今にいたっています。豊かであろうと貧しかろうと、とにかく生き延びて現在に至っています。
 それゆえに、視点を変えさえすれば、世界中のどこの民族も、それぞれ「合理的」に生きている、と説明はいくらでもできると思います。あるいは、死に絶えてしまった人たち、あるいは民族(たとえばの話ですが)にさえ、視点によっては、ある論理のもとでは合理的なのだ、と説明することが可能でしょう。
 つまり、その「視点」をどこにおいているのか、ということを明確に認識することが大事なのだと思います。観察者・分析者の「視点」をぼかして説明したところで、結局何の証明にもならないでしょう。

 「歴史の主体とは何か」とか、「主体を抜き去る」とか、「主体」という言葉にまつわるものが、言葉の遊びのように思えてしまうのです。

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2009年5月24日 (日)

『レヴィ=ストロース 構造』その2

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)は、ときどき、気が向いたときに、進んだり戻ったりしながら読んでいます。第三章の途中だったのですが、再び第二章に戻ってみました。

 第二章「声とインセスト」ですが、なかなかしっくりと来ないというか、すっきりと理解ができません。いくつか疑問点を挙げてみます。

1.無意識とは?

 ヤコブソンの「弁別特性」ですが、これは本当に人間の無意識の産物、と言ってしまってよいのでしょうか?

 たとえば、開/閉、前方/後方、円唇化/非円唇化、などと分類できる母音、あるいは破裂音であるpとbが「無声」「有声」と対をなしているとか、これらのことは、人間の意識・無意識、というよりは、人間の体(とくに発声に関する部分)の構造によるものなのではないか、ということです。人間の体の構造により、おのずから発声できる声・音の種類は限られてきます。

 一方、たしかに文法についていえば、単に体の構造というよりは、脳の構造といった方が良いのかもしれません。無意識の構造、という言い方もそんなに外れていないような気もします。

 このように、無意識の構造といっても、人体の構造に規定されているものから、脳あるいはその他のものに規定されているものなど、いろいろあると思います。それらを「無意識」とひとまとめにしてしまっても良いのかどうか・・・?
 
 いずれにせよ、言語というものは、生物としての人間の構造によっても規定されているものであり(もちろんその他さまざまな要因の影響もあるでしょう)、親族の構造についても、同じことが言えるのかもしれません。たとえば、ある程度は人間の生物的な性質の影響が厳密でない形で影響を及ぼしている可能性もあるのでは、ということです。(実際そのような要因があるというニュースを聞いたことがあるのですが、詳しいことについては知らないので、ここで述べるのは控えておきます)


2.いったい何を説明したいのか?

 「体系は自明だったが、機能は知られていない」という親族の構造について、

 親族関係の構造における、「精神構造」は
①規則としての規則の必然性
②自己と他者の対立を統合しうるもっとも直接的な形式としての互酬性の概念
③ある個人から別の個人への価値物の移転が、二人をパートナーに変え、価値物に新たな性質を与えるという贈与の総合的な性質

これらが、女性の授受をもたらす直接的要因としてつながりが明確に示されているようにも思えません。

 この第二章で読んだかぎりでは、レヴィ=ストロースの理論は、女性どうしを交換したら、このような社会構造になった、というところを説明していますが、それ以上のことは説明していないのでは、とも感じられます。
(当然、それはそれで立派な理論だとは思いますが)

 インセストを避けたいために他の婚姻クラスから女性を受け取るのか、身内以外の女性と結婚したいために、他の婚姻クラスから女性を探すのか、結果としては同じことでも、その理由というものは結局わからない、ということのようにも思えます。

 たとえば、規則としての規則、とか交換のための交換、というのは説明になっていません。それは、生物としての人間が規則を欲している、あるいは交換を欲する生き物なのである、という説明と同義であると思います。
つまり、人間の生物学的(?)な欲求、ということになってしまうような気がします。

 そのものの周囲にあるものとの因果関係を捨てて、そのもの自体・そのものの内部にある構造を見つけ、それをその存在意義にする、という論理構成自体に、無理があるのでは?という気もします。

 とりあえず途中経過です。まだ最後まで読んでいないし、誤解している部分もあるかもしれません。『構造人類学』も読んでおきたいです。

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2009年5月20日 (水)

一元的に説明できる理論への誘惑

 『社会科学の方法 -ヴェーバーとマルクス-』(大塚久雄著、岩波新書)は、学生だったときに読んだ記憶があります。内容については全く忘れてしまっていたのですが・・・先日、たまたま本屋で見つけたので、読み直してみました。

 大塚氏は、日本のマルキシズムの問題点についても触れられています。

 「日本のばあいには、明治以来いろんな思想や科学諸部門の研究成果がごちゃごちゃと一緒に入ってきたばかりでなく、文化統合の原理についても、宗教と科学をわかつ一線がまだ十分に明確に認識されないままのところへ、マルキシズムがそういう原理として、唯物論という一貫した理論をもちこんできたものですから、ひじょうに大きな衝撃を与えることになった。」
 「なかには、経済学さえやればいいのだ、あとはやらなくていいという人さえあるという話すら聞きます。経済さえわかっていれば、あとのことはみなわかるはずだ。」
(202~203ページ)

 念のために記しておきますが、この本は1960年代に書かれたものです。さすがに、現在では経済学さえやればいい、という人はほとんどいないとは思いますが・・・
 しかし、私の学生時代にも『資本論』をバイブルのように使う研究者を見かけたこともあります。講義では、労農派と講座派どちらか?とか言う先生もいらっしゃいました。私は労農派だとか・・・
(世界中の国々がみな同じ経過をたどって社会主義になるのだ、あるいはなるべきだ、と考えている人は今ではほとんどいないでしょうが)
 
 ただ、「文化統合の原理」というものが実際存在するのか、そもそも存在する必要があるのか・・・?
という疑問もあります。

 それにしても、なんでも一元的に説明できる理論・法則というものへの誘惑は大きなものなのだな、と感じます。

 人は、現在や未来について分析・予測する際、何らかの基準を持っていれば、より安心して生活できると思います。とくにある要因のみから一元的にこの世界を分析できるような理論があれば、確かにそれにすがりたくなる気持ちも出てくるでしょう。
 それは、宗教における神様に似ているようにも思えます。生産力で何でも説明できるかのような説明をする唯物論というかマルクス主義の理論(ただし、マルクス自身はそう言い切っていたわけでもなさそうです)、包括適応度の理論、唯脳論、etc.・・・

 なんでも単一の理論にあてはめて説明できれば便利ではありますが、あくまで理論というものは、社会をある一面から見る道具にしかすぎません。

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 『社会科学の方法 -ヴェーバーとマルクス-』については、下のような視点で読んでいました。

1.「疎外」について・・・疎外は経済活動以外においても起こりうるものではないのか、マルクス経済学では経済理論が科学となるための前提のように扱われているようであるが、本当にそうなのか?
(このあたりは資本論などを検証してみる必要がありそうです)

2.必然・偶然とは?・・・この世界は様々な要素が影響しあいながら動いています。その因果の複雑な網の目のうち、

人間がその因果をたどれた(と感じた)ものについては→必然
人間がその因果をたどれなかったものについては→偶然

と呼んでいるにすぎないのです。

 貨幣の必然性(25ページ)、偶然的な自由(29ページ)という言葉にちょっとひっかかったもので・・・

3.自由な意思について

 これはこのブログの3章で取り扱っている問題ですが、1の疎外の問題や2の必然・偶然の問題とも関連しているかもしれません。
 そもそも「自由」という言葉自体が人間の作り出した限定された概念にすぎません。人間の意志といえども、この世界の複雑な因果の網の目の外側に出るものではありません。

4.社会科学と自然科学について

 大塚氏によると、ヴェーバーも基本的には自然科学と社会科学と根本的に変わるところはない、と考えていたようです。ただ、社会科学の場合、人の意思決定が入り込むことで、手法もそれに合わせたものである必要がある、ということです(いわゆる理念型)。

5.文化統合の理論

 そういうものが成り立ちうるのか、あるいは本当に必要なのか?

 これらの視点について、後日、まとめてみようと思います。

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2009年5月16日 (土)

理念型とは?

 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)を読んでも、今一つしっくりこないので、『理解社会学のカテゴリー』(マックス・ウェーバー著、林道義訳、岩波書店)と、『社会学の根本概念』(マックス・ヴェーバー著、清水幾太郎訳、岩波書店)の前半部分を読みながら、さらに考えていたら、「理念型」について、だんだんとすっきり理解できるようになりました。

 理念型を作りだし、それに従って社会を見る方法は、人が日常的に行っているものの見方の一つであるように思われます。

 人が他人の行為を見る場合、

 まず、その人の置かれた状況により、どんな動機(欲望、欲求、目的)を持ちうるか想像します。すると、その動機に従えばどのような行為をとるべきか、ある程度は考えが浮かぶでしょう。

 そして、その人(他人)の実際の行為を見て実際にその予想通りだったら、合理的な行動だなと納得するでしょうし、もし違っていたら、なぜそんなことをするんだ?自分ならこうするのに、あるいは自分が想像していたのとは違う動機がその人にあったのかも?と疑問に思うでしょう。

 社会学研究においては、そのやり方を論理的により厳密化した上で行おう、そして人間の動機というものが分析の中に入り込んでいるこをと明確に認識しよう、ということでしょう。

 さらに、下の事柄について考えてみました。

1.(主観的)意味=動機=欲望=目的であること

 ヴェーバーの理念型に関する記述をわかりにくくしているのは、「意味」という言葉でしょう。主観的意味とか、意味連関とか、意味がある行為とかない行為とか・・・
 これらの「意味」という言葉を「動機」と書き換えてみると、非常にすっきりと理解ができると思います。

 『理解社会学のカテゴリー』の訳者の解説においては、

 「まず、「主観的意味」ということであるが、これをウェーバーはときにはMotivといい変えることもある。このMotivはやはり「動機」と訳さざるをえないと思うが、しかし日本語の「動機」とすると、一方ではわかりやすくなる反面、どうもいくたの誤解を生むもとになっているように思えてならない。私は本論文のように、あくまで「主観的意味」で押し通すべきだと考える。というのは、「主観的意味」というのは、単なる人間行動の「意図」とか「目的」とかいう意味の「動機」でもなければ、また単なる本能的衝動(食・性・原始宗教心・金銭欲など)という意味での「動機」でもない。そういうものも含むけれど、それとはやや感じのちがうものである。」(『理解社会学のカテゴリー』訳者解説の108ページより)

 また、ヴェーバー自身も、理念型をつくりあげる際の主観的意味(動機?)について述べるとき、心理学的な欲望のようなものとは違うと述べています。

 「たとえば「利益追求」というような範疇は「心理学」の中には存在しない。」(『理解社会学のカテゴリー』17ページ)

 このような言葉をそのまま理解しようとすると、いったい理念型の中の動機とは・・・?と頭が混乱してしまいます。
 私自身、考えてみて気づいたのは、結局のところ、これは分析者(=理念型をつくる人)自身の頭の中にある欲望・欲求のカテゴリーなのではないか、ということです。
 たとえば、人間の感情・情動の分類においては、現時点においても定説というものがないようです。研究者の視点によってさまざまな分類方法が併存しています。同じように、人間の欲望・欲求というものも、分析者の視点によって様々に分類が可能です。
 たとえば、本能的欲求・理性的な欲求、という分類も可能でしょうし、利益追及・理念追求・慣習追従、食欲・性欲・名誉欲・○○欲・・・など、あるいは心理学においては分析目的に応じてさらに細かい欲求の分類がなされていると思います。
 人が分析対象となる他人の行為の動機を推測する際には、必然的に、分析者の視点による動機・欲望のカテゴリーが準備されているのです(図1 理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その1)。

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図1 理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その1

 
 
 「利益追求」という範疇が心理学にないとヴェーバーが述べているとしても、それはあくまで心理的な欲求の一つのカテゴリーであるわけです。心理学の分析目的と視点が違うためにカテゴリーが異なっているにすぎません。

 そして、「意味」というものが、人間の欲望、欲求の反映であることは、すでに述べています(「意味とは? ~ 意味が生じるプロセス」の記事を参考にしてください)。

 このように、意味という言葉に惑わされなければ、かなりすっきりと理解ができるようになるのでは、と思います。

 
 そして、次にヴェーバーの言う社会学的手法と、心理学的手法との差異はあくまで相対的なものでしかない、ということを図2(理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その2)に示しました。

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図2(理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その2

 ヴェーバー自身も、動機・意味が理解できる行動や、理解できない心的ないし生理的事実、その他の間は明確な境界によって分離できるものではないとは述べています。(『理解社会学のカテゴリー』26~27ページ)

 ただ、図2のように、学問としての社会学的手法と心理学的手法との間についても、同じように明確な境界はないのだ、ということを認識していたかどうかはわかりません。

2.どこを起点にして分析するのか

 この世界は、様々な要素がお互いに影響しあう、因果関係の網の目のようなものです。それは人間の心理についても言えることです。本能でさえ、何もないところから自動的に出てきたものではなく、様々な要因が重なり合った上で発生してくるものなのです。

 ヴェーバーは、人の意志は、それ以上さかのぼることのできない、そしてそれ以上説明不能なものである、と認識しているように思えます。しかし、人間の意識もその因果関係の網の目から抜け出ているものではありません。

 ですから、様々な要因が人間の心理に与える影響という研究自体も当然存在しうるし、実際存在しているわけです。
 ただ、利益追求、理念追求・・・といったような大雑把な欲求のカテゴリーを設定してしまった場合は、その心理に与える影響についての分析が非常に困難になる面もあるとは思います。
 人間の心理・意志がそれ以上さかのぼることのできない究極的なものだから分析ができないのではなく、その前提となる心理・意志・欲望のカテゴリーが大雑把である場合は、そのカテゴリーの中にさらに多様な欲求を含んでいるため、分析が困難にならざるをえない、ということであると思います。

 結局のところ、ヴェーバーの場合は、動機を起点にして人間の行為を分析したものを「社会学」と呼びましょう、ということであると思います(ヴェーバー自身がそう述べたかどうかは別にして)。

3.「客観性」の根拠についても、さらに考えてみたい

 結局のところ、すべての科学における「客観性」の根拠は、現実社会・現実世界(宇宙全体含む)です。すべての理論は現実世界と比較された上で、正しい・間違いと検証されていきます。
 ただ、その現実世界の認識、正しい・間違いという認識を行う際、どうしても人間の生物的な限界というものが出てきます。
 そのあたりは、竹田青嗣さんの『現象学入門』あたりもヒントにして、別の機会に述べてみたいと思います。

※ 本により、「ヴェーバー」だったり「ウェーバー」だったりするのですが、引用部分は統一せずにそのままにしておきました。

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2009年5月 6日 (水)

遺伝子に操られる・・・? 遺伝子に逆らう・・・?

 包括適応度のところのコメントに対する回答を、もっと納得できるような内容にしたいので、ゲーム理論についてもう一度ちゃんと見直しておいた方が良いかな・・・

・・・と思い、『生命の意味 進化生態からみた教養の生物学』(桑村哲生著 裳華房)を読んでいたら、下のような文章が目に入りました。

「ただし、人間だけは血縁選択でもなく互恵的でもない、純粋な利他行動もできるように思います。ただし、そういう行動がとれるのは、遺伝子に操られるのではなくて、遺伝子に逆らって、理性的にふるまえる人に限られるはずです」(138ページ)
(引用はここまでです)

 「遺伝子に操られる」「遺伝子に逆らう」という表現のところに、どうもひっかかってしまいます。人間のすべての生命活動において、遺伝子が何らかの形で関与しているわけです。人の行為は遺伝子に逆らって行われているのではありません。人が理性的な(と一般的に言われているような)行為を行う場合も、あくまで環境と遺伝子の相互作用の中で起こった出来事なわけです。
 理性的(と言われる)行為も、遺伝子の関与なくしてはありえないと思います。

 つまり、遺伝子にそのような限界があるのではなく、

<遺伝子の関与→血縁選択・互恵的な行為>

という理論に縛られている人たちの思考パターンに限界があるのだと思います。

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