『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)を読んでも、今一つしっくりこないので、『理解社会学のカテゴリー』(マックス・ウェーバー著、林道義訳、岩波書店)と、『社会学の根本概念』(マックス・ヴェーバー著、清水幾太郎訳、岩波書店)の前半部分を読みながら、さらに考えていたら、「理念型」について、だんだんとすっきり理解できるようになりました。
理念型を作りだし、それに従って社会を見る方法は、人が日常的に行っているものの見方の一つであるように思われます。
人が他人の行為を見る場合、
まず、その人の置かれた状況により、どんな動機(欲望、欲求、目的)を持ちうるか想像します。すると、その動機に従えばどのような行為をとるべきか、ある程度は考えが浮かぶでしょう。
そして、その人(他人)の実際の行為を見て実際にその予想通りだったら、合理的な行動だなと納得するでしょうし、もし違っていたら、なぜそんなことをするんだ?自分ならこうするのに、あるいは自分が想像していたのとは違う動機がその人にあったのかも?と疑問に思うでしょう。
社会学研究においては、そのやり方を論理的により厳密化した上で行おう、そして人間の動機というものが分析の中に入り込んでいるこをと明確に認識しよう、ということでしょう。
さらに、下の事柄について考えてみました。
1.(主観的)意味=動機=欲望=目的であること
ヴェーバーの理念型に関する記述をわかりにくくしているのは、「意味」という言葉でしょう。主観的意味とか、意味連関とか、意味がある行為とかない行為とか・・・
これらの「意味」という言葉を「動機」と書き換えてみると、非常にすっきりと理解ができると思います。
『理解社会学のカテゴリー』の訳者の解説においては、
「まず、「主観的意味」ということであるが、これをウェーバーはときにはMotivといい変えることもある。このMotivはやはり「動機」と訳さざるをえないと思うが、しかし日本語の「動機」とすると、一方ではわかりやすくなる反面、どうもいくたの誤解を生むもとになっているように思えてならない。私は本論文のように、あくまで「主観的意味」で押し通すべきだと考える。というのは、「主観的意味」というのは、単なる人間行動の「意図」とか「目的」とかいう意味の「動機」でもなければ、また単なる本能的衝動(食・性・原始宗教心・金銭欲など)という意味での「動機」でもない。そういうものも含むけれど、それとはやや感じのちがうものである。」(『理解社会学のカテゴリー』訳者解説の108ページより)
また、ヴェーバー自身も、理念型をつくりあげる際の主観的意味(動機?)について述べるとき、心理学的な欲望のようなものとは違うと述べています。
「たとえば「利益追求」というような範疇は「心理学」の中には存在しない。」(『理解社会学のカテゴリー』17ページ)
このような言葉をそのまま理解しようとすると、いったい理念型の中の動機とは・・・?と頭が混乱してしまいます。
私自身、考えてみて気づいたのは、結局のところ、これは分析者(=理念型をつくる人)自身の頭の中にある欲望・欲求のカテゴリーなのではないか、ということです。
たとえば、人間の感情・情動の分類においては、現時点においても定説というものがないようです。研究者の視点によってさまざまな分類方法が併存しています。同じように、人間の欲望・欲求というものも、分析者の視点によって様々に分類が可能です。
たとえば、本能的欲求・理性的な欲求、という分類も可能でしょうし、利益追及・理念追求・慣習追従、食欲・性欲・名誉欲・○○欲・・・など、あるいは心理学においては分析目的に応じてさらに細かい欲求の分類がなされていると思います。
人が分析対象となる他人の行為の動機を推測する際には、必然的に、分析者の視点による動機・欲望のカテゴリーが準備されているのです(図1 理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その1)。
図1 理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その1
「利益追求」という範疇が心理学にないとヴェーバーが述べているとしても、それはあくまで心理的な欲求の一つのカテゴリーであるわけです。心理学の分析目的と視点が違うためにカテゴリーが異なっているにすぎません。
そして、「意味」というものが、人間の欲望、欲求の反映であることは、すでに述べています(「意味とは? ~ 意味が生じるプロセス」の記事を参考にしてください)。
このように、意味という言葉に惑わされなければ、かなりすっきりと理解ができるようになるのでは、と思います。
そして、次にヴェーバーの言う社会学的手法と、心理学的手法との差異はあくまで相対的なものでしかない、ということを図2(理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その2)に示しました。
図2(理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その2
ヴェーバー自身も、動機・意味が理解できる行動や、理解できない心的ないし生理的事実、その他の間は明確な境界によって分離できるものではないとは述べています。(『理解社会学のカテゴリー』26~27ページ)
ただ、図2のように、学問としての社会学的手法と心理学的手法との間についても、同じように明確な境界はないのだ、ということを認識していたかどうかはわかりません。
2.どこを起点にして分析するのか
この世界は、様々な要素がお互いに影響しあう、因果関係の網の目のようなものです。それは人間の心理についても言えることです。本能でさえ、何もないところから自動的に出てきたものではなく、様々な要因が重なり合った上で発生してくるものなのです。
ヴェーバーは、人の意志は、それ以上さかのぼることのできない、そしてそれ以上説明不能なものである、と認識しているように思えます。しかし、人間の意識もその因果関係の網の目から抜け出ているものではありません。
ですから、様々な要因が人間の心理に与える影響という研究自体も当然存在しうるし、実際存在しているわけです。
ただ、利益追求、理念追求・・・といったような大雑把な欲求のカテゴリーを設定してしまった場合は、その心理に与える影響についての分析が非常に困難になる面もあるとは思います。
人間の心理・意志がそれ以上さかのぼることのできない究極的なものだから分析ができないのではなく、その前提となる心理・意志・欲望のカテゴリーが大雑把である場合は、そのカテゴリーの中にさらに多様な欲求を含んでいるため、分析が困難にならざるをえない、ということであると思います。
結局のところ、ヴェーバーの場合は、動機を起点にして人間の行為を分析したものを「社会学」と呼びましょう、ということであると思います(ヴェーバー自身がそう述べたかどうかは別にして)。
3.「客観性」の根拠についても、さらに考えてみたい
結局のところ、すべての科学における「客観性」の根拠は、現実社会・現実世界(宇宙全体含む)です。すべての理論は現実世界と比較された上で、正しい・間違いと検証されていきます。
ただ、その現実世界の認識、正しい・間違いという認識を行う際、どうしても人間の生物的な限界というものが出てきます。
そのあたりは、竹田青嗣さんの『現象学入門』あたりもヒントにして、別の機会に述べてみたいと思います。
※ 本により、「ヴェーバー」だったり「ウェーバー」だったりするのですが、引用部分は統一せずにそのままにしておきました。
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