「本質」がそうであったように、「意味」というものも、そのものを見る人の目的意識によって変わってきます。何の前提も与えられていない場合、そのものには何の意味も生じません。
この世界の中にあるものは互いに影響を与え合って存在していると思います。しかし影響しあっているということは、ただそうなっているという事実がある、それだけのことです。それ以上でもそれ以下でもありません。その相互関係に「意味」があると思うのは、人間がそのように感じる・考えるからそう思うようになるのです。
「意味」という言葉は人間が頭の中で(少々言葉が悪いですが)勝手に考え出した概念・観念にしかすぎません。人が勝手に意味があるとか、役に立っているとか、この世界に対してレッテルを貼っているだけなのです。
いまひとつ納得がいかないかもしれないので、「意味」というものが生じるプロセスについていくつかパターンを示してみたいと思います。
1.人が世界の一部を見て感情・欲求(欲望)を抱く場合
Xという人が、目の前に広がる世界からAというモノを見つけて食べたいと思ったとします (図A-1)。そのとき、AはXにとって、「おいしそうな食べ物」という価値、あるいは機能を持ったことになります。Aを食べたいと思う人がいなければ、Aにそのような価値・機能がつけられることはありません。
そして、このAというモノが、私たちが普通に「リンゴ」と呼んでいるものだったとします。 すると、Aは、「赤い」「ちょっといびつな球体」「良い香りがする」などの特徴を持っています。この特徴は、Xという人が目の前に広がっている世界の中からAを抽出する、見つけ出すための指標となります。
そのとき、XにとってAの意味というものが、
(1)Aを他の世界から見分けるためのAの特徴
・・・「赤い」「いびつな球体」「良い匂い」など
(2)XにとってのAの価値・機能
・・・「食べられるもの」「おいしいもの」など
という形をとって現れます。言い換えると、上記の(1)と(2)に対して「意味」という概念が与えられているわけです。このように、Xという人がAというモノを見て何らかの目的意識・感情を抱いたときに、「意味」というものが生じてくるのです。
人が記憶したイメージ(五感を通じて獲得されたモノへのイメージ)に、たとえばリンゴ という名前がつけられ、言語と意味とが結びつけば、それを多数の人の間で共有することができます。私たちが辞書を引くと、言語とその意味とがセットになって並んでいます。それらの意味 は、それぞれの概念に対して人々が抱く意味のうちの最大公約数的なものしか書かれていません。とくに上記の(2)の意味については、見る人によって少々異なることがあるかもしれません。リンゴをおいしいと思う人もいれば、おいしくないと思う人がいるでしょうし、ある人にとってはリンゴは「病気のときにいつも親に食べさせてもらったもの」「悲しいときに食べて癒された」というようなその人しか持っていない価値があるでしょう。それらも、その人にとっては立派な「意味」「価値」をなしています。しかし、特定の人にしか通用しない意味は、多くの人がその言葉・概念を使用するようになると削り落とされ、たとえば辞書に載っているような最大公約数的な意味のみが人々に共有されるようになります。
このように、人があるモノに対して感情・欲求を抱くことにより、そのモノに意味が生じているのですが、言語によりそのモノの概念が多くの人に共有される中で、まるでそのモノにもともと意味というものが付着・内蔵されているかのような錯覚に陥ってしまっているのです。
2.分類による概念の形成
意味には、(1)そのモノ(あるいは現象)を世界の中から区別するための特徴、(2)そのモノ(現象)の機能・価値、があると前に述べましたが、(1)のみが意味として認識されることもあります。それは、当面のところ人間にとって直接利害がなさそうなものだが、人間がこの世界を理解したいという欲求に従って、世界の中の一部分のモノ・現象を、特定の基準に従って区分・分類し、それぞれに名前をつけ、納得しようとする場合です。人間は、植物や動物、鉱物や天体、などいろいろなカテゴリーの中で、様々な基準を用いて分類し、世界を理解しようとします(図A-2)。そのような場合、形態や性質など、分類の基準がそのものの意味となります。もちろん、その基準も人間自身が考え出した、見出したものです。
また、分類されたそれぞれのモノ・現象に対し、人々が直接の利害を持つようになったり、欲望を抱くようになることもあります。そのような場合は、(2)の意味(機能や価値)も生じてくるでしょう。
3.特定の論理体系の中における相互作用を認識する場合
図A-3に示されているように、Xという人が、眼前に広がってる世界の一部を抽出し、その要素間に何らかの関係、相互作用を認めたとします。A、Bというモノ・要素がYという現象を引き起こす要因になっている、あるいはYという現象を生じるためにA、Bというモノが必要であると認めた場合、A、BはYに対して役に立っている。つまり意味がある、と考えます。CというモノがYという現象に対し何らかかわりを持たない(とXが感じている)とき、、CはYに対し「役に立たない」、「意味をなしていない」と考えます。
とくにXという人が、Yという現象を好ましい、そうあってほしいと感じているとき、A、Bの要素を「意味あるもの」と感じ、Cという要素を「意味のないもの」、と認識する傾向が強くなります。
このように、「意味」は、人が何らかの目的意識、欲求・感情を抱くことによって生じてきます。繰り返しますが、「意味」とは人が考え出した観念・概念にしかすぎません。
しかし、人が生きていく上で「意味」というのは非常に重要な意味を持ってきます。自らが他の人にとって何者かであってほしい、何らかの影響を与える人でいたい、あるいは現在の苦しみが何らかの意義を人生に対して持っていてほしい、という希望・欲求があるからです。「意味」とは一定の条件の下で生じてくるものでしかありませんが、だからといって、決して人にとって「意味」「価値」がないわけではないとも言えます。
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