2006年10月12日 (木)

本質とは?

 まず、「本質」というものについて考えてみましょう。

 目の前においてある石、その本質とは何でしょうか?それは一つの物体であるし、いくつもの分子・原子が集まったものであるし、陽子・中性子、電子が集まったものでもあるし、さらに小さい素粒子の集まったものでもあります。何か色や形を持ったものでもあるし、何か匂い(?)を持ったものかもしれません。

 物や現象はいろいろな属性(その数は無数にあるかもしれない)を含んでいますが、何の前提も与えられない場合は、そのうち何が重要なのかなんて、決めることができません。一番大事なもの、あるいは本質、という場合、それら属性のうち、どれが最も重要なのか(あるいはどれとどれの統合物が重要なのか)、つまり何にとって一番重要なのかと考えるとき、既に、その物事を見る人に目的意識が働いていることになります。

 たとえば、物質の成分に関心を持っている人にとっては、目の前にある石の本質とは、その石を構成する化学物質なのかもしれません。その石がなんらかの鉱物を含んでいた場合、それを利用したい人にとっては、その石の本質はそれが鉱物を含んでいる、ということであって他のことについてはどうでもよいかもしれません。その石をどこかに飾りたいと考える人にとっては、その石の形が美しいかどうかが本質的なことになるかもしれません。ある人にとっては、その石が途方もなく長い年月を得て目の前にあること、この事実が本質となるかもしれません。

 物事の「本質」というものが物事そのものに内在しているのではありません。人間が何らかの目的意識を持ったときに、はじめて物事の「本質」が生じてくる、ということなのです。目的意識、つまり物事・現象を見る人の欲求、欲望の方向性によって、「本質」というものも規定されるのです。

 これは、「意味」というものについても同じです。意味というものも、まず人間の欲求・欲望(つまり行為・認識の目的)があり、それに基づいて世界を見る場合に初めて生じてくるものなのです。

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2006年11月 1日 (水)

意味とは? ~ 意味が生じるプロセス

 「本質」がそうであったように、「意味」というものも、そのものを見る人の目的意識によって変わってきます。何の前提も与えられていない場合、そのものには何の意味も生じません。

 この世界の中にあるものは互いに影響を与え合って存在していると思います。しかし影響しあっているということは、ただそうなっているという事実がある、それだけのことです。それ以上でもそれ以下でもありません。その相互関係に「意味」があると思うのは、人間がそのように感じる・考えるからそう思うようになるのです。

 「意味」という言葉は人間が頭の中で(少々言葉が悪いですが)勝手に考え出した概念・観念にしかすぎません。人が勝手に意味があるとか、役に立っているとか、この世界に対してレッテルを貼っているだけなのです。

 いまひとつ納得がいかないかもしれないので、「意味」というものが生じるプロセスについていくつかパターンを示してみたいと思います。

1.人が世界の一部を見て感情・欲求(欲望)を抱く場合

Meaning01 Xという人が、目の前に広がる世界からAというモノを見つけて食べたいと思ったとします (図A-1)。そのとき、AはXにとって、「おいしそうな食べ物」という価値、あるいは機能を持ったことになります。Aを食べたいと思う人がいなければ、Aにそのような価値・機能がつけられることはありません。

 そして、このAというモノが、私たちが普通に「リンゴ」と呼んでいるものだったとします。 すると、Aは、「赤い」「ちょっといびつな球体」「良い香りがする」などの特徴を持っています。この特徴は、Xという人が目の前に広がっている世界の中からAを抽出する、見つけ出すための指標となります。

 そのとき、XにとってAの意味というものが、

(1)Aを他の世界から見分けるためのAの特徴
      ・・・「赤い」「いびつな球体」「良い匂い」など
(2)XにとってのAの価値・機能
      ・・・「食べられるもの」「おいしいもの」など

という形をとって現れます。言い換えると、上記の(1)と(2)に対して「意味」という概念が与えられているわけです。このように、Xという人がAというモノを見て何らかの目的意識・感情を抱いたときに、「意味」というものが生じてくるのです。

 人が記憶したイメージ(五感を通じて獲得されたモノへのイメージ)に、たとえばリンゴ という名前がつけられ、言語と意味とが結びつけば、それを多数の人の間で共有することができます。私たちが辞書を引くと、言語とその意味とがセットになって並んでいます。それらの意味 は、それぞれの概念に対して人々が抱く意味のうちの最大公約数的なものしか書かれていません。とくに上記の(2)の意味については、見る人によって少々異なることがあるかもしれません。リンゴをおいしいと思う人もいれば、おいしくないと思う人がいるでしょうし、ある人にとってはリンゴは「病気のときにいつも親に食べさせてもらったもの」「悲しいときに食べて癒された」というようなその人しか持っていない価値があるでしょう。それらも、その人にとっては立派な「意味」「価値」をなしています。しかし、特定の人にしか通用しない意味は、多くの人がその言葉・概念を使用するようになると削り落とされ、たとえば辞書に載っているような最大公約数的な意味のみが人々に共有されるようになります。

 このように、人があるモノに対して感情・欲求を抱くことにより、そのモノに意味が生じているのですが、言語によりそのモノの概念が多くの人に共有される中で、まるでそのモノにもともと意味というものが付着・内蔵されているかのような錯覚に陥ってしまっているのです。

2.分類による概念の形成

Meaning02 意味には、(1)そのモノ(あるいは現象)を世界の中から区別するための特徴、(2)そのモノ(現象)の機能・価値、があると前に述べましたが、(1)のみが意味として認識されることもあります。それは、当面のところ人間にとって直接利害がなさそうなものだが、人間がこの世界を理解したいという欲求に従って、世界の中の一部分のモノ・現象を、特定の基準に従って区分・分類し、それぞれに名前をつけ、納得しようとする場合です。人間は、植物や動物、鉱物や天体、などいろいろなカテゴリーの中で、様々な基準を用いて分類し、世界を理解しようとします(図A-2)。そのような場合、形態や性質など、分類の基準がそのものの意味となります。もちろん、その基準も人間自身が考え出した、見出したものです。

 また、分類されたそれぞれのモノ・現象に対し、人々が直接の利害を持つようになったり、欲望を抱くようになることもあります。そのような場合は、(2)の意味(機能や価値)も生じてくるでしょう。

3.特定の論理体系の中における相互作用を認識する場合

Meaning03 図A-3に示されているように、Xという人が、眼前に広がってる世界の一部を抽出し、その要素間に何らかの関係、相互作用を認めたとします。A、Bというモノ・要素がYという現象を引き起こす要因になっている、あるいはYという現象を生じるためにA、Bというモノが必要であると認めた場合、A、BはYに対して役に立っている。つまり意味がある、と考えます。CというモノがYという現象に対し何らかかわりを持たない(とXが感じている)とき、、CはYに対し「役に立たない」、「意味をなしていない」と考えます。

 とくにXという人が、Yという現象を好ましい、そうあってほしいと感じているとき、A、Bの要素を「意味あるもの」と感じ、Cという要素を「意味のないもの」、と認識する傾向が強くなります。


 このように、「意味」は、人が何らかの目的意識、欲求・感情を抱くことによって生じてきます。繰り返しますが、「意味」とは人が考え出した観念・概念にしかすぎません。

 しかし、人が生きていく上で「意味」というのは非常に重要な意味を持ってきます。自らが他の人にとって何者かであってほしい、何らかの影響を与える人でいたい、あるいは現在の苦しみが何らかの意義を人生に対して持っていてほしい、という希望・欲求があるからです。「意味」とは一定の条件の下で生じてくるものでしかありませんが、だからといって、決して人にとって「意味」「価値」がないわけではないとも言えます。

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2006年12月16日 (土)

「生きる意味」の問いについて

 前に述べましたが、「意味」とはあくまで人が頭の中で考え出した観念・概念であり、人がこの世界を見るときに何らかの目的意識、欲求・感情を抱くことによって生じてくるものです。

 しかし、人が生きていく上で「意味」というのは非常に重要な意味(価値)を持ってきます。社会に対して役に立つ存在でいたい、他の人に何らかの影響を与える人でいたい、あるいは今の苦しみが無意味であってほしくない、なんらかの意義のあるものであってほしい、といった希望・願望・欲求があるからです。それゆえに、自らの「生きる意味」について考える人も多いのだと思います。

 どういったときに人は「生きる意味」について考えるのか、そしてそれは何を意味しているのか、考えてみました。

(1) 自分がこの社会で役に立っているのか、あるいは役に立ちうる人間なのか疑問に思うとき

 例えば、人の役に立つような仕事をしたくてもそれをやり遂げる自信が持てないときや、自らが出来そうなことややりたいと考えていることと、社会が要求している(と思われる)ことが一致しないと感じられる場合。実際に役に立たないと他の人から言われた場合。自分がやりたいと思うこと、あるいはやっていることに対し、他の人の承認、共感、同意などが得られないために、それが価値あるものなのか自信がなくなっている場合など、そういうときに自らの「生きる意味」があるのかどうか疑問に思うかもしれません。

 これらの疑問・問いは、自らが他の人の役に立ちたい、あるいは他の人になんらかの影響を及ぼす人間でありたい、という欲求の裏返しであるといえます。そのため、自らが打ち込むものを見つけることができたり、思いがけなく人に褒められたり認めてもらったりして自らの欲求が満たされるようになれば、「生きる意味」の問いを真剣に考える必要もなくなってくるでしょう。

(2) 情熱を傾けて打ち込むものが見つからないとき

 とくに人からの同意が得られなくても、自らが情熱を持ってあるものに熱中できることもあるでしょう。そういうものが見つからないと感じる場合、あるいは体調(あるいは心の調子など)やその他さまざまな要因から何事に対しても意欲が湧かない状態があるかもしれません。自らの欲望の方向性などの迷いのために、意味を見出すことができないという状態です。

 これについても、何かに情熱を傾けたい、何事かを成し遂げたいという欲望・願望の裏返しであるといえるでしょう。そのため、自らが情熱や愛情を注ぐことができる人やものを見つけたりすると、「生きる意味」のような問いを真剣に考えるようなこともなくなるでしょう。あるいはそれこそが自らの「生きる意味」である、という結論に至るかもしれません。

(3) 大変な苦労、激しい苦痛に耐えているようなとき

 何でこんな苦しい思いをしてまで生きていかなければならないのか疑問に思うようなとき、自らの生が否定されているような気になっているかもしれません。とくにその苦痛が人間にはどうすることもできないようなものであれば、自らの苦痛が人間社会の外側から意味づけられているように考えなければ乗り越えることが難しいと思う人もいるかもしれません。
 この世界の現象に意味をつけるのは、あくまで人間あるいは(あるとすればですが)人間以外のなんらかの意志ですから、このようなケースにおいて「生きる意味」の問いに決着をつけるためには、①自らがこの社会で役立てる何かを見つけたり、情熱を注ぐものを見つけることができた場合、そして②この世界に存在するものすべてに人間の世界の外側から何らかの意志が働いており、それによって私たちすべてに意味が与えられていると信じるようになる場合の2通りしかありません(「生きる意味」について問うのは自分にとってもう意味がないからやめる、というケースもあるでしょうが)。

 これらのことを考えあわせると、 「生きる意味」の問いは論理的に下の2つに分類されるでしょう。

(a) 私たちが生きている社会における、自らの役割について問うている
・・・自らがこの社会で役に立ちたい、あるいは何事かを成し遂げたいと思う欲求の裏返しといえます。これらの欲求が満たされれば、「生きる意味」について問う必要もなくなってきます。

(b) この世界の背後になんらかの意図があってそれを知りたいと考えている
・・・私たちが住む世界、そして宇宙の背後になんらかの意思が働いていると信じるかどうか(しかも人間とある程度共通した欲望・意思)、つまり神様のようなものを信じるかどうかという問いであるため、結局は私たちの想像の問題になってきます。議論のしようがありません。人それぞれの信念を抱くことは自由ですし、ある人の考えを他人に強制することもできないと思います。
 ただ言えることは、これらも自らの生が無意味なものであってほしくないという欲求・願望の裏返しであると言えます。人間の世界がままならないため、人間世界の外側から意味が与えられていると信じることによって安心感を得る場合もあるでしょう。

 最後に、上の(b)に関連することですが、法則や因果関係・事実関係を明らかにすることとその背後にある意志を感じ取ることとは別の論理である、事実関係をいくら明らかにしてもその意味は明らかにはならない、ということについて説明してこの章を終わりにしようと思います。

 それと、人の「生きる意味」は遺伝子を残すことだ、などと考えている人は、こちらこちらを読んでみて下さい。

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現象の背後にある意図を推測する

Meaning04 図A-4のように、Xという人が要素(要因)α・βを操作することにより現象Aを引き起こしている様子を、人物Yが見ていたとします。そのとき、Yという人は、Xがα・βに働きかけた結果、現象Aが引き起こされたと明確に認識できると思います。つまり出来事・現象の因果関係・事実関係は、(あくまで人間の能力が及ぶ範囲においてではありますが)観察によって明確に把握できます。

 一方、Xという人がどういう気持ち・意図でそのような行為を行ったのかを把握する場合、Yはどうしたらよいのでしょうか?

① Yは自らの経験(他の人から得た情報も含む(*))をもとに、Xの気持ちを推測します。この推測が正しいのかどうかY一人では確かめることができません。Yの見解に対し、多くの人の共感・同意が得られることにより、その見解がより広く認められていきます。
② Xとのコミュニケーションが可能な場合は、Xから直接話を聞けるかもしれません。しかし、そこでXの気持ちが正直に語られているのか、あるいは深層心理としてまた別の考えがあるのではないか、など疑問が抱かれる可能性もあります。Xから語られたものをそのまま受け取るのか、ある程度Y自身で解釈を加えるのかはY次第です。これも、Yの見解に対しより多くの人の共感・同意が得られれば、それがより広く認められていきます。

(*) Yは(心理学などの)科学的な試験などで得られたデータ、情報を用いることができるかもしれません。しかし、これらの科学的データは私たち人間という生物がかなりの程度共通する性質を持っているという前提があるからこそ利用できるものです。また、それらのデータはあくまで近似であり、一つ一つ異なるこの世界の出来事・現象を100%説明できるわけではありません。あくまでYがXの意図を推測する場合の1つの情報として用いられるにすぎません。ただ、それらのデータを用いることによりYの推測の精度を向上させることは可能でしょう。

 このように、観察や調査などにより事実関係や因果関係を把握することと、それに関与した人物の意図について理解することとは、別の論理で行われる作業なのです。

 Yの経験や共感の能力を駆使しての推測によって、Xの意図に関する見解が形づくられ、さらにそのYの見解に対するその他の人たちの共感、同意によって広く認められていくものなのです。ただし、100%正しいと断言できる答えにたどり着いたのかどうか確かめることも非常に難しいのです。Yの見解に対し、その他の人が同意しなかったとします。しかし実際はYの見解はXの真意に近かったのかもしれません。あるいはX自身、自分が何でそんなことをしたのかよく把握できないでいるかもしれません。現象Aを引き起こしたXの真意について世間一般でこうだと多くの人が考えていたとしても、Xは自分の気持ちなんか誰もわかってくれないと思っているかもしれません。

 私たちが、身の周りで起こっている現象を観察し、そこに何らかの意図を感じるのは、あくまで感じる人自身の経験、あるいは生得的・経験的に獲得した共感の能力によるものなのです。そして、私たちがかなりの程度似かよった性質を持つ人間、という共通項を有しているからこそ、(100%正しいと思われる見解が得られるかどうかは別にして)これらの推測が成立しうるのです。

 あくまで仮に、の話ですが、科学が進歩してこの宇宙における様々な要素の因果関係がかなりの程度明らかになったとします。新しい法則がたくさん発見され、宇宙に関する理解が深まっているでしょう。しかし、それでもその因果関係や法則が何を意味しているのかということは、その因果関係・法則それ自体からは当然わかりません。(ある特定の現象に対してある要素が関与している、というニュアンスで意味がある、と限定的に述べることはできます。この記事における3のケースのことです。)

 結局のところ、この世界・宇宙にある要素、現象すべてに意味があると考える人はそれらの背後に何らかの意志を感じている、あるいは意志があると信じているということです。その意志を発生する源(例えば神様)が見えないのは、(科学の進歩も含め)人間の能力が足りないからだと言われれば反論のしようがありません。その一方で、そのような意志を発するものが実際に存在(?)するということを、論理的に証明するすべもありません。

 そして、その「意志」というものを推測するのは、私たち人間です。結局、人間の経験・共感能力に頼るしかありません。しかもその相手が人間と共通した感情・欲望を有しているのかさえわかりません。意思を感じると思った人はそう言うでしょうし、感じないと思う人もいるでしょう。

 いずれにせよ、宗教的な事柄に関しては、その人が信じるかどうかの問題、想像の問題であり、これが正しいのだとすべての人が納得する結論に至ることは不可能です。理屈で議論しても仕方のないことなのです。

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