「包括適応度」の理論や「利己的な遺伝子」の概念に関する誤解
『文化と感情の心理生態学』(荘厳舜哉著、金子書房)の、「文化も遺伝子もその最終目的は個体の包括適応度の増加であることには間違いはない」(20ページ)、(人類の)「環境適応を増加させる目標は同一」(17ページ)、など人類やその他の生物が包括適応度を向上させる目的で生きているかのような記述、『人間性はどこから来たか』(西田利貞著、京都大学学術出版会)における包括適応度の理論の使い方、また『利己的な遺伝子』(リチャードドーキンス著、日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳、紀伊国屋書店)を読んで、人間の生きる意味は、遺伝子を残すことだ、という意見を述べる人たちに対して、私が抱く違和感について説明してみます。
「包括適応度」「血縁選択」などの理論に関して私が問題だと考えているのは、理論そのものではなく、その適用の方法なのです。
まず最初に、これらの理論について知らない人も多いと思いますので、 わかりやすく説明がなされている『文化と感情の心理生態学』34~37ページの内容からの引用を中心に説明してみようと思います。”~”で囲まれた文章の中には、私の意見は含まれていません。あくまで要約です。
”ダーウィンの理論の根幹となる「自然選択」とは、環境から加わるさまざまな選択圧に抗して、最も良く適合した個体の子孫がニッチ(生態学的環境)にその数を増やしていくことを意味します。しかし、自分の繁殖を放棄する個体が存在するハチやアリが滅亡もせず、逆にカスト(階級)に従った高度な社会を作り上げていることに対する説明が、自然選択理論ではできないのです。これを「包括適応度」という概念で、進化生物学的観点から合理的に説明したのがハミルトンでした。
ダーウィンが個体適応を重視したのに対し、ハミルトンは生物としての個体は必ずしも直接の子孫を残さなくても、自分と同じ遺伝子型を持つ個体数が増加すれば、結果的に自分の遺伝子を残すのと同じ適応的価値を持つと考えたのです。個体そのものの適応度を問題とするのではなく、同じ遺伝子型を共有するもの全体がどれだけ子孫を残すことに成功するかが重要である、と指摘しました。
この考えに従えば、遺伝子を共有する他個体を助ける行動は、自分が持っている遺伝子のコピーの増加を図ることと同じ意味を持ちます。ある個体が自分の繁殖を犠牲にしても、そのことで遺伝子を共有する「利他主義」が進化した理由がありました。
ハミルトンは個体が血縁関係にあるときに、利他行動は適用的意味を増加させると考えました。これが「血縁選択」の考え方です。その理論をさらに先鋭化させたのがドーキンスで、「生物の身体は遺伝子の乗り物」でしかなく、実は遺伝子が自己を保護するための命令に従って行動してきたのに過ぎないのだと考えました。当然のことながら自然選択は、遺伝子そのものの淘汰に関係します。そこで遺伝子は、自分が生き残りやすいように生物の表現型を変化させ、環境適応を裏から援助してきたと説明しました。利他行動もその例外ではあり得ず、利他行動を採用させる「利己的な遺伝子」が存在するからこそ、人を含むすべての生物は環境に対して最適な適応を果たし、その結果ますます多くの利己的遺伝子を残すことに成功したとドーキンスは主張したのです。”
この包括適応度の理論は、この地球上にいる生物の、多くの行動について上手に説明していると思います。しかし、決して生物の行動のあらゆる側面を説明しているわけではありません。
例えば、『文化と感情の心理生態学』の50ページに取り上げられているコモドドラゴンのこどもは、地上にいると親によって捕食されてしまうので木の上で1年間生活をします。ヘビの子供も孵化後即座に分散し親から隠れ、親による捕食を回避します。コモドドラゴンのこどもが木に登るのは自らの遺伝子保全に役立っていますが、親が子を食べるのはどう考えても遺伝子保全につながっているとは言えません。個体そのものの適応度の理論には合致しますが、包括適応度は低下しています。
先日、NHKの『ダーウィンが来た!』(URL:http://www.nhk.or.jp/darwin/)という番組でシジミチョウの生存戦略についての放送がありました。クロシジミは、アリの巣の中で幼虫、さなぎとなり、羽化してはじめて地上へ出てきます。幼虫、さなぎはオスアリと同じような匂いと、おいしい蜜を体から出し、アリに育ててもらいます。羽化して初めて巣の外へ逃げてゆきますが、そのとき匂いはなくなっているので、アリに捕食されないように大急ぎで逃げなくてはなりません。
ムモンアカシジミは、アリの巣の中には入りませんが、幼虫、さなぎともども蜜のような匂いを出し、アリを自らの周囲に呼び込み取り囲ませることで身を守っています。アブラムシなどを自分で捕らえて食べるのでアリに食べさせてもらう必要はありません。しかし、このシジミチョウも羽化すると匂いがなくなって「化けの皮がはがれた」とたんに周囲を取り囲んでいたアリに襲われてしまいます。素早くアリから逃げられれば生き延びることができますが、運が悪ければ今度はアリの食べ物になってしまいます。
どちらのシジミチョウも、羽化後も同じ匂いをさせてさえいれば遺伝子保全のためにより有利です。しかし、詰めが甘いとしか言いようがないというか、いずれにせよ、生存のために「最適」なように生物は出来ていません。
人間に関しても、自殺や身内の殺人その他、包括適応度の理論ではとうてい説明できそうもない行為はたくさんあります。
しかし、地球上にいるどの種類の生物も、うまくバランスを保ちながら、なんとか生き延びています(ただしバランスが崩れれば絶滅することもあります)。地球上のいたるところでは、同じ場所に雑多な生物がそれぞれのやり方で生き延び、共存しています。他の生物との関係、自然環境など人間が把握できないほどの無数の要因が偶然的に(※要因が多すぎて人間がそのすべてを把握できないという意味の偶然です。詳しくはランダムとは?の記事を参照してください)重なったおかげで、それぞれの生物は、なんとか現在に至るまで子孫を残すことができたのです。
もちろん、生物の行為のうち多くのものが、包括適応度の向上につながっていることも否定できません。そうでなければ生物は絶滅してしまいます。しかし、多様な生物の雑多な行為(及びそれをもたらす本能、欲求)のうち、包括適応度向上につながらない行為も多く見られるのです。
結局のところ、生物の行為のいくつかについて包括適応度の理論を当てはめるとうまく説明できた、その事実があるだけで、それ以上でもそれ以下でもないのです。しかし、それは地球上の生物の行為すべてを理解したことにはなりません。一つの理論が、この世界で起きている現象の中の、この局面とこの局面を上手く説明するのに役立った、そこまでしか論証されていないのです。包括適応度の理論が、生物のすべての行為を規定していると論証されているわけではありません。
私たちが生存できているかどうかは、遺伝子だけでなく、遺伝子以外の多様で雑多な無数の要因によって左右されてきたのです。
決して「理論」というものが意味のないものだ、と言っているのではありません。理論を用いてそれを世界に当てはめて納得する、という思考は、人間がこの世界を理解する一つの方法なのです。しかし、それはその現象についてその理論がよく当てはまり、多くの人が納得した、という事実以上のことを示してはいません。
また、地球上に現存する生物すべては、様々な環境下で様々な要因によってなんとか現在まで子孫を残すことができたわけですが、それらすべての生物について、彼らは遺伝子を維持するために生きてきたのだ、と後付けの説明をすることも可能です。なぜなら、今生きている生物は皆、体の中に先祖から受け継いできた遺伝子を持っているからです。
しかし、それは原因と結果が逆になった理論です。生物の体が遺伝子の乗り物だ、という「比喩」がこの世界の特定の局面ではうまく当てはまるかもしれません。しかし、遺伝子が自らを保持するという唯一の「目的」に向かってすべての行為を組織立てていると、一元的に説明しようとするのは、明らかな誤解なのです。
人間も他の動物と同じ生物、共通点はいくらでもあるし、同一の理論で説明できる行為もたくさんあると思います。しかし、その「理論」とは何なのか、「法則」とは何なのか、それらは人間がこの世界を理解する上でどのような位置づけになっているのかを、見極めなければ、かつての唯物史観のように同一の理論であらゆる現象を説明しようとする、間違った思考につながってしまう可能性があるのです。
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コメント
はじめまして、ちょっと古い記事ですが、誤解されているようなのでいくつか説明させていただきますね。
>決して生物の行動のあらゆる側面を説明しているわけではありません。
適応度というのはそれほどシンプルな概念ではありません。行動一つ一つを見てもそれが適応度を増加させているのかどうかを判断できません。結果的に残せた(繁殖可能年齢に達した)子の数でしか判断できないのです。もしコモドドラゴンが子を食うことによって、結果的により多くの子を持てるなら(コモドドラゴンは選別的に自分の子だけを食うわけではありません)、その行動は結果的にコモドドラゴンの適応度を増加させていると判断できるわけです。
ある身寄りのない人間が、親族も自分の子もなしにどうやって自分後を後代に伝えられるのか?
-そんなの無理ですよね。包括適応度を低下させる行為が進化すると考えるのは(または包括適応度を無視して進化を説明できると考えるのは)、究極的には親族も子孫も無しで自分の子を後代に伝えることは可能だと考えるくらいに根本的にあり得ないことです。なんとなく、生物は複雑に関係し合っているのだから包括適応度以外にも説明する手段があるのではないかとお感じになる気持ちはわかりますが、子も親族も無しで血を伝えることは原理的に無理なのです。
ただそれを人の行動や文化にすぐに当てはめるのは間違っていると思います。『文化と感情の心理生態学』の主張はかなり乱暴でゆるい物であることは間違いありません。E.O.ウィルソンのようにこの著者と同じ考えを持つ人はいます。が、ウィルソンは数学的にこれを説明する本や論文をいくつも書いていますが、まだ十分に説明していると認められるにいたってはいません。ドーキンスはミームという語で文化を生物進化とは別のメカニズムと扱っています。
投稿: たぬ~~ | 2008年7月15日 (火) 13時49分
コメント、どうもありがとうございました!
ちょっと噛み合っていないと感じる部分がありますので、そのあたりも書いておきます。
>ただそれを人の行動や文化にすぐに当てはめるのは間違っていると思います。『文化と感情の心理生態学』の主張は・・・
→実際、私がこのブログ記事で言いたいことの大部分は、上のようなことです。
人間の行為一つ一つに「包括適応度」の概念をあてはめて説明しようとする文献を見かけることがあるので、それは間違いだ、ということを言おうとしているのです。
また、人間の生きる目的が遺伝子を残すことだ、とでも言いたげな読みものも気になったことがあります。(ドーキンス自身はそんなことまでは言ってなかったと思います)
私が読んだ本の中には、人間の行為ひとつひとつに対し、この行為は○○だから包括適応度を上げているんだ、などという説明がなされていたので、これはおかしい!と感じたわけです。
結局のところ、人間の行為一つ一つには包括適応度を上げうるようなものもあり、下げうるようなものもあります。またどちらか判断のしようのない行為もあります。(確かにこのあたりの判断を簡単にしてしまわない方が良いのかもしれませんが)
結局のところ、環境との相互作用の中で、バランスが保たれていれば種として生き残るし、そうでなければ滅びる、ただそれだけだ、ということです。
包括適応度という概念は、あくまで状況があってそれに後付けの説明をしているにすぎないのではないか、とも思います。
(これについては、たぬ~~様も触れられていますが)
それでは、「理論」「法則」にはどんな意味があるのか?ということにもなりますが、それについてはこれからさらにじっくり考察していこうと思っています。
>ある身寄りのない人間が、親族も自分の子もなしにどうやって自分後を後代に伝えられるのか?-そんなの無理ですよね。包括適応度を低下させる行為が進化すると考えるのは(または包括適応度を無視して進化を説明できると考えるのは)、究極的には親族も子孫も無しで自分の子を後代に伝えることは可能だと考えるくらいに根本的にあり得ないことです。なんとなく、生物は複雑に関係し合っているのだから包括適応度以外にも説明する手段があるのではないかとお感じになる気持ちはわかりますが、子も親族も無しで血を伝えることは原理的に無理なのです。
→上記のようなことは、私自身もこのブログでは言ってないですが・・・
(新しい理論をつくる、ということではなく、理論とは何だろう?法則とは何だろう?と考えるのがこのブログの趣旨の一つです。)
人類が今生き残っているからといって、私たちがしていることがすべて包括適応度の向上に寄与しているかどうかはわかりません。
投稿: 工房Miya | 2008年7月16日 (水) 23時45分
はじめまして。
「包括適応度」でググって上位に出たので本ページを拝見しました。「同一の理論で」「最適」という言い回しが気になったのでコメントさせてもらいます。
包括適応度の概念はゲーム理論など、数学的なもので、きわめて「論理的」であり、そこに私は魅力を感じます。
以下、勘違いでしたらごめんなさい。
「最適」というのは100%ないし、限りなく100%に近いというニュアンスだと思いますが、最適の状態を知ることは難しいかと。んで色々試すわけですが、ほとんど失敗=淘汰されたり寿命が短い(放射性元素など)。この「試す」というのを少ないエネルギーで短時間に行う機能を持っているのが人間です。「想像」や「仮想」が人間や類人猿において特に観られる能力であり、人間たらしめていることなのはそういった理由です。
自然科学において「理論」「法則」は「仮定」であることもあれば、量子サイズでは間違っているニュートン力学のように、そう考えると分かりやすい(特定の局面においてのみ成立する)というものもあります。社会科学の場合はアバウトで「傾向」ぐらいの意味のときが多いですね。でもその「傾向を表す」というのは実は自然科学でも同じです。
「生物進化」について、ダーウィニズムにせよ、ネオダーウィニズムにせよ、根本には「淘汰」の概念があると思います。これは生物に限らず、あらゆるシステムにいえることで、或る存在(有)は、或る時空間に於いて、在ることが許されている?わけですね。俗にいえば「あらゆることには意味がある」とか「生きていることには意味がある」とかですが、「意味」といっても形而下で「役に立つ」という意味ではなく、「理由」や、ニュートラルなニュアンスの「原因・結果」のような。
シュレンディンガーの猫が表しているのは「存在」が「確率」であるということです。「原因」とか「結果」は論理における左辺と右辺ですが、確率的に変化する時空間における過去と未来なので、イコールでは結ばれません。あくまで確率です。
そして淘汰を免れ存在するということも確率であり、それを生物学において表しているのが包括適応度です。生物といってもエネルギーの局所的時空間における特殊状態に過ぎませんから、その存在も確率的であり、遺伝コード(種とか)の存在(存続)も確率的なわけです。
子孫を残すといっても、真核生物においては減数分裂によって自己の遺伝子は半分しか残せないと単純にはいえるわけで、クローンを残さない方法をとるこのような生物が進化によって生じたのもマクロでは確率が高くなる場合もあるからでしょう。(減数分裂の生物学的意義を参照)
部分的に無駄やバグのあるコンピュータプログラムやスクリプトでも出力(結果)が目的に適っていればいいわけです。アツいプログラマーでない限り細かいことは気にしないでしょう。
遺伝子がデジタルなプログラムであるように、物理「構造」はそれ自体が「機能」でこれは存在の両面です。単純化すると、この世はエネルギーがシステム(物理的構造・機能)をもって存在していて、あらゆる時空間・サイズにおいてこれは絶対です。ニュートリノだろうと銀河系だろうと。
包括適応度に対し「あくまで状況があってそれに後付けの説明をしているにすぎないのではないか」とおっしゃられていますが、「理論」「法則」とはそもそもそういったもので、この世の「構造・機能」が様々な局面において確率的に現れるものを人間が理解し表すことだと思います。
トラバでなく、わざわざ書き込ませてもらったのもミーム的観点、こうした方がより多くの人の目に触れ伝播するのでは?と考えたからでーす。
投稿: nave0nave | 2009年3月21日 (土) 01時36分
検索の上位に来てしまっているのですね。知りませんでした。
今は、その(数学的なものを含む)論理、と人間の意思、そしてこの実際の世界との関連について考えているところです。
論理というものが、その実際の役割を超えて、無自覚に適応・利用されていることがあるのではないか、という疑問があって、こういうブログ記事を書いたりしています。
・「最適」という言葉は、特定の目的が存在して、初めて成立する概念です。その目的自体がなければ、最適、という概念も適応しようがありません。
・ある目的(たとえば生き残る)に対しても、その方法が無限にあるいは多数ある場合、「最適」という概念は適用しようがないのでは、と思います。とある環境下において、生きるためにとりうる方法は(実際には遺伝その他の制約によって、とりうる手段が非常に限られたものになってはいますが)数えきれないほどあると思います。
とりあえず、「最適」とは何か、ということについてよく考えてみる必要があるかなと思います。
理論上での「最適」とは、目的・条件をかなり限定した上でやっと成立する概念だと思います。
このブログでは「理論」「法則」というものについて考えてみたいと思っています。
「包括適応度」に関しては、「理論」「法則」が後付けの説明でしかない、という事実を越えてしまっているような気がするからです。
そこのところを、もっときちんと説明できれば・・・とは思います。
あと、「意味」という言葉についてですが、「役に立つ」という意味や「理由」や、ニュートラルなニュアンスの「原因・結果」といったことが無自覚にごっちゃになって使われている、というのもこのブログを書いているひとつの理由となっています(このコメントの回答とは関係ありませんが)。
「ミーム」というのも、正直、ある観念をあてはめてみた、ということ以上の意味があるのかよくわかりません。そうするとものごとが説明しやすくなるという側面はあるかもしれませんが。
いずれにせよ、そういったものの実体が存在するわけではない、ということは常に認識しておく必要があるかもしれません。(そのあたりのことは私が書かなくても認識されているかもしれませんが・・・)
いただいたコメントに対して、回答しきれていないかもしれませんが・・・今、こちらのブログに専念する気持ち的余裕がそれほどありませんので、コメントに関する回答も、ゆっくりになってしまいますが(すみません)・・・ゆっくりながらも少しづつ考えながらお答できればと思います。
投稿: 工房Miya | 2009年3月21日 (土) 02時47分
追加ですが・・・
この記事で、私が言おうとしていることは、
人間の行為すべてが、包括適応度の向上という目的のために組織されているのではない。
個々の行為については、適応度を向上させているように見える行為、低下されているように見える行為、よくわからない行為が混在しながらも、全体としては(今のところ)生き残れる程度になんとかバランスがとれている。
あくまで現時点において結果として生き残っているわけで、その理由については後付けでいくらでも説明ができると思います。そして、その要素のなかには、当然、適応度を向上させる要因もあれば低下させる要因もあったと思います。
包括適応度の理論自体を否定しているわけではありません。
その理論の適応方法に問題がある説明をしばしば見かける、ということを言いたかったわけです。
そして、その理論とは、どのようなものなのか、どう利用すべきなのか、ということを再確認しながら考えていきたいと思っています。
投稿: 工房Miya | 2009年3月21日 (土) 03時05分
こんばんわ。
すみません。なんかズレたコメントでした。「事実関係と、自らの願望・欲望とを混同しないこと」のとこを読んで恐縮してます。
わたしは、事実から「べき」(価値や倫理)を単純には導けないということを池田晶子(故人)の著書(ソクラテスシリーズなど)から学びました。
先のコメントで
「部分的に無駄やバグのあるコンピュータプログラムやスクリプトでも出力(結果)が目的に適っていればいいわけです」
と書いたのは「全体としては~」のことを言いたかったのでした。
もちろん「目的」は人間の作為の場合だからです。
先のコメントの始めの方で「最適」「100%」としているのは「存在可能性」についてで「目的」があってのことではありません。全然言葉が足らなかったですね。ただ「最適」はニュートラルな場合にも使用されると思います。「適者生存」なんかもそーゆーニュアンスかと。
これを勘違いか意図してか優生思想とか優生政策に援用するのが問題なのですよね。
事実と「べき」(倫理)について考えてまして、たとえば殺人はなぜいけないのかと(永井均の著作がありますね)考えて、なぜいけないということになったと考えて、いけない場合にどんなメリットがあるのかと考えて、そういった倫理(価値観)の「成立が」包括適応度や淘汰思考で説明できるのではと考えています。
つまり、人間のうち倫理を持った者の方が包括適応度が高い→生存・倫理が普及、ということではないかと。そのとき倫理の内容や価値のおき方も適応と絡んでくるのでは・・・ などと考え中です。
「ミーム~」というのはシャレでして。非目的論的世界観の唯物・決定論者なもんで、色即是空というか対自即自というか、ゆる~く思惟してます。
駄文、夜分に失礼しました。
投稿: nave0nave | 2009年3月21日 (土) 03時52分
記事が長く、内容がつかみにくい説明だったかもしれません・・・
結局、先日コメントした内容が、この記事で言いたかったことです。
(新しい記事としてもアップしています)
>たとえば殺人はなぜいけないのかと(永井均の著作がありますね)考えて、なぜいけないということになったと考えて、いけない場合にどんなメリットがあるのかと考えて、そういった倫理(価値観)の「成立が」包括適応度や淘汰思考で説明できるのではと考えています。
この場合、忘れてはならないのが、
倫理感の成立が、結果として包括適応度の向上につながった、という事実があったとしても、
必ずしも、包括適応度の向上のために私たちが倫理を作り上げたのだ、と言い切ることはできない、ということでしょう(もちろん、お互いに生存するためにルールを決める場合があることも事実だとは思います)。
結局のところ、道徳の根拠は、私たち人間の感情、共感能力、そしてそれを支える想像力です。
包括適応度は、なぜ殺人はいけないのか、という倫理の根拠にはなりえません。むしろ、包括適応度を上げるため殺す、ということも考えられるのです。
倫理感の成立が包括適応度に及ぼした影響の分析と、道徳・倫理の根拠とは別のものと考えたほうが良いでしょう。
ただ、先ほども述べたように、生存するためにお互いにルールを決めた、という要因もあると思われるので、包括適応度については、あくまで倫理成立における一要因として考えるのが妥当だと思われます。
投稿: 工房Miya | 2009年3月22日 (日) 00時46分
こんにちわ。
先日コメントをつけさせていただいた者です。
ん~、どうも根本的なところで考え方に相違があるようですねぇ。しかもそこを汲み取っていただいていないような・・・ 私の考え方を押し付けよーなどという気はもちろんないですけど、一応「どこが」違っているかについて整理させてください。
2009年3月21日 (土) 03時05分のコメントで
>包括適応度の向上という目的のために
とありますが、「ために」というのは厳密な生物学的理解の妨げになります。進化論(ネオダーウィニズム)において「進化」とは、何か「目的」があってとか、最適化する「ため」とか、そーゆー積極的(Active)なことではないのです。あくまで適さないものが「淘汰」される(絶滅する/数を減らす)ということ。
2009年3月22日 (日) 00時46分のコメント
>包括適応度の向上のために私たちが倫理を作り上げたのだと言い切ることはできない
そうですね。「道徳」はルールですが、時代・地域で色々ありますよね。そのなかで(時間的に)存続し、多くの人間に受け入れられているというのはその道徳自体の進化(淘汰)の結果です。このとき、その道徳の進化なのか、その道徳を採用した人間(≠ヒト)の進化なのかというのは同義です。
ここらへんからミームが着想されたんでしょうけど、わざわざ遺伝子にたとえなくても、この世のあらゆる系(システム)は淘汰思考で説明できるのではないかと漠然と考えてます。
>結局のところ、道徳の根拠は、私たち人間の感情、共感能力、そしてそれを支える想像力です。
についてですが、「感情」って「痛み」(言語化・カテゴリー化する前の痛覚)のようなシンプルな電気信号が中枢神経系で複雑に処理されたもの、もしくは処理過程そのものですよね。そういった機能を「獲得」したこと自体が進化の結果ですよね。
感情を持ち、共感できる個体のほうが、複雑な社会行動をするヒトの生存にとって有利に働いたのでしょう。
「感情」「共感」「想像」と「道徳」のどちらが先とはいえず、ともに進化したものです。子を殺さないというルールは魚類にもある単純なもので(もちろん食べちゃう奴もいます)、感情よりか原初的なものです。でもあえて「道徳」と呼ぶ“高度なルール”は共感などの機能に拠るところもあるでしょう。
あくまで「包括適応度=後付けの説明」ですので、「包括適応度」は淘汰の起こる(起こらない)“確率”であって、80:50では50の方が絶滅するもしくは数を減らす可能性が高いみたいなことですよね。
また、新しい倫理(法)をつくる根拠には直接はなりません。倫理はそんな単純なロジックで成立するものではないからです。
今我々が見ているような「倫理」「社会」「感情」「共感」「体型」になった“根本”は「包括適応度」で説明できるとゆー、まあ何でキリンの首は長いのかを説明するように、知ったところで俗世間では何の役にも立たないような形而上に近い話なわけです。
でも、小さい子供がキリンの疑問を持った時説明できるように、「なぜ人を殺してはいけないのか」を包括適応度とゲーム理論、囚人のジレンマで説明できる必要が、宗教や家父長(尊敬・暴力)の力が弱くなった現代ではあるかと。
あっ、ですから「共感」があるじゃないかとゆーのも、論理的に理解(確率を予測)できなくても結果的に包括適応度に有利な行動をとれるようバイアスをかける機能が「共感」とか「愛」なので進化し獲得したのだと。
投稿: nave0nave | 2009年3月28日 (土) 15時27分
たびたびすみません。念の為に・・・
最新の記事「包括的適応度に関する追加説明」については、全面的に賛同いたします。
投稿: nave0nave | 2009年3月28日 (土) 15時35分
コメント、どうもありがとうございました。
私が言いたかったのは、
人間をはじめとする生物が生きる目的とは何か?という問いに対し、包括的適応度を高めるとか、遺伝子を残すことだ、と言うような類の勘違いさえしなければよい、ということです。
一応念を押しただけです。
「なぜ人を殺してはならないか」ということに関して、包括的適応度を上げるためだ、と言ってしまうのは、上の勘違いと同じことだからです。
おそらく、上の場合は、問題設定と回答とが噛み合っていない、ということでしょう。
nave0naveさんの言われるように、「何か「目的」があってとか、最適化する「ため」とか、そーゆー積極的(Active)なことではないのです。」ということさえ認識されていらっしゃれば大丈夫だと思います。
「包括的適応度」という"指標"により、人間の行為を一元的に説明しようとさえしなければ大丈夫だと思います。
「なぜ人を殺してはならないか」という質問は、あくまで倫理レベルの問題です。それを「包括適応度を上げるため」と説明してしまっては、設問の論理と、回答の論理レベルが違っている、ということです(このあたり、良い言葉で説明できずすみません)。
あくまで、分析は、
・包括適応度が高まったことと、倫理の成立との間に関連があった
・倫理の成立(といってもどういう倫理なのか?そのあたりを漠然と「倫理」と一からげにしてしまってよいのか、ということはありますが)が、"指標"としての包括適応度を高める要因になった
というところで止めておくのが良いのではないか、と思います。
(おそらくnave0naveさんの、明かにしようとしていることは、こういうことだとは思いますが)
あと、
もともと、「人を殺してはならない」という倫理が、人間という生物において、人間社会において絶対的な真理(?)として存在しているわけではありません。
また、包括適応度を高めるために命を奪うのだ、という説明ができそうな人間行動もあります。
もし、「なぜ人を殺してはならないか」という質問が、人の心の中に浮かんだのだとすれば、それは、あくまで感情・共感といった人間の気持ちがあったからです。
(もっと上手い説明ができないか、もう少し考えてみます)
投稿: 工房Miya | 2009年3月31日 (火) 23時42分
包括的適応度の向上と、人を殺さないというルールとは、必ずしもイコールではないでしょう。
人間集団がおかれた環境により、イコールになったり、イコールにならなかったり、といったところでしょうか。
倫理感の強い(といってもなにをもってそう言えるのか、恣意的な要素があるかもしれません)社会集団と弱い社会集団、どちらが生き残るのかは、その時々の状況にもよるでしょう。
また、一人の人が、あるいはひとつの社会集団が、あるときは人の命を守り、あるときは人の命を奪うこともあったでしょう。そのようにして、これまで人間は生き延び(あるいは死に絶え)てきました。
>「なぜ人を殺してはいけないのか」を包括適応度とゲーム理論、囚人のジレンマで説明できる必要
この説明では、その子に「じゃあ、どうして包括適応度を上げないといけないの?」と聞かれると、答えようがなくなってしまうと思います。(これは、人はなぜ生きなくてはならないの?という質問に近い意味合いだと思います。)
ゲーム理論をひっぱり出すににせよ、なんにせよ、とにかく何らかの形で「人を殺してはならない」と伝えたいと思っていたとしたら、それは、あなた自身がそうしたい、人の命を大切にしたいと願っているということを示していると思います。
そして包括適応度を上げなければならない、とあなたが無意識のうちに感じているとしたら、それはあなた自身が、人類に生き永らえてほしい、と感じているからでしょう。
(追加:先日の私のコメントと少し食い違う部分があるかもしれませんが・・・)
もちろん、ある社会集団の内部において、「人を殺してはならない」というルールが、支配者あるいはその他人々の損得のうちに決められている場合もあるかもしれません。(100%損得ではないにしても)
また、「人を殺してはならない」という決まり(?)が人間社会・人間の存在における前提というか絶対的真理(とりあえずこう呼びます)として存在していないということは、「なぜ人を殺してはならないか」という質問に対し、人それぞれに勝手な解釈を加えることも可能だという面もあります。(このあたりが、この問題をややこしくしているところかもしれません)
たとえば、人を殺さず生かして利用したほうが、自分に有利だからとか、あまり論理的ではありませんが、勝手にそう言い張ることも可能でしょう。それがその人にとっての理由だからです。
共感能力、想像力の強さは人それぞれです。
ただ、それが一般化できるような内容でないことも確かでしょう。
では損得で考えた場合、人を殺してしまった方が自分に有利だとしたら(あるいは自分の損得・生命に影響がないとしたら)殺してもよいと、考えるでしょうか?
そのような場合でも、やはり殺してはならない、ともし思えたとしたら、そこには人の命を少しでも大切に思う感情があるからでしょう。
もちろん、包括適応度を上げるために、倫理が必要だ、と説明することも可能でしょう。
ただその場合、「包括適応度を上げなければならない、上げた方がいい」という意識が背後にあります。それはやはり、先ほど書いたように、人間に生きながらえてほしい、という願いが無意識のうちにあるからでしょう。
投稿: 工房Miya | 2009年4月 3日 (金) 11時04分