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2006年12月16日 (土)

現象の背後にある意図を推測する

Meaning04 図A-4のように、Xという人が要素(要因)α・βを操作することにより現象Aを引き起こしている様子を、人物Yが見ていたとします。そのとき、Yという人は、Xがα・βに働きかけた結果、現象Aが引き起こされたと明確に認識できると思います。つまり出来事・現象の因果関係・事実関係は、(あくまで人間の能力が及ぶ範囲においてではありますが)観察によって明確に把握できます。

 一方、Xという人がどういう気持ち・意図でそのような行為を行ったのかを把握する場合、Yはどうしたらよいのでしょうか?

① Yは自らの経験(他の人から得た情報も含む(*))をもとに、Xの気持ちを推測します。この推測が正しいのかどうかY一人では確かめることができません。Yの見解に対し、多くの人の共感・同意が得られることにより、その見解がより広く認められていきます。
② Xとのコミュニケーションが可能な場合は、Xから直接話を聞けるかもしれません。しかし、そこでXの気持ちが正直に語られているのか、あるいは深層心理としてまた別の考えがあるのではないか、など疑問が抱かれる可能性もあります。Xから語られたものをそのまま受け取るのか、ある程度Y自身で解釈を加えるのかはY次第です。これも、Yの見解に対しより多くの人の共感・同意が得られれば、それがより広く認められていきます。

(*) Yは(心理学などの)科学的な試験などで得られたデータ、情報を用いることができるかもしれません。しかし、これらの科学的データは私たち人間という生物がかなりの程度共通する性質を持っているという前提があるからこそ利用できるものです。また、それらのデータはあくまで近似であり、一つ一つ異なるこの世界の出来事・現象を100%説明できるわけではありません。あくまでYがXの意図を推測する場合の1つの情報として用いられるにすぎません。ただ、それらのデータを用いることによりYの推測の精度を向上させることは可能でしょう。

 このように、観察や調査などにより事実関係や因果関係を把握することと、それに関与した人物の意図について理解することとは、別の論理で行われる作業なのです。

 Yの経験や共感の能力を駆使しての推測によって、Xの意図に関する見解が形づくられ、さらにそのYの見解に対するその他の人たちの共感、同意によって広く認められていくものなのです。ただし、100%正しいと断言できる答えにたどり着いたのかどうか確かめることも非常に難しいのです。Yの見解に対し、その他の人が同意しなかったとします。しかし実際はYの見解はXの真意に近かったのかもしれません。あるいはX自身、自分が何でそんなことをしたのかよく把握できないでいるかもしれません。現象Aを引き起こしたXの真意について世間一般でこうだと多くの人が考えていたとしても、Xは自分の気持ちなんか誰もわかってくれないと思っているかもしれません。

 私たちが、身の周りで起こっている現象を観察し、そこに何らかの意図を感じるのは、あくまで感じる人自身の経験、あるいは生得的・経験的に獲得した共感の能力によるものなのです。そして、私たちがかなりの程度似かよった性質を持つ人間、という共通項を有しているからこそ、(100%正しいと思われる見解が得られるかどうかは別にして)これらの推測が成立しうるのです。

 あくまで仮に、の話ですが、科学が進歩してこの宇宙における様々な要素の因果関係がかなりの程度明らかになったとします。新しい法則がたくさん発見され、宇宙に関する理解が深まっているでしょう。しかし、それでもその因果関係や法則が何を意味しているのかということは、その因果関係・法則それ自体からは当然わかりません。(ある特定の現象に対してある要素が関与している、というニュアンスで意味がある、と限定的に述べることはできます。この記事における3のケースのことです。)

 結局のところ、この世界・宇宙にある要素、現象すべてに意味があると考える人はそれらの背後に何らかの意志を感じている、あるいは意志があると信じているということです。その意志を発生する源(例えば神様)が見えないのは、(科学の進歩も含め)人間の能力が足りないからだと言われれば反論のしようがありません。その一方で、そのような意志を発するものが実際に存在(?)するということを、論理的に証明するすべもありません。

 そして、その「意志」というものを推測するのは、私たち人間です。結局、人間の経験・共感能力に頼るしかありません。しかもその相手が人間と共通した感情・欲望を有しているのかさえわかりません。意思を感じると思った人はそう言うでしょうし、感じないと思う人もいるでしょう。

 いずれにせよ、宗教的な事柄に関しては、その人が信じるかどうかの問題、想像の問題であり、これが正しいのだとすべての人が納得する結論に至ることは不可能です。理屈で議論しても仕方のないことなのです。

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「生きる意味」の問いについて

 前に述べましたが、「意味」とはあくまで人が頭の中で考え出した観念・概念であり、人がこの世界を見るときに何らかの目的意識、欲求・感情を抱くことによって生じてくるものです。

 しかし、人が生きていく上で「意味」というのは非常に重要な意味(価値)を持ってきます。社会に対して役に立つ存在でいたい、他の人に何らかの影響を与える人でいたい、あるいは今の苦しみが無意味であってほしくない、なんらかの意義のあるものであってほしい、といった希望・願望・欲求があるからです。それゆえに、自らの「生きる意味」について考える人も多いのだと思います。

 どういったときに人は「生きる意味」について考えるのか、そしてそれは何を意味しているのか、考えてみました。

(1) 自分がこの社会で役に立っているのか、あるいは役に立ちうる人間なのか疑問に思うとき

 例えば、人の役に立つような仕事をしたくてもそれをやり遂げる自信が持てないときや、自らが出来そうなことややりたいと考えていることと、社会が要求している(と思われる)ことが一致しないと感じられる場合。実際に役に立たないと他の人から言われた場合。自分がやりたいと思うこと、あるいはやっていることに対し、他の人の承認、共感、同意などが得られないために、それが価値あるものなのか自信がなくなっている場合など、そういうときに自らの「生きる意味」があるのかどうか疑問に思うかもしれません。

 これらの疑問・問いは、自らが他の人の役に立ちたい、あるいは他の人になんらかの影響を及ぼす人間でありたい、という欲求の裏返しであるといえます。そのため、自らが打ち込むものを見つけることができたり、思いがけなく人に褒められたり認めてもらったりして自らの欲求が満たされるようになれば、「生きる意味」の問いを真剣に考える必要もなくなってくるでしょう。

(2) 情熱を傾けて打ち込むものが見つからないとき

 とくに人からの同意が得られなくても、自らが情熱を持ってあるものに熱中できることもあるでしょう。そういうものが見つからないと感じる場合、あるいは体調(あるいは心の調子など)やその他さまざまな要因から何事に対しても意欲が湧かない状態があるかもしれません。自らの欲望の方向性などの迷いのために、意味を見出すことができないという状態です。

 これについても、何かに情熱を傾けたい、何事かを成し遂げたいという欲望・願望の裏返しであるといえるでしょう。そのため、自らが情熱や愛情を注ぐことができる人やものを見つけたりすると、「生きる意味」のような問いを真剣に考えるようなこともなくなるでしょう。あるいはそれこそが自らの「生きる意味」である、という結論に至るかもしれません。

(3) 大変な苦労、激しい苦痛に耐えているようなとき

 何でこんな苦しい思いをしてまで生きていかなければならないのか疑問に思うようなとき、自らの生が否定されているような気になっているかもしれません。とくにその苦痛が人間にはどうすることもできないようなものであれば、自らの苦痛が人間社会の外側から意味づけられているように考えなければ乗り越えることが難しいと思う人もいるかもしれません。
 この世界の現象に意味をつけるのは、あくまで人間あるいは(あるとすればですが)人間以外のなんらかの意志ですから、このようなケースにおいて「生きる意味」の問いに決着をつけるためには、①自らがこの社会で役立てる何かを見つけたり、情熱を注ぐものを見つけることができた場合、そして②この世界に存在するものすべてに人間の世界の外側から何らかの意志が働いており、それによって私たちすべてに意味が与えられていると信じるようになる場合の2通りしかありません(「生きる意味」について問うのは自分にとってもう意味がないからやめる、というケースもあるでしょうが)。

 これらのことを考えあわせると、 「生きる意味」の問いは論理的に下の2つに分類されるでしょう。

(a) 私たちが生きている社会における、自らの役割について問うている
・・・自らがこの社会で役に立ちたい、あるいは何事かを成し遂げたいと思う欲求の裏返しといえます。これらの欲求が満たされれば、「生きる意味」について問う必要もなくなってきます。

(b) この世界の背後になんらかの意図があってそれを知りたいと考えている
・・・私たちが住む世界、そして宇宙の背後になんらかの意思が働いていると信じるかどうか(しかも人間とある程度共通した欲望・意思)、つまり神様のようなものを信じるかどうかという問いであるため、結局は私たちの想像の問題になってきます。議論のしようがありません。人それぞれの信念を抱くことは自由ですし、ある人の考えを他人に強制することもできないと思います。
 ただ言えることは、これらも自らの生が無意味なものであってほしくないという欲求・願望の裏返しであると言えます。人間の世界がままならないため、人間世界の外側から意味が与えられていると信じることによって安心感を得る場合もあるでしょう。

 最後に、上の(b)に関連することですが、法則や因果関係・事実関係を明らかにすることとその背後にある意志を感じ取ることとは別の論理である、事実関係をいくら明らかにしてもその意味は明らかにはならない、ということについて説明してこの章を終わりにしようと思います。

 それと、人の「生きる意味」は遺伝子を残すことだ、などと考えている人は、こちらこちらを読んでみて下さい。

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2006年12月12日 (火)

「わかる」とは感情、心の動きのこと

 私がスーパーで買い物をしていた時のことでした。どこからか腐ったような変な匂いがしてきました。最初は何の匂いかわからず、少々不安な気持ちになりました。しかし、しばらく後に商品のワインが棚から落ちて割れてしまったのだ、とわかった時ほっと安心しました。このように、わからないモノ・現象に遭遇したときの不安、そしてその正体がわかった時の安心というものが「わかった」という思考の仕組みの一つなのです。

 道を歩いている時、道端の草むらからガサガサ音がしてドキッとしたとします。何の音かわからず、ひょっとして獰猛な動物かなにかだったらどうしよう、などと不安な気持ちになります。しばらくして、その草むらから小さなかわいい猫がひょっこり出てきたとしたら、おそらく「何だ猫だったのか」とほっと安心するでしょう。この思考の過程に必ずしも言語が介在しているとは限りません。しかしこれも未知のものの正体が「わかった」と感じるプロセスの一種といえます。

 他のケースもあります。例えば、地面にキラッと光っているものが見えたとします。あれは何だろう?と好奇心にかられる人もいるでしょう。そこで、地面に顔を近づけてよく見てみると、単なるガラスの破片に太陽の光が反射していただけで、「なあんだ」とがっかりするかもしれません。あるいはそれがきれいな水晶で、素敵なものを見つけた、とうれしく感じるかもしれません。

 このように「好奇心」→その正体がわかったための「喜び」「落胆」といった感情の動きも「わかる」という思考の一つと言えるでしょう。

 このように「わかる」という思考は、「不安」「好奇心」、「安心」「喜び」「落胆」などの感情の働きなのです。未知のものに出会ったために生じる「不安」や「好奇心」が解消されたり満たされたりした時に「わかった」と感じるのです。このプロセスには必ずしも言語や観念は必要ありませんが、それら(言語や観念)が思考に伴ってくると、「わかる」の思考プロセスの種類が飛躍的に増えるのだと思います。

 以上のことを念頭に入れるならば、「わかる」「理解する」ということはどういうことなのかを考える場合は次の2点について明らかにすれば良いでしょう。

(1)未知のものに出会った「不安」や「好奇心」がどのようなときに現れるのか(どういうときに「わからない」と思うのか)、その感情が現れるための前提条件は何なのか(「わからない」と思うには何が必要なのか)
(2)どのような論理のもと、それらの「不安」「好奇心」が解消・満足されるのか

※ 『「わかる」とはどういうことか-認識の脳科学』 (山鳥重著、ちくま新書)をヒントに、少しだけ私の体験も交えて書いた文章です。ただしこの本では、言葉が「わかる」ということに必須だと述べられています。

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2006年12月 2日 (土)

「生物学的本性」に関するドーキンス氏の誤解

  『利己的な遺伝子』(リチャードドーキンス著、日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳、紀伊国屋書店)の中の記述で印象に残った場所を引用してみます。

「もしあなたが、私と同様に、個人個人が共通の利益に向かって寛大に非利己的に協力しあうような社会を築きたいと考えるのであれば、生物学的本性はほとんど頼りにならぬということを警告しておこう」(18ページ)

「われわれが利己的に生まれついている以上、われわれは寛大さと利他主義を教えることを試みてみようではないか。われわれ自身の利己的な遺伝子が何をしようとしているかを理解しようではないか。そうすれば、少なくともわれわれは、遺伝子の意図をくつがえすチャンスを、すなわち他の種がけっして望んだことのないものをつかめるかもしれないのだから。」(18ページ)

「われわれの遺伝子は、われわれに利己的であるように指図するが、われわれは必ずしも-生涯遺伝子に従うよう強制されているわけではない。」(18~19ページ)

 ドーキンス氏の書き方では、私たちの道徳的行為がまるで遺伝子のプログラミングの外にあるように思えます。しかし、(ちょっと極端な言い方かもしれませんが)私たちが道徳的行為を行うとき、遺伝子は働きをやめて機能停止になっているでしょうか?私たちがどんな行為をする場合も、遺伝子は周囲の環境との相互作用の中で、絶えず機能しています。

 私は、「利己的な遺伝子」の論理に飛躍があり、そのためにわざわざ「生物学的本性」という言葉を持ち出して説明しなくてはならなくなったのだと思います。そこで、ドーキンス氏の「利己的な遺伝子」の概念に関する論理の飛躍はどんなものなのか、図D-1に示してみました。

Tekioudo01_1

  包括的適応度の理論は、あくまで生物の個々の行為(図D-1におけるa、b、c、d)を説明するモデルでしかないのに、その個別の事例から、すべての生物の行為を説明しようとしています。図のような論理の飛躍の中で、ドーキンス氏は、「利己的な遺伝子」という自らの概念にしばられ、道徳的な行為=人間の生物学的本性から離れた行為、と定義せざるをえなかったのです。

 遺伝子は、私たちが非道徳的に行為しようが道徳的に行為しようが、常に働いています。どちらも例外的行為ではありません。

 ちょっと話が変わりますが、田舎に住む人が最新テクノロジーでいっぱいの都会に移住したいと思うのも本性、田舎にとどまりたいと思うのも本性、騒々しい都会に住む人が静かな田舎に移住したいと思うのも本性、便利な都会にい続けたいと思うのも本性です(それらの選択には人それぞれ傾向があり、その傾向は遺伝子によるものが大きいとは思います)。

 前に、選択のプロセス(2)で説明しましたが、人間の欲求はあまりに雑多で様々な方向へ向かっています。そのため、ある1つの欲求が実現しても充足されない欲求は常に存在します。そして、特に現状に対して不満を抱く状況になったとき、これまでに充足されなかった欲求を「本当の自分」「本当にやりたいこと」と考えるようになるのです。また、ある人が人間の本性は「こうあるべき」と考えた場合も、そうでない行為が「本性」からはずれた行為になってしまい、自らの願望に沿った行為を「本性」と呼ぶようになってしまいます。

 「本性」という言葉は、限定的な言葉です。「本性」という言葉が使われている場合、その言葉を使った人の意図が裏に隠されていることも多いのです。

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