『レヴィ=ストロース 構造』
今、『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)をゆっくりと読んでいるところです。レヴィ=ストロースに関しては、なかなかピンと来なかったのですが、先日この本のさわりをなにげなく見てみたら、ちょっとひっかかる部分があったので、時間をかけてゆっくり読んでみようと思いました。
「解剖台の上のミシンと洋傘の偶然の出会い」(画家マックス・エルンストの言葉)、というフレーズについて、レヴィ=ストロースは「決して偶然のものではなく、秘かな意味作用の総体を覆い隠して」おり、二つのものの出会いがけっして偶然のものではないとして、言語学的、意味的な面から分析しています。
「フランス語のミシンmachine a coudreと洋傘parapluieは単語の組成の点で微妙な対をなしている。というのも後者の洋傘という単語はpar a pluieという三つの要素に分解され、その点でミシンと対比できるようにも思える。ところが実際には後者はpara(~を防ぐという意味の形態素)とpluie(雨)の二つの要素からなっているのであり、外見上の対比にはずれが組み込まれている。」(15ページ)
「この短い語句のなかには内的/外的、硬質/流体、貫かれるもの/貫くものといったいくつもの対比が隠されているという。物体としてもイメージの要素においても、ばらばらに解体しうるミシンと傘が、本来、解体作業のためのものである解剖台の上で出会うことで、暗黙の対比をつうじてたがいに他を変形した比喩に変貌する。そこにこの一節の人の心を騒がせる詩的な秘密がある。」(15ページ)
構造分析の感受性への評価の分かれ目として、著者は、「意外な対比とされるもの自体に価値を認めるかという点と、そのような対比が「秘かな意味作用」すなわち意識されぬものの領域に関わるという視点を認めるか、という二つの論点」(16ページ)をあげています。
私自身どう感じたかというと、レヴィ=ストロースの分析は、想像→共感、の領域の話であるように思われます(実際、社会科学の多くの部分はそうなのかもしれませんが)。もちろん脳の働きのかなりの部分は意識されていないものです。意識しない部分で感じている要素というものは当然あると思います。ただ、上に述べられているような要因もありうるかな、と感じられる一方で、本当にそれが正しい解答だ、と確信を持てるわけでもありません。レヴィ=ストロースのような分析手法について、正しいのかどうか検証する方法があるのかどうか、「科学として」検証する方法があるのかどうか、これから読み進めながら考えてみたいと思います(ひょっとしたら脳のニューロンなどの分析で可能かもしれませんが)。
あと、「偶然」という概念をよく検証して使うべきでしょう(偶然という概念について私が書いた「ランダムとは?」という記事を参照ください)。余計なお世話かもしれませんが、科学に関する文献で、「偶然」「ランダム」という言葉があまりに適当に、あるいは都合よく使われているのでいらいらすることがあるのです。
次に、自我についてですが、レヴィ=ストロースは、
「私の著作は、私の知らぬまに私のなかで考え出されているのです。私は以前から現在に至るまで、自分の人格的アイデンティティ(同一性)の実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、「私が」どうするとか「私を」こうするとかいうことはありません。私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受身の性質のもので何かがそこでおこるだけです」(18ページ)。
「私の考えでは、人間に人格的アイデンティティを押し付けているのは社会」(19ページ)
と述べています。
この「ものごとのおこる交叉点」「まったく受身の性質のもの」ということに関しては、そのとおりだと私も思います(「自我・欲望・感情について」を読んでみてください)。ただ、自分自身というものは、身体(脳も含む)的に、いやおうなしに感じてしまうものだと思います。人間がこの地球上に自分一人しかいなかったとしても、この自分自身という感覚は、お腹がすいたとき、お腹がいたいとき、怖いとき、など何らかの感覚や感情を感じるときに、いやおうなしに受け取ってしまうものだと思います。それは社会が押し付けたものではありません。
一方で、「私」「あなた」という観念付きで自分自身を感じることとは別の事柄であると思います(もちろんお互いに関連しあってはいますが)。それは、この世界における人間関係の中で生じてくるものだと思います。
そして、「私の知らぬまに私のなかで考え出されている」ことは、私たちの脳の中で起こっている出来事です。私の存在なしには起こり得なかった、考え出されなかったことです。
今は、ヤコブソンとの出会いの章(第二章 声とインセスト)を読んでいるところです。最後まで読んでゆっくり頭の中を整理したいです。私が感じる記号論に対する違和感などについてもうまくまとめられたらと思います。
私はこのブログで、法則と単なる因果関係との違いは相対的なものでしかない、人間の都合で恣意的に区別されているにすぎない、という前提のもと(「法則とは何か?」という記事を参照ください)、人が法則というものを見つけ「理解した」「わかった」と感じながら、この世界を分析していく行為について検証しなおしてみようと思っています。
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