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2009年4月30日 (木)

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(その2)

 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)の後半部分を久し振りに読んでみました。

 次の二点について感じたことを書いてみます。

1.「法則」と「因果関係」との違いとは?

 マックス・ヴェーバーのこの著書においても、その違いについて明確に述べられているわけではありません。

ただ、文脈から見て、

法則・・・(実在から抽出され)さらに法則から実在が演繹できるような理論
因果関係・・・一度きりの出来事

という意味合いで書き分けられているように思われます。しかし、この世界の因果関係が、上のように二分できるようには思えません。

 それについては、このブログの法則とは何か?という記事でも述べています(下の図でも少し触れています)。法則と因果関係との違いはあくまで相対的なものです。ヴェーバーの著書の中ではその違いはあまり意識されていないように感じます。

2.常に理念型が必要とは限らないのでは?

 分析対象といっても、思考の中で完成された一種のユートピア社会(?)としての理念型を適用するような社会組織から、その社会組織の一要素まで、その範囲は様々であると考えられます。

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 図(左の画像です)にも示してありますが、社会(実存世界)の小さな構成要素が分析の対象となる場合、分析者の視点による概念形成の差異がより少なくなると思われます。

 自然科学と社会科学との違いについても、実は、上の図に示されているような相対的なものでしかありません。
 たとえば、ある分子と分子との反応によって、別の分子ができる、という因果関係は、その反応にかかわる要素が限られたものであるため、分析者の視点による違いが出にくいと思われます(図1)。
 一方、ある社会組織と社会組織との関係、あるいは、ひとつの社会形態が、ある要因によって別の社会形態に変化する、といった分析の場合、分析対象となる社会が、様々な要素を含んでいるものであり、分析者の視点によって、その社会の定義、範囲その他、様々に変化する可能性があります(図2)。

 図1と図2の分析は、明確に二分できるものではなく、あくまで程度の問題であると考えられます。

 私が大学にいた頃は、社会科学は自然科学とは質的に違うんだ、としばしば教えられたものです。確かに、実際の分析手順に関しては違いがあるのですが、その違いとは、実はあくまで相対的なものでしかない、程度の違いでしかない、ということです。

 また逆に、たとえば

2H2 + O2 → 2H2O

という化学式や、他の数式モデルを、「理念型」と呼ぶことも可能かもしれません。モデル仮説(=理念型)を思考の中で作りあげ、現実(実存世界)と照らし合わせ検証しているわけです。

(※『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、その1の記事はこちらです。)

※ 追記(2009年5月24日)

 理念型とは、ヴェーバーの定義ではあくまで人間の動機・意志を起点にした「動機→手段・行為→結果」のモデルであるため、本当は単なる化学式などを理念型と呼ぶのは正しくないようです。

 「理念型とは?」の記事はこちらをご覧ください

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2009年4月11日 (土)

とりとめもなく・・・

今、いろいろと考えていることなのですが・・・

(その1)

包括適応度の評価をする場合、

1.評価の対象となる集団の範囲
2.包括適応度の変化を評価する期間

上の1と2を恣意的に変動させた事例を並列・比較して説明しても意味がないように思えます。
どうとでも説明できてしまう恐れがありそうです。

(その2)

『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)を少しづつ呼んでいます。

印象として、
現実社会から観念を抽出する際に、どうしても恣意性を感じてしまうのです。
まだうまく説明できないのですが・・・とりあえず最後まで読んでみます。

(その3)

その2と関連するのかしてないのか微妙なところですが、

例えば、AとBという文字があります。

AとBとの共通性について考えた場合、
・AとBは同じアルファベットの文字だ
・どちらもエィ、ビィと少しだけ伸ばして発音する

・・・というふうに共通性を抽出することが可能です。この他にもいろいろと考えられるかもしれません。
この共通性から、AとBの同一性を強調し、AとBを同じカテゴリーに分類できるもとの見なしたり、
AとBはなぜ共通項を持つのか、といったかんじの問題提示をすることもできます。

一方で、

AとBの違いについて考えた場合、
・AとBは形が文字の形が全然違う
・Aはエィ、Bはビィ(破裂音?)、と違う発音である
・単語の中でAは母音としてBは子音として使われる

・・・というふうに違い・差異を強調することも可能です。
そしてAとBを違うカテゴリーとして分類することもできます。
AとBはなぜ違うのか、といった問題提示も可能でしょう。

少々たとえが悪かったかもしれませんが・・・

ここで言いたかったのは、視点の違いにより、同じモノ・現象等から、
共通点を抽出することもできるし、違い・差異を抽出することも可能だということです。

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2009年4月 7日 (火)

近況・・・

とくに、ここ2年くらいは本をまともに読めない時期が続きました。活字が意識を上すべりしてしまい、頭の中になかなか入りませんでした。本を開くことさえ苦痛に思えるようになっていました。仕事上で必要なことがある場合のみ、なんとか部分的に読む、といったかんじでした。

先月のことですが・・・やっぱり仕事上必要だろう、ということで松田権六さんの『うるしの話』を読むことにしたのですが、ちょっとづつ進むにつれ、だんだんと、本を読むという感覚が戻ってきました。松田さんのお陰です・・・

今は、頭のリハビリも兼ねて、本を読むようにしています。

人間の意識と、法則との関連について考えながら、渡辺公三さんの『レヴィ=ストロース 構造』を再び読み始めました。いろいろと突っ込みどころがあるような気がしますが、よく頭の中を整理してから何かしら書いてみたい、と思っています。レヴィ=ストロースの著書は、お恥ずかしながら『悲しき熱帯』しか読んだことがありません。先日『構造人類学』のさわりを読むことができました。ちょっと興味深い文章などを見つけました。そのうち読み進めてみたいです。

数年前に読んだ岩井克人さんの『貨幣論』(ちくま学芸文庫)も読み直しています。その数年前に残したメモがあります。

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岩井克人さんの『貨幣論』(ちくま学芸文庫)を2章まで読んだところだ。

「「歴史の偶然」「歴史の事実性」としかいいようのない無根拠な出来事であり、まさにひとつの「奇跡」にほかならない。」(105ページ)
というところで、気になったのが、
単一の理論に還元できないことは、「無根拠」であるということとは違う、ということ。
偶然起こったことは、無根拠なのではない。
奇跡も無根拠に起こったのではない。

何が貨幣に選ばれるのか、そのプロセスは単一の理論で説明できるわけではない。

人為的な貨幣を政府がつくりだして、それがうまく流通するようになった場合もあろうし、
金や銀の人の心をひきつける性質や、その鋳造のやりやすさから、なりゆきで金銀が貨幣になったこともあろう。
家畜が、多くの人が持っている財産で、多くの人に必要とされているものだったから、それが貨幣のような役割を果たすようになったこともあろう。

(中略)

・・・この世界のルールの根拠を、モノや観念だけから推測しようとすれば、結局循環論法っぽくなるか、無根拠だ、というしかなくなる。
それらを支えているのは、そうあってほしい、と願う、あるいは欲する人間そのものだ。

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また、「貨幣商品説的に合理化された歴史も貨幣法制的に合理化された歴史も、それぞれ数ある可能な歴史の道筋のひとつにすぎず、先見的にはなんらの必然性ももってはいない」

という表現も気になります。必然性・・・?

『貨幣論』についての私の見解もまとめていきたいし、史的唯物論の問題点(唯物論と唯心論と分けること自体ナンセンスだと思います)、物事を一元的に説明したがる人間の気持ち、そういったものについても考えているところです。

あと・・・このブログの第2章「意味とは」の後半部分を大幅に修正したいと思っていたのですが、だいたいの方向性はまとまってきました。「現象の背後にある意図を推測する」を削除しようかどうか考えているところです。

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