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2009年5月24日 (日)

『レヴィ=ストロース 構造』その2

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)は、ときどき、気が向いたときに、進んだり戻ったりしながら読んでいます。第三章の途中だったのですが、再び第二章に戻ってみました。

 第二章「声とインセスト」ですが、なかなかしっくりと来ないというか、すっきりと理解ができません。いくつか疑問点を挙げてみます。

1.無意識とは?

 ヤコブソンの「弁別特性」ですが、これは本当に人間の無意識の産物、と言ってしまってよいのでしょうか?

 たとえば、開/閉、前方/後方、円唇化/非円唇化、などと分類できる母音、あるいは破裂音であるpとbが「無声」「有声」と対をなしているとか、これらのことは、人間の意識・無意識、というよりは、人間の体(とくに発声に関する部分)の構造によるものなのではないか、ということです。人間の体の構造により、おのずから発声できる声・音の種類は限られてきます。

 一方、たしかに文法についていえば、単に体の構造というよりは、脳の構造といった方が良いのかもしれません。無意識の構造、という言い方もそんなに外れていないような気もします。

 このように、無意識の構造といっても、人体の構造に規定されているものから、脳あるいはその他のものに規定されているものなど、いろいろあると思います。それらを「無意識」とひとまとめにしてしまっても良いのかどうか・・・?
 
 いずれにせよ、言語というものは、生物としての人間の構造によっても規定されているものであり(もちろんその他さまざまな要因の影響もあるでしょう)、親族の構造についても、同じことが言えるのかもしれません。たとえば、ある程度は人間の生物的な性質の影響が厳密でない形で影響を及ぼしている可能性もあるのでは、ということです。(実際そのような要因があるというニュースを聞いたことがあるのですが、詳しいことについては知らないので、ここで述べるのは控えておきます)


2.いったい何を説明したいのか?

 「体系は自明だったが、機能は知られていない」という親族の構造について、

 親族関係の構造における、「精神構造」は
①規則としての規則の必然性
②自己と他者の対立を統合しうるもっとも直接的な形式としての互酬性の概念
③ある個人から別の個人への価値物の移転が、二人をパートナーに変え、価値物に新たな性質を与えるという贈与の総合的な性質

これらが、女性の授受をもたらす直接的要因としてつながりが明確に示されているようにも思えません。

 この第二章で読んだかぎりでは、レヴィ=ストロースの理論は、女性どうしを交換したら、このような社会構造になった、というところを説明していますが、それ以上のことは説明していないのでは、とも感じられます。
(当然、それはそれで立派な理論だとは思いますが)

 インセストを避けたいために他の婚姻クラスから女性を受け取るのか、身内以外の女性と結婚したいために、他の婚姻クラスから女性を探すのか、結果としては同じことでも、その理由というものは結局わからない、ということのようにも思えます。

 たとえば、規則としての規則、とか交換のための交換、というのは説明になっていません。それは、生物としての人間が規則を欲している、あるいは交換を欲する生き物なのである、という説明と同義であると思います。
つまり、人間の生物学的(?)な欲求、ということになってしまうような気がします。

 そのものの周囲にあるものとの因果関係を捨てて、そのもの自体・そのものの内部にある構造を見つけ、それをその存在意義にする、という論理構成自体に、無理があるのでは?という気もします。

 とりあえず途中経過です。まだ最後まで読んでいないし、誤解している部分もあるかもしれません。『構造人類学』も読んでおきたいです。

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2009年5月20日 (水)

一元的に説明できる理論への誘惑

 『社会科学の方法 -ヴェーバーとマルクス-』(大塚久雄著、岩波新書)は、学生だったときに読んだ記憶があります。内容については全く忘れてしまっていたのですが・・・先日、たまたま本屋で見つけたので、読み直してみました。

 大塚氏は、日本のマルキシズムの問題点についても触れられています。

 「日本のばあいには、明治以来いろんな思想や科学諸部門の研究成果がごちゃごちゃと一緒に入ってきたばかりでなく、文化統合の原理についても、宗教と科学をわかつ一線がまだ十分に明確に認識されないままのところへ、マルキシズムがそういう原理として、唯物論という一貫した理論をもちこんできたものですから、ひじょうに大きな衝撃を与えることになった。」
 「なかには、経済学さえやればいいのだ、あとはやらなくていいという人さえあるという話すら聞きます。経済さえわかっていれば、あとのことはみなわかるはずだ。」
(202~203ページ)

 念のために記しておきますが、この本は1960年代に書かれたものです。さすがに、現在では経済学さえやればいい、という人はほとんどいないとは思いますが・・・
 しかし、私の学生時代にも『資本論』をバイブルのように使う研究者を見かけたこともあります。講義では、労農派と講座派どちらか?とか言う先生もいらっしゃいました。私は労農派だとか・・・
(世界中の国々がみな同じ経過をたどって社会主義になるのだ、あるいはなるべきだ、と考えている人は今ではほとんどいないでしょうが)
 
 ただ、「文化統合の原理」というものが実際存在するのか、そもそも存在する必要があるのか・・・?
という疑問もあります。

 それにしても、なんでも一元的に説明できる理論・法則というものへの誘惑は大きなものなのだな、と感じます。

 人は、現在や未来について分析・予測する際、何らかの基準を持っていれば、より安心して生活できると思います。とくにある要因のみから一元的にこの世界を分析できるような理論があれば、確かにそれにすがりたくなる気持ちも出てくるでしょう。
 それは、宗教における神様に似ているようにも思えます。生産力で何でも説明できるかのような説明をする唯物論というかマルクス主義の理論(ただし、マルクス自身はそう言い切っていたわけでもなさそうです)、包括適応度の理論、唯脳論、etc.・・・

 なんでも単一の理論にあてはめて説明できれば便利ではありますが、あくまで理論というものは、社会をある一面から見る道具にしかすぎません。

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 『社会科学の方法 -ヴェーバーとマルクス-』については、下のような視点で読んでいました。

1.「疎外」について・・・疎外は経済活動以外においても起こりうるものではないのか、マルクス経済学では経済理論が科学となるための前提のように扱われているようであるが、本当にそうなのか?
(このあたりは資本論などを検証してみる必要がありそうです)

2.必然・偶然とは?・・・この世界は様々な要素が影響しあいながら動いています。その因果の複雑な網の目のうち、

人間がその因果をたどれた(と感じた)ものについては→必然
人間がその因果をたどれなかったものについては→偶然

と呼んでいるにすぎないのです。

 貨幣の必然性(25ページ)、偶然的な自由(29ページ)という言葉にちょっとひっかかったもので・・・

3.自由な意思について

 これはこのブログの3章で取り扱っている問題ですが、1の疎外の問題や2の必然・偶然の問題とも関連しているかもしれません。
 そもそも「自由」という言葉自体が人間の作り出した限定された概念にすぎません。人間の意志といえども、この世界の複雑な因果の網の目の外側に出るものではありません。

4.社会科学と自然科学について

 大塚氏によると、ヴェーバーも基本的には自然科学と社会科学と根本的に変わるところはない、と考えていたようです。ただ、社会科学の場合、人の意思決定が入り込むことで、手法もそれに合わせたものである必要がある、ということです(いわゆる理念型)。

5.文化統合の理論

 そういうものが成り立ちうるのか、あるいは本当に必要なのか?

 これらの視点について、後日、まとめてみようと思います。

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2009年5月16日 (土)

理念型とは?

 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)を読んでも、今一つしっくりこないので、『理解社会学のカテゴリー』(マックス・ウェーバー著、林道義訳、岩波書店)と、『社会学の根本概念』(マックス・ヴェーバー著、清水幾太郎訳、岩波書店)の前半部分を読みながら、さらに考えていたら、「理念型」について、だんだんとすっきり理解できるようになりました。

 理念型を作りだし、それに従って社会を見る方法は、人が日常的に行っているものの見方の一つであるように思われます。

 人が他人の行為を見る場合、

 まず、その人の置かれた状況により、どんな動機(欲望、欲求、目的)を持ちうるか想像します。すると、その動機に従えばどのような行為をとるべきか、ある程度は考えが浮かぶでしょう。

 そして、その人(他人)の実際の行為を見て実際にその予想通りだったら、合理的な行動だなと納得するでしょうし、もし違っていたら、なぜそんなことをするんだ?自分ならこうするのに、あるいは自分が想像していたのとは違う動機がその人にあったのかも?と疑問に思うでしょう。

 社会学研究においては、そのやり方を論理的により厳密化した上で行おう、そして人間の動機というものが分析の中に入り込んでいるこをと明確に認識しよう、ということでしょう。

 さらに、下の事柄について考えてみました。

1.(主観的)意味=動機=欲望=目的であること

 ヴェーバーの理念型に関する記述をわかりにくくしているのは、「意味」という言葉でしょう。主観的意味とか、意味連関とか、意味がある行為とかない行為とか・・・
 これらの「意味」という言葉を「動機」と書き換えてみると、非常にすっきりと理解ができると思います。

 『理解社会学のカテゴリー』の訳者の解説においては、

 「まず、「主観的意味」ということであるが、これをウェーバーはときにはMotivといい変えることもある。このMotivはやはり「動機」と訳さざるをえないと思うが、しかし日本語の「動機」とすると、一方ではわかりやすくなる反面、どうもいくたの誤解を生むもとになっているように思えてならない。私は本論文のように、あくまで「主観的意味」で押し通すべきだと考える。というのは、「主観的意味」というのは、単なる人間行動の「意図」とか「目的」とかいう意味の「動機」でもなければ、また単なる本能的衝動(食・性・原始宗教心・金銭欲など)という意味での「動機」でもない。そういうものも含むけれど、それとはやや感じのちがうものである。」(『理解社会学のカテゴリー』訳者解説の108ページより)

 また、ヴェーバー自身も、理念型をつくりあげる際の主観的意味(動機?)について述べるとき、心理学的な欲望のようなものとは違うと述べています。

 「たとえば「利益追求」というような範疇は「心理学」の中には存在しない。」(『理解社会学のカテゴリー』17ページ)

 このような言葉をそのまま理解しようとすると、いったい理念型の中の動機とは・・・?と頭が混乱してしまいます。
 私自身、考えてみて気づいたのは、結局のところ、これは分析者(=理念型をつくる人)自身の頭の中にある欲望・欲求のカテゴリーなのではないか、ということです。
 たとえば、人間の感情・情動の分類においては、現時点においても定説というものがないようです。研究者の視点によってさまざまな分類方法が併存しています。同じように、人間の欲望・欲求というものも、分析者の視点によって様々に分類が可能です。
 たとえば、本能的欲求・理性的な欲求、という分類も可能でしょうし、利益追及・理念追求・慣習追従、食欲・性欲・名誉欲・○○欲・・・など、あるいは心理学においては分析目的に応じてさらに細かい欲求の分類がなされていると思います。
 人が分析対象となる他人の行為の動機を推測する際には、必然的に、分析者の視点による動機・欲望のカテゴリーが準備されているのです(図1 理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その1)。

Rinen1_2

図1 理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その1

 
 
 「利益追求」という範疇が心理学にないとヴェーバーが述べているとしても、それはあくまで心理的な欲求の一つのカテゴリーであるわけです。心理学の分析目的と視点が違うためにカテゴリーが異なっているにすぎません。

 そして、「意味」というものが、人間の欲望、欲求の反映であることは、すでに述べています(「意味とは? ~ 意味が生じるプロセス」の記事を参考にしてください)。

 このように、意味という言葉に惑わされなければ、かなりすっきりと理解ができるようになるのでは、と思います。

 
 そして、次にヴェーバーの言う社会学的手法と、心理学的手法との差異はあくまで相対的なものでしかない、ということを図2(理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その2)に示しました。

Rinen2_2

図2(理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その2

 ヴェーバー自身も、動機・意味が理解できる行動や、理解できない心的ないし生理的事実、その他の間は明確な境界によって分離できるものではないとは述べています。(『理解社会学のカテゴリー』26~27ページ)

 ただ、図2のように、学問としての社会学的手法と心理学的手法との間についても、同じように明確な境界はないのだ、ということを認識していたかどうかはわかりません。

2.どこを起点にして分析するのか

 この世界は、様々な要素がお互いに影響しあう、因果関係の網の目のようなものです。それは人間の心理についても言えることです。本能でさえ、何もないところから自動的に出てきたものではなく、様々な要因が重なり合った上で発生してくるものなのです。

 ヴェーバーは、人の意志は、それ以上さかのぼることのできない、そしてそれ以上説明不能なものである、と認識しているように思えます。しかし、人間の意識もその因果関係の網の目から抜け出ているものではありません。

 ですから、様々な要因が人間の心理に与える影響という研究自体も当然存在しうるし、実際存在しているわけです。
 ただ、利益追求、理念追求・・・といったような大雑把な欲求のカテゴリーを設定してしまった場合は、その心理に与える影響についての分析が非常に困難になる面もあるとは思います。
 人間の心理・意志がそれ以上さかのぼることのできない究極的なものだから分析ができないのではなく、その前提となる心理・意志・欲望のカテゴリーが大雑把である場合は、そのカテゴリーの中にさらに多様な欲求を含んでいるため、分析が困難にならざるをえない、ということであると思います。

 結局のところ、ヴェーバーの場合は、動機を起点にして人間の行為を分析したものを「社会学」と呼びましょう、ということであると思います(ヴェーバー自身がそう述べたかどうかは別にして)。

3.「客観性」の根拠についても、さらに考えてみたい

 結局のところ、すべての科学における「客観性」の根拠は、現実社会・現実世界(宇宙全体含む)です。すべての理論は現実世界と比較された上で、正しい・間違いと検証されていきます。
 ただ、その現実世界の認識、正しい・間違いという認識を行う際、どうしても人間の生物的な限界というものが出てきます。
 そのあたりは、竹田青嗣さんの『現象学入門』あたりもヒントにして、別の機会に述べてみたいと思います。

※ 本により、「ヴェーバー」だったり「ウェーバー」だったりするのですが、引用部分は統一せずにそのままにしておきました。

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2009年5月 6日 (水)

遺伝子に操られる・・・? 遺伝子に逆らう・・・?

 包括適応度のところのコメントに対する回答を、もっと納得できるような内容にしたいので、ゲーム理論についてもう一度ちゃんと見直しておいた方が良いかな・・・

・・・と思い、『生命の意味 進化生態からみた教養の生物学』(桑村哲生著 裳華房)を読んでいたら、下のような文章が目に入りました。

「ただし、人間だけは血縁選択でもなく互恵的でもない、純粋な利他行動もできるように思います。ただし、そういう行動がとれるのは、遺伝子に操られるのではなくて、遺伝子に逆らって、理性的にふるまえる人に限られるはずです」(138ページ)
(引用はここまでです)

 「遺伝子に操られる」「遺伝子に逆らう」という表現のところに、どうもひっかかってしまいます。人間のすべての生命活動において、遺伝子が何らかの形で関与しているわけです。人の行為は遺伝子に逆らって行われているのではありません。人が理性的な(と一般的に言われているような)行為を行う場合も、あくまで環境と遺伝子の相互作用の中で起こった出来事なわけです。
 理性的(と言われる)行為も、遺伝子の関与なくしてはありえないと思います。

 つまり、遺伝子にそのような限界があるのではなく、

<遺伝子の関与→血縁選択・互恵的な行為>

という理論に縛られている人たちの思考パターンに限界があるのだと思います。

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2009年5月 3日 (日)

修正したい箇所

 法則とは何か?の記事を、あらためて見なおしてみたのですが、少し修正した方がよさそうな気がしました。

 先日の記事の内容もとりいれながら、書き直したいと思っています。

 実験というものは、同じ環境を再現して行うわけですが、全く同じ環境、というのは実は不可能なことです。たとえば、酸素分子を使った実験を2度行ったとして、1度目と2度目に使われた酸素分子は同じものではありません。また、地球の位置、宇宙の配置、その他さまざまな環境が、1度目と2度目とでは異なっています。(ただ、その違いが実験結果に反映されることが少ないわけですが)

・・・何でこんなことを書いているのかというと、自然科学も社会科学もその違いは、あくまで相対的なものでしかない、ある境界線によってくっきりと二分できるものではない、ということが言いたかったわけです。

 ただ実際の分析において、再現性の程度によって手法が異なってくるのはやむを得ないわけですが・・・

再現性がほとんどないようなものについて、どのような分析が「科学」として成り立ちうるのか、

客観的な分析と、(ある人の想像→他の人たちからの共感)によって支持されている意見・理論(?)との違いはどのあたりにあるのか、

そのあたりをもう少し考えてみたいと思います。

 第2章後半も早く修正したいですね・・・

 第3章は、道徳についても書こうと思っていたのですが、この章はやっぱり、感情、本能(本能とは・・・?)、そして「自由」意志(「自由」という概念についてきちんと検証されているような気がしていません)について述べて終わりにしようと思いました。道徳関連は、第5章ですね・・・

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