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2009年6月29日 (月)

現象学入門

 『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)と『言語的思考へ 脱構築と現象学』(竹田青嗣著、径書房)は、非常に参考になった本です。この2冊を読んでから、自分自身の思考がかなりクリヤーになり、新たな問題に関して自分なりの視点を持てるようになりました。

 今、『現象学入門』を再び読み直しているところです。とてもわかりやすく説明してくれています。細かいところはだいぶ忘れてしまっていますね・・・数年前の本への書き込みを見ながら懐かしい気持ちになりました。

 ただ、いくつか違和感を感じる部分もあるので、それらの問題についても考えてみたいと思っています。

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 客観/主観と分離させることはナンセンスだ、と私も思います。そして、唯心論/唯物論、どちらが正しいとか議論することもナンセンスだと思います。

 結局のところ、本質・意味、客観・主観、世界の「本当の姿」、自由、偶然・必然、運命、これらすべて人間が頭の中で考え出した「観念」にしかすぎません。これらの観念を用いて世界を見ようとすることで、かえって人間の思考に混乱をもたらしています。

 それらの観念を一つ一つ検証していくことで、そのもつれた思考の糸をほぐしていけるのではと思います。

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 哲学といわれているものの中には、脳科学や生物学で解決できてしまうような、つまり「実証科学」の部分がかなり含まれていると思います。それら自然科学から目を背けながら、価値判断(これも哲学と呼ばれていますね)を混入することで、わざと結論を避けようとしているのでは・・・と思われるような文章を読んだこともあります。(何年も前のあいまいな記憶なのですが・・・すみません) 

 一方、生物学は、まだ思考が機能主義で止まっているような印象を受けます。生物学は、生物社会学や生物の行動の分析など、社会学との境界にあるような分野も含んでいます。そこでは、誤った観念の使い方をよく見かけます(このブログでも採り上げていますが)。

 このあたりの混乱を私なりに整理できれば・・・と思っています。

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2009年6月28日 (日)

『レヴィ=ストロース 構造』その6

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)、やっと最後まで読み終わりました。

 神話論はすごいですね。壮大なパズルを解いているようです。様々な知識がなければ解くことができないでしょう。アメリカ大陸以外の神話、昔話ではどうなのでしょうね・・・? 日本の昔話にも、何がいいたいのかよくわからない部分がけっこうありますね。

 ただ、これらの分析が本当に正しいと言えるのかどうにも確かめようがありません。また、神話には作者がない、とも言い切れないと思います。要するにわからないのだと思います(作者が複数の人たちである可能性もありますね)。その神話がどのように形成され、どのように伝承されていったのか、その神話が出始めた頃にタイムトリップ(?)して調べ上げれば(いわゆる『構造人類学』にも書いてある「詳細な歴史」がわかれば)謎がかなりの程度解けるかもしれません。しかしそれはもう無理な話です。

 レヴィ=ストロースがしているような、神話が無意識のうちに何を伝えようとしているのか、という分析については、分析が特に「意識されぬもの」の領域であるほど、その客観的な説明が困難にならざるをえないでしょう。結局、検証する術のない「仮説」であるため、共感する、しない、で評価が分かれざるをえない、と言えるでしょう。実際、この本にも共感、という言葉が出てきます。

 「こうしたレヴィ=ストロースの論旨の展開を共感をもってたどれるか、あるいは索強付会として距離を置くかによってその評価は大きく分かれるであろう。」(265ページ)
 「構造分析の感受性」(13ページ)
 「こうした構造分析の小手調べにも、意表を衝いた発見があることを認め、共感できるかどうか、という点が構造主義への感受性の評価の分かれ目のひとつとなるだろう。」(16ページ)

 また、複数の神話の中に、共通点や、あるいは対になる要素を感じ取れるのは事実でしょう。しかし、それが何を意味しているのかを判断する際、どうしても分析者の価値判断が紛れ込んでしまいがちです。

 社会科学では、仮説と証明された理論、客観的判断と価値判断との混同が生じやすいと思います。そのあたりが社会科学で感じる「あやしさ」なのでしょう。

 レヴィ=ストロースの理論については『構造人類学』を読んで、さらに考えてみたいです。まだ第一章を読んでいるところですが、レヴィ=ストロースの問題意識については共感するものが多いです。これらの問題にどのように立ち向かっていったのか、見てみたいと思います。

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2009年6月19日 (金)

ランダムとは? その2

 例えば、サイコロをふって1が出る確率をP1、xが出る確率をPxとします。

Px = f(x1, x2, x3,........., xn)

ここで、x1, x2, x3,........,xnとは、出てくるサイコロの目に影響を及ぼす要因です。例えば、サイコロを持った時の方向や、それぞれの筋肉の動き、その他無数にあります。(実際には要因どうしも網の目のように絡み合って影響し合っているのでしょうが、わかりにくいのでここではこのように単純化しておきます)

そして、n(要因の数)→∞ のとき、

P1=P2=P3=P4=P5=P6

と言えるのだ思います。つまり、ランダムとは「でたらめ」「乱雑」、「無秩序」なことではなく、関係する要因が多くなるほど、結果(確率)が均一化されるという「規則」「法則」なのだ、とも言えると思います。

 例えば、サイコロの1の目が上になるように持ち、なるべく低い場所からそっと押しだすように落としてやれば、1の目の出る確率はかなり高くなると思われます。あるいは、空気の状態その他周囲の状態を同一にして、精密機械でサイコロを同じ向きに同じ力で転がせば、常に同じ目を出すことができると思います。

 一方、サイコロを手に持って高いところから振り下ろすだけで、どのサイコロの目が出るのかとたんに判断が困難になります。人間の腕一本の中にも様々な筋肉、骨、その他数えきれないほどのさまざまな要素が関係しています。

 そして、そのサイコロの目が出るまでに関係する要因の数が非常に多くなれば、1~6の目が出る確率が平準化されていきます。

 実際、例えば1からnという整数がランダムに表示される、ということは、

P1=P2=P3=P4=P5=・・・・・=Pn

ということと同義のようです。


 しかし、実際に要因の数が無限大になるというのは、あくまで人間の思考の中のことでしょう。
(とりあえずここではこう断定しておきます。最新の科学では、このあたりはどのように認識されているのでしょうか・・・?)

 実際には、n(要因の数)が十分に多くなれば、それぞれのサイコロの目が出る確率は、

P1≒P1≒P2≒P3≒P4≒P5≒P6

となり、ほぼランダムと考えて差し支えない、といったところでしょうか。


 最初に書いた、

 Px = f(x1, x2, x3,........., xn) として、

 n→∞ のときに P1=P2=・・・=P6

という図式を考えれば、完全なランダムというものを見つけそうとすることは、無限大を見つけ出そうとすることと同じであると考えられます。


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 このように、人間によって制御されない、人間が知らないうちに出来てしまっている規則、というものがあることは、よく考えてみればとても不思議です。

 ランダムほどに厳密ではありませんが、経済学における「神の見えざる手」も、このような規則と言えるかと思います。そのような法則が、その他社会科学の分野においてもみられる可能性はあります。

 こうなると、社会科学なのか自然科学なのか、その境はよくわからなくなりますね。
 
 まだ頭の中がまとまってないのですが・・・ヴェーバーにおける「理念型」を用いた分析のような社会科学の手法、個別の事象の分析、そしてそれらを超えて知らず知らずの間に出来てしまう規則・法則・・・そういったことについて考えているところです。

 レヴィ=ストロースの『構造人類学』の序「第一章 歴史学と民族学」の7ページに書いてある文章ですが、

「だからして、タイラーが次のように書くとき ― 「われわれが諸事実の総体から一つの法則を引き出すことができたときには、詳しい歴史というものの役割はすでに大きく乗りこえられてしまっている。磁石が一片の鉄を吸い寄せるのを見て、その経験から磁石が鉄を吸い寄せるという一般法則を引き出すにいたったならば、なにも当の磁石の歴史などを苦労してきわめる必要はないのだ」 ― 、彼は実際にはわれわれを一つの円環の中に閉じこめてしまうのである。というのは、物理学者とはちがって民族学者は、磁石や鉄にあたるような対象の決定に関し、また二つの磁石あるいは二片の鉄とうわべは見える対象の同一性を確認する可能性に関して、いまだ不確かであるからである。ただ「詳細な歴史」のみが、一々の場合にその疑念を晴らすことを可能にするのだ。」

・・・もっと頭の中が整理されたら、また何か書こうと思います。

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2009年6月17日 (水)

『レヴィ=ストロース 構造』その5

『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)の第五章「幻想から思考へ」まで読みました。とりあえず感じたことを書いてみますが、最後まで読んでからまたきちんと考えたいです。

●レヴィ=ストロースは、機能主義を批判していますが、レヴィ=ストロースの説明のとおりならば、確かに当たっているかなぁ、と思いました。
 すべてのことが関係しあっていることと、すべてのことが機能で説明できることとは違うと思います。
 機能主義は、人間のすべての行為を、包括適応度で説明しようとすることと似ていると感じました。

●「種としての個体」という概念は、どのようにも説明できそうな、恣意性のようなものをどうしても感じてしまいますが・・・もっと理解が進んでから、またコメントしたいです。
 ただ、人間が自然から思考の体系を築き上げる、というのは「野生の思考」に限ったことではなく、科学的な思考においても、最終的には客観性を支えるものは、この世界・自然という人間にはどうしようもない、すでにあるものとして受け入れざるをえない事実・現実であると思います。
(やや理解がずれているかもしれないので、もう少し考えてみたいと思います。)

●「伝統社会における自然認識、そして生命形態の多様性の認識が、最先端の「科学的」分類にもけして劣らない首尾一貫した精緻なものでありうることを明らかにした。たとえばフィリピンに住むある集団は、1625種類の植物を区別するが、それは植物学上は650属約1100種に対応するという。」(216ページ)
・・・とあるように、複雑な知識を持っているのは、先進(?)社会というか工業国(?うまい表現がみつかりません)のみではないと思います。
 ただ、「そこでは人間に対して腹を立てた動物は病気を送り込み、人間の見方である植物が薬を供給して応戦すると解釈され、「胃病と足の痛みは蛇、赤痢はスカンク、鼻血はリス」等々・・・のせいにされる。」(228ページ、アメリカ合衆国南東部のインディアンの事例)のような、理論をどう思うか、ということなのですが・・・
 理論や知識が精密であることと、それが本当に正しいと思えるのか、ということとは別であると思います。確かに現代社会においても、根拠のなさそうな、本当に正しいのか疑わしいことを根幹にして精緻な理論を積み立てている思考形態が、あちこちにあるような気はしますが・・・

 レヴィ=ストロースに関しては、いろいろ考えるヒントというか、気になるフレーズもあちこちに見つけています。そのうち、それらをうまくつないで説明できればなぁと思っています。 
 ちなみに、タイトルについてですが、検証する術のない暗号解読という記事が、「『レヴィ=ストロース 構造』その4」にあたります。

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2009年6月12日 (金)

検証する術のない暗号解読

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)の第四章「神話と詩のあいだに」まで読みました。少しづつではありますが、だんだんと理解できるようにはなってきました。

 理論の客観性をもたらすものは、この現実世界です。理論をこの世界と照らし合わせ、適合するのか、あるいはどの程度適合するのか、ということを見極めることで、その理論が正しいか(あるいはどの程度正しいのか)を明らかにすることができます。

 自然科学においては、理論が実証(つまり現実世界でそれが再現あるいは観察できる)されてはじめて正しいと判断されます。経済理論は、現実の経済がそのように動くことを見極めたうえで、正しかったかどうか判断するでしょう。
 ちょっと違う分野になりますが、昔の文字の解読はどうでしょうか・・・? まずは、仮説として一定の文法を当てはめ、それぞれの文字の意味を推測し、それらがちゃんとしていた文章になっているとしたら、かなり信憑性の高い仮説であると認められるでしょう。そして、関連する遺跡やその他現存している遺品、その他の文献などを調べることで、ある程度はその解読法が本当に正しかったかどうか検証することが可能でしょう。
 学問とは違いますが、たとえば軍事的な暗号解読では、暗号を読み取って敵の作戦を正確に当てることができれば、その暗号解読が正しかったと判断できると思います。

 レヴィ=ストロースの構造についてですが、確かに、人間の知らないところで、いつの間にかいろいろな構造、相互関係が形成されていることは珍しくないと思われます。書いたもの、話したものについても、書き手・話し手が伝えようとした内容以外のものが、読み手・聞き手に伝わってしまう、そんなことも日常茶飯事だと思います。

 レヴィ=ストロースの神話論は、神話の暗号解読のようにも思えます。それぞれの文章、文節を取り出し、それぞれを意味づけして、並べ分析することは可能でしょう。
 ただ、その取り出し方に恣意性がなかったか、そしてそこから取り出した構造は、本当にレヴィ=ストロースの考えたようなものであったのか、それを検証する術はあるのでしょうか・・・?
 ここまで読んだかんじでは、あくまでそれはレヴィ=ストロースの感性に任されているような気がします。そして、それを他の人が正しいと思うかどうか、それもその人たちの共感力(?)にゆだねられているような気がします。

 レヴィ=ストロースの神話論は、なんだか、検証する術のない暗号解読のようです。

 だからといって、それが間違いだ、と断言しているのではありません。ひょっとしたら正しいのかもしれません。ただ、それを判断する方法はあるのでしょうか・・・?

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 例えば、私たちが「良いお天気ですね」と挨拶するとき、必ずしも天気の話をしたいと思っているとは限らないと思います。会話の内容ではなく、会話する、挨拶することで関係を確かめる意味合いもあるでしょう(あるいは人によってはさらに別の意味合いがあるかもしれませんが)。

 このような場合、

『「良いお天気ですね」と挨拶するとき、必ずしも天気の話がしたいわけではなく、関係を確かめるためにそう挨拶していることもある。』

 という仮説、というか、より一般的な表現にすれば

「話す内容以外に意味されるものがある」

という理論をつくったとします。これを、客観的に実証する術はあるのでしょうか?

 このような仮説は、それを知った人が、「なるほどそういう面もあるかもしれない」と共感する人が多ければ真理として認識されやすく、共感する人が少なければ正しくないと思われるような気がします。

 自然科学や一部の社会科学のように、現実世界の現象と突き合わせて、証拠を提示することが難しそうです。日常会話の場合は、完全には無理でしょうがある程度はインタビューや調査票などで話の受け手がどのように感じたか、ということを把握することは可能でしょう。しかし、神話のように話し手だけではなく、聞き手もその意味を掴みかねているような場合は、さらに検証が難しくなると思います。

 このように、仮説の検証において、客観的な証拠を提示できる場合と、人々の共感に依存している場合とがあると思います。後者の場合、科学と呼んでよいのかどうか・・・あくまで定義の問題でしょうが・・・あるいは脳科学やその他技術が進めば証拠を提示することができるようになるのかもしれませんが。

 後者(仮説の検証が、人々の共感に依存している場合)について、もう少し考えをまとめていきたいです。

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2009年6月 9日 (火)

『レヴィ=ストロース 構造』その3

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)は、今第四章を読んでいるところです。
 第三章「旅の終わり」まで読んでみて、この思考の方向性は結局、生物学や脳科学に行きつくのかなぁ、という印象を持ちました。

 レヴィ=ストロースの説明は、普遍的な構造(どの程度普遍的かどうかはわかりませんが)というものがある、というところまでは説明していますが、なぜそうなったのか、というところまでは証明されているわけではない、と感じました。その後の説明は、様々な思想が入り込んでいて、科学的と言えるのかどうか疑問です(これについては、最後まで読んでみてからまた考えたいです)。

 結局のところ、普遍的構造とは、生物としての人間の共通性のことでもあると思います。前にも書きましたが、「無意識の構造」とは(脳を含めた)人間の体の構造のことでもあると思います。第二章(107ページ)では、インセストの禁止の原因について生物学的説明を否定していますが、生物学的側面といいつつ、遺伝学のみからしか説明されていないのは、やはりおかしいと思います。
 いろいろなものが「無意識」ということで一からげにされてしまい、何か特殊なもののように扱われているようにも感じられます。

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 今ある社会は、生物としての人間が持つ普遍的なもの、そしてそれぞれの人々(ひょっとしてその地域の人々)の持つ特殊な性質、そして人々が住む自然環境、さらには周囲に住む人々との関係、それらがすべてからみあって、できているのだと思います。

 共通項を見つけて、人間はすべて一緒だ、ということもできるし、違いを探して、それぞれが違うんだと言うこともできます。

 また、普遍的な構造があったとしても、それは合理的、非合理的とは別の次元の話だと思います。

 今、この世界に生きている人たちは、どんな生き方をたどってきたのかにかかわらず、なんとか生きて今にいたっています。豊かであろうと貧しかろうと、とにかく生き延びて現在に至っています。
 それゆえに、視点を変えさえすれば、世界中のどこの民族も、それぞれ「合理的」に生きている、と説明はいくらでもできると思います。あるいは、死に絶えてしまった人たち、あるいは民族(たとえばの話ですが)にさえ、視点によっては、ある論理のもとでは合理的なのだ、と説明することが可能でしょう。
 つまり、その「視点」をどこにおいているのか、ということを明確に認識することが大事なのだと思います。観察者・分析者の「視点」をぼかして説明したところで、結局何の証明にもならないでしょう。

 「歴史の主体とは何か」とか、「主体を抜き去る」とか、「主体」という言葉にまつわるものが、言葉の遊びのように思えてしまうのです。

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