例えば、サイコロをふって1が出る確率をP1、xが出る確率をPxとします。
Px = f(x1, x2, x3,........., xn)
ここで、x1, x2, x3,........,xnとは、出てくるサイコロの目に影響を及ぼす要因です。例えば、サイコロを持った時の方向や、それぞれの筋肉の動き、その他無数にあります。(実際には要因どうしも網の目のように絡み合って影響し合っているのでしょうが、わかりにくいのでここではこのように単純化しておきます)
そして、n(要因の数)→∞ のとき、
P1=P2=P3=P4=P5=P6
と言えるのだ思います。つまり、ランダムとは「でたらめ」「乱雑」、「無秩序」なことではなく、関係する要因が多くなるほど、結果(確率)が均一化されるという「規則」「法則」なのだ、とも言えると思います。
例えば、サイコロの1の目が上になるように持ち、なるべく低い場所からそっと押しだすように落としてやれば、1の目の出る確率はかなり高くなると思われます。あるいは、空気の状態その他周囲の状態を同一にして、精密機械でサイコロを同じ向きに同じ力で転がせば、常に同じ目を出すことができると思います。
一方、サイコロを手に持って高いところから振り下ろすだけで、どのサイコロの目が出るのかとたんに判断が困難になります。人間の腕一本の中にも様々な筋肉、骨、その他数えきれないほどのさまざまな要素が関係しています。
そして、そのサイコロの目が出るまでに関係する要因の数が非常に多くなれば、1~6の目が出る確率が平準化されていきます。
実際、例えば1からnという整数がランダムに表示される、ということは、
P1=P2=P3=P4=P5=・・・・・=Pn
ということと同義のようです。
しかし、実際に要因の数が無限大になるというのは、あくまで人間の思考の中のことでしょう。
(とりあえずここではこう断定しておきます。最新の科学では、このあたりはどのように認識されているのでしょうか・・・?)
実際には、n(要因の数)が十分に多くなれば、それぞれのサイコロの目が出る確率は、
P1≒P1≒P2≒P3≒P4≒P5≒P6
となり、ほぼランダムと考えて差し支えない、といったところでしょうか。
最初に書いた、
Px = f(x1, x2, x3,........., xn) として、
n→∞ のときに P1=P2=・・・=P6
という図式を考えれば、完全なランダムというものを見つけそうとすることは、無限大を見つけ出そうとすることと同じであると考えられます。
****************************
このように、人間によって制御されない、人間が知らないうちに出来てしまっている規則、というものがあることは、よく考えてみればとても不思議です。
ランダムほどに厳密ではありませんが、経済学における「神の見えざる手」も、このような規則と言えるかと思います。そのような法則が、その他社会科学の分野においてもみられる可能性はあります。
こうなると、社会科学なのか自然科学なのか、その境はよくわからなくなりますね。
まだ頭の中がまとまってないのですが・・・ヴェーバーにおける「理念型」を用いた分析のような社会科学の手法、個別の事象の分析、そしてそれらを超えて知らず知らずの間に出来てしまう規則・法則・・・そういったことについて考えているところです。
レヴィ=ストロースの『構造人類学』の序「第一章 歴史学と民族学」の7ページに書いてある文章ですが、
「だからして、タイラーが次のように書くとき ― 「われわれが諸事実の総体から一つの法則を引き出すことができたときには、詳しい歴史というものの役割はすでに大きく乗りこえられてしまっている。磁石が一片の鉄を吸い寄せるのを見て、その経験から磁石が鉄を吸い寄せるという一般法則を引き出すにいたったならば、なにも当の磁石の歴史などを苦労してきわめる必要はないのだ」 ― 、彼は実際にはわれわれを一つの円環の中に閉じこめてしまうのである。というのは、物理学者とはちがって民族学者は、磁石や鉄にあたるような対象の決定に関し、また二つの磁石あるいは二片の鉄とうわべは見える対象の同一性を確認する可能性に関して、いまだ不確かであるからである。ただ「詳細な歴史」のみが、一々の場合にその疑念を晴らすことを可能にするのだ。」
・・・もっと頭の中が整理されたら、また何か書こうと思います。
最近のコメント