2009年11月 5日 (木)

「私」は客観的世界の住人である その2

 「私」とは、主観のことでしょう?と思われる方もいらっしゃると思います。ややこしいかもしれませんが、主観・客観というものは、客観的世界(客観世界でもよい)が構築される中で生じるものなのです。

  既に、私たちの頭の中には概念と因果関係が張り巡らされた客観的世界(現実世界と認識されるもの)が構築されているために、それがなかったら・・・という想像は非常に困難です。物ごころついたときから既に、ある程度の客観的世界ができてしまっています。

 ただ、私たちが日々感じている感覚、あるものを見た、聞いた、触った、楽しかった、かわいそうだった、お腹がすいた(これらの感覚を、客観的世界で用いられる概念で説明するのも少々違和感があるのですが・・・)、等々、現象学的に言えば<内在>にあたるものですが、それらについては、「私」も「あなた」も「心」も「体」も関係なく、常に外側から突然やってくるものなのです。私たちの感覚は受け取るもの、つまり受身でしかありません。

 私たちは、日々感じるそれらの感覚を再構成した上で、これは「私」の「体」と「心」、そして、あれは「他人」そして「物」、というふうに分類し、客観的世界を形作っているのです。

 そして、自らの「体」「身体」というものを把握し、自らの欲望や感情がそこから発せられている、あるいは司られている、ということを、数々の因果関係から推測した上で、「私」というものから欲望や感情が出ているのだ、と捉えなおしているのです。

 賛否両論あるかもしれませんが、ある事例で部分的に説明してみます・・・

 はっと気がつくと、私は大きなロボットの操縦席にいました。窓から外が見えますが、見たこともないような景色で何が何やら見当もつきません。

 とりあえず、目の前のレバーを引いてみました。すると、窓の外で、腕のようなものが動いています。どうやら、そのレバーの動かし方に応じて、腕のようなものも動いています。おそらくこのレバーと腕のようなものは連動しているのでしょう。窓からよく見ると、私がいる物体(ロボット)とその腕はつながっているようです。その腕はこのロボットの一部だったのか、と理解できました。

 目の前に、石ころのようなものを発見しました。それは私のいる部屋の中のどのボタンを押してもうごきません。おそらく、その石ころのようなものは、私の乗っているロボットとは別のモノであるのだろう、と理解できました。

・・・このような形で、自らの身体や、自分の”外側”にあるものを、理解可能であると思います。その他、様々な感覚もこのようなモデルで説明できるかなぁ、と考えています。(『現象学入門』の194ページにある挿絵がイメージのもとにはなっています)

 あくまでで比喩ですので、そこらへんはご了承ねがいたいのですが・・・ただ、私たちの感覚は、このような手探り状態のようなものであると思います。

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2009年11月 3日 (火)

「私」は客観的世界の住人である

 まず、疑いえないものとしての<内在>というものについて、再び説明しておきます。

 『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)では、私たちの判断の根拠、「疑いえないもの」としての<内在>というものについて説明がなされています。

 「赤く」感じたが、じつは茶色だったとか、「丸い」と思ったがよく見ると「四角」だった、ということはありうる。しかし、「赤く」感じたと思ったのは間違いで、じつはそのとき自分は「青く」感じていたということが明らかになった、などということはありえないのだ。
 フッサールが<内在>と呼ぶのは<知覚>におけるこの”内在”的な感覚体験、ひとがそのように感じたという初源的な事実性のことである。(93ページ)

 こうして現象学的視線においては、<内在>という不可疑性の根拠となるもの(<内在>によって確かめられる知覚の疑いがたさを「明証性」というのだが)、これこをあらゆる判断や認識の確信が成立することの源泉であり、だからこれはまた、「現実」一般の源泉なのである。これはもちろん<内在>が正しい判断や認識を保障する、ということをまったく意味しない。むしろ、<内在>という不可疑性の底がなければ、およそ、あるものが正しいか誤っているか、うそか本当かという問いそのものが人間にとって不可能になる、ということなのである。(98ページ)

 私が、ここ最近のブログ記事で書いているのは、だいたい上のような内容をもとにしています。私が感じたことそれ自体は、それが錯覚と言われるものであろうとそうでなかろうと、疑いようがありません。そしてそれらの体験を積み重ねていくことで、客観的世界(別に客観世界でもいいですが)を構築していきます(その過程については客観的世界の構築やその他の記事を参考にしてください)。そして、客観的世界と自らの体験とが一致する、一致しないで、「正しい」「間違い」を判断しているのです。

 それで、竹田さんの考えと、私とが違うところは、私たちの欲望や感情、それ自体も<内在>なのではないか、ということです。『現象学入門』の一文を引用します。

 結論を言うとこうなる。わたしたちが<知覚>と呼ぶ意識表象には、他のものとは決定的に違う性質がある。それは<想起><記憶><想像>などが、ほぼ意識の志向力によって、それを遠ざけたり、呼び寄せたりできるのに対して、<知覚>だけはつねに意識の自由にならないものとして現れるという点である。(55ページ)

 竹田さんの論旨では、人間が<自由にできるもの>と<自由にできないもの>と二分しているように思えます。

 私自身は、そうではなく、<想起><記憶><想像>してしまうものである。あるいは、<想起><記憶><想像>したい、と思ってしまうものである・・・というように考えます。
 人間の欲望も感情も「私」から出たものではなく、あくまで、私たちが、それらが発現してしまったのを感じる、つまり(現象学で言う)<原的な直観><内在>というものの一つである、と考えています。私たちが感じた欲望、感情、それ自体は「疑いえない」ものでしょう。感じてしまったことは感じてしまったことなのです。

 私たちは、周囲の世界を見ながら概念と因果関係を抽出し客観的世界を構築していきますが、それは自らの欲望、感情についても同じことなのです。たとえば、自らの欲望に○○欲(例えば食欲・出世欲)と名前をつけたり、○○が欲しい、○○になりたいと思う気持ち、と認識したりします。感情についても「楽しい」「悲しい」その他様々な名前をつけて自らを納得しようとします。
 そして、△△の時には××の欲望が生じた、あるいは○○の感情を持った、という経験の積み重ねにより、因果関係を把握していきます。

 このようにして構築された客観的世界が、「私」のキャラクタ―、性格、のイメージとなるのです。「私」についての客観的世界が構築されてはじめて「私」というものが出来てくるのです。そして、「私」というものから欲望・感情が生まれる、というふうに捉えなおしているのです。

 このように、「自由になるもの」「自由にならないもの」という分け方ではなく、すべて自由にならないもの(※ここでは一旦、このように表現しておきます。自由については、こちらの記事をご覧ください)、受身のものとして考え、すべてを現象学的<内在>として考えていくのです。

 もちろん、客観的世界において構築された「私」というものの性格は、日々の体験により常に修正されています。また、私の気持ちを言葉で表現した際、既に、私自身が実際に感じたものとのズレが生じる可能性があるといえます。実際、自らすべてを、言葉だけで表現しきれる、と感じる人は少ないのではないでしょうか。

 人がメタ的思考ができるのも、このようにすべての欲望、感情を含む感覚を、<内在>(あるいは<原的な直観>などとも呼ばれます)として受け取る、そしてそこから「私」についての客観的世界を構築する、この思考プロセスがあるからだと思います。

 とりあえず、つたない説明ではありますが、ここまでやってきました・・・さあ、目的論と因果関係、欲望(価値観)と事実関係、このあたりをどのように説明できるかな・・・というかんじで思考を進めています。あとは実際に「正しい」「間違い」を判断する具体的な手法(このあたりが自然科学と社会科学・人文科学の違いになると思います)まで行って完了、といったところです。

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2009年7月23日 (木)

自由を感じるとき、自由ではないと感じるとき

 これまでの説明で、人の意志は自由にならない受け身のものであると述べました。それでは、私たちが実際に、自由だと感じるのはどういうときなのでしょうか?

Jiyuu

 左の図に、自由だと感じるとき、自由がないと感じるときの状況が示してあります(図をクリックすると拡大します)。人は、一つのモノを見ても、一人の人と出会っても、感じる感情・欲望は一つではないと思います。人は様々な方向を向いた雑多な欲望を常に抱えていると思います。そして、それらの欲望は必ずしもすべてが好ましい(と感じられる)欲望だけだとは限りません。
 自ら抱いてしまった感情・欲望、それ自体に自らが嫌悪感を抱いてしまうことさえあるでしょう。実現しても幸せな気分になれないだろうと想像される欲望もあるでしょう。

 自らの欲望に対し、好ましいと感じれば、自由な意志だと感じるでしょうし、自らの欲望に対し嫌悪感を抱くようであれば、自らの欲望でさえ自由にならないと感じるでしょう。そして、その「好ましい」「好ましくない(嫌悪感など)」という感情は、おそらく大脳辺縁系の働きによるものではないかと思います(しかしきちんと文献で確認したわけではありません)。

 そして、その欲望を実行に移せれば、自由だと感じることができますし、何らかの要因で阻害されて実行に移すことができなければ、自由がないと感じるでしょう。

 このように、「自由」「自由がない」と感じるのは、自らの欲望・行為と感情との兼ね合いによるものだ、ということがわかると思います。

 そもそも、何物にも束縛されないものが、(人間が把握できる限りで)存在するのかどうか、それも非常に疑わしいのでは、と思います。通常、自由とは、「~からの自由」という限定的な意味合いで使われる言葉です。そして、欲望・感情も対象があってこそ生じるものです。

 「私」という存在があって、そこから欲望が出て対象に向かう、つまり

 (私)→(欲望)→(対象:目の前の世界)  という経路ではなく、

 (私)←(欲望)←(対象) 

というふうに、欲望を感じたとき、感情を感じたとき、(あるいはその他の刺激を感じたとき)、初めて「私」というものを感じることができるのです。(もちろん、行為に移る場合は、自らが対象に働きかけることになるのですが)

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2006年11月 4日 (土)

選択のプロセス(2)

 今度は、別の方向から選択のプロセスを見てみます。

 私たちが今抱いている欲望は、どのようなものでしょうか?
(※ ここでは、様々な欲求、夢、目標、一般的に本能的欲求・理性的欲求と呼ばれているもの、などすべて一からげに「欲望」という言葉でまとめてみます。)

 テレビを見たい、寝たい、遊びたい、デートしたい、カレーを食べたい、ラーメンを食べたい、CDを買いたい、コーヒーを飲みたい、一人になりたい、友達と一緒にいたい、大勢で騒ぎたい、嫌いな人に嫌いだと言いたい、上司や部下に不満が言いたい、きれいな家が欲しい、車を買いたい、海辺に旅行したい、山に登ってみたい、船に乗って島に行きたい、などなど一斉に上げてみればそれぞれ何の脈略もない雑多な欲望を潜在的に抱えています。また、たった一つのものを見る場合にさえ、複数の異なった感情や欲求が一度に湧き出てくることがあります。たとえばある人に会ったときに、好き・あこがれという感情と同時に、嫉妬・憎しみの感情が同時に出て複雑な気持ちになる、という経験をされる方もあるのではないでしょうか。

 私たちは、自らを取り囲む環境に刺激を受けそのたびごとに、様々な欲望を同時にいくつも発生させ、それらを記憶しています。周囲の雑多な環境に対応して、人々が抱く欲望も、やはり雑多なものです。たった一人の人間から出てくる欲望だけでも、あまりに多様で秩序もなさそうに見えます。

 それでは、なぜ頭の中が無秩序になってしまわず、秩序だった行動が出来るのでしょうか?

Watashi01 前に述べたように、欲望は自らが望む・望まないと考える以前に勝手にどんどん出てきてしまっています。自らが、この欲望は好ましいから出てよい、好ましくないから出てくるな、と命令できるものではありません(無意識のうちに抑圧していることはあるかもしれませんが)。

 ただ、それらの欲望には、強弱があります。実現したいと強く願う欲望もあれば、なんとなくそうなればいいな、と思う程度の欲望もあります。そして、私たちが抱え込んでしまったそれら様々な欲望の中から、最も強力だったものが勝ち残り、それが自らの中での大きな目的・目標となります。図B-1にその様子を図示しています。最も強力だった欲望によって、図B-1のように、他の雑多な欲望が序列化されます。

(1)欲望Aの達成を促進する欲望
(2)欲望Aの達成にあまり影響を与えない欲望
(3)欲望Aの達成を妨げる欲望

 欲望Aの達成のために、とくに(3)の欲望が抑制され、行為を秩序あるものにするのです。

 簡単に言ってしまえば、大きな目標の達成のためにいろいろなことをがまんする、というプロセスのことです。少々大げさに書いてしまったので、かえってわかりにくかったかもしれません。

 なぜこのような回りくどい説明をしたのかというと、人間の欲望は、特定の目的に応じて秩序をなした形で発生してくるのではなく、周囲の環境にも影響されながら非常に雑多な形で発生してくるということを強調したかったからです。例えば、人間の欲望・欲求がすべて遺伝子の保全、子孫の維持を目的に発生していると考えるのは明らかな間違いであるといえます。
 そして、雑多な欲望の中でより強いもの(モチベーションの強いもの)によって欲望が序列化されることによって、人間の行為も秩序あるものになるのです。

 そのとき、欲望の強弱、つまり欲望を発現・持続させるモチベーションの強弱を決定したり、人・行為に対し好き・嫌いと感じたりするのは、情動・感情の働きによるものです。主に大脳辺縁系により司られています。

(※ 2009年7月23 最後の部分を変更しました)

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2006年10月16日 (月)

選択のプロセス(1)

 人間の選択は一見理性的に見えるものも多いですが、結局は感情に基づくものです。

 例えば、政治的立場を明らかにするということは、どの社会階級・社会集団の利害を支持するのか、あるいはどの政党・集団の思想に同意するのか(=共感するのか)ということにつながっています。どの社会集団や思想に対してより強い共感を持つのか、といった感情的と思われる心情が最終的根拠になっているのです。

 つまり、突き詰めて言えば、AとBのどちらを選ぶのかということは、AとBのどちらが好きなのかということなのです。様々な社会的しがらみから、Bが好きなのにAを選択せざるを得なかった、ということがあるかもしれません。しかし、それもAを選択することでCという人に嫌われたくない、あるいは嫌われることで生活が脅かされる(のが嫌だ・怖い)といったふうな感情的な(あるいは生きたいという本能的な欲求)ものに行き着くと思います。

 人は、常に選択しながら生きています。たとえば、お店で買い物をしようと家から出て歩き出したとします。家を出て一歩足を踏み出し、そして次の一歩と進もうとする場合、実は、その一歩をやめて後ろに引き返す(おそらく買い物をやめるなどの理由から)、あるいは別の方向へ向きを変える(買い物意外の目的を思い出したなどの理由から)など、(おそらく無数の)他の選択肢もあったのです。しかし、通常そんなことは考えず、無意識的に、店に向かって次の一歩は踏み出されています。言うまでもないですが、人間の決断・選択は、大部分が無意識のうちに処理・実行されてしまっています。

 しかし、選択のために新たな情報収集を必要とする場合、選択の瞬間が意識に上ってきます。具体的には、選択肢となる行為そのもの、あるいは行為によって予想される結果がもたらす感情の大きさが拮抗しているとき、あるいは選択肢の間にタイムラグがあって、将来の出来事を想像したり過去の記憶をたどったりする必要がある場合(たとえば来週の試験のために今遊ぶのをやめる、とか)、その他脳のキャパシティの関係、あるいは情報不足のために、瞬時に判断を下せない場合などです。その結果、人は迷い、そしてその不安が引き金となり、さらなる情報収集(過去の記憶を辿ったり、シミュレーション、将来の想像をすることも含む)へと向かっていきます。そして得られた情報をもとに、決断を下します(あるいはさらに迷ってしまいます)。

 では、複数の選択肢の中から、実際に行為するものを選びとるとき、「自らの意志」が働くでしょうか? Aという行為とBという行為のどちらを行うか選ぶ場合の基準は何でしょうか?

 それは、A(あるいはB)という行為それ自体(あるいはその行為の背後にある自らの意図・気持ち)が自らが好むものなのかどうか、あるいはA(あるいはB)という行為がもたらす結果を想像し、それが自らの好むものかどうか、ということだと思います。その場合、「好む」「好まない」という気持ち、それ自体もやはり「いやおうなしに」湧き出てくる感情でしかありません。たとえば、Aさんの家とBさんの家があって、どちらに遊びに行こうかと考えているとき、Aさんの方に行きたいなと思ったとします。それでAさんの家に行くことが自分の意志だと感じるわけですが、結局、Aさんの方が好きなだな、あるいは今日はAさんと一緒にいたいな、と感じる、その感情自体は、やはり自然と湧き出てきたものでしかありません。

 結局、好ましい、好ましくない、と感じてしまう自らの感覚に沿って行為しようとするとき、能動的に選択・行為しようとしている、と感じているわけです。そしてそれが別の人によって妨げられた場合、たとえば先の例で言うと、Cさんと道の途中でばったり会って、あまり気が向かないけどCさんの誘いでBさんの家に一緒に行った、という場合、自由がないと感じるのです。つまり、自由・不自由と感じる気持ちは、あくまで受動的なものでしかありません。

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2006年10月15日 (日)

まず、いやおうなしに感情・欲望(意志)が発生してくるのであって、なぜそうなったのかは後から考えるしかない

 「自由な意志」といいますが、意志は本当に自由なのでしょうか?
(ここでの自由とは、何物にも束縛されない、という一般的な意味です)

 たとえば、人を好きになるのは、自ら好きになろうとしてそうなるのでしょうか?人を嫌いになるのはどうでしょうか?ある仕事をやりたいと思うこと、やりたくない、と思うことはどうでしょうか? 感情は、いやおうなしに感じてしまうものなのです。

 そして、好きな人と付き合いたいと思う欲求、困った人を見て助けてあげたいと思うこと、嫌いな人を見て、逃げたいと思う(あるいは喧嘩したいと思う?)ことなど、どうしようもなく湧き出てきてしまった欲求・欲望です。

 自分の「意志」で人を好きになったのではありません。私たちは、感情や欲望が出てしまったあとに、それを自分の「意志」として感じるだけなのです。そして、どうしてそうなったんだろう?どうしてそう感じたのだろう?と後づけの分析をするしかないのです。

(※ 「自由」という概念についても、別のカテゴリーで再検討してみたいと思います。)

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