「私」は客観的世界の住人である その2
「私」とは、主観のことでしょう?と思われる方もいらっしゃると思います。ややこしいかもしれませんが、主観・客観というものは、客観的世界(客観世界でもよい)が構築される中で生じるものなのです。
既に、私たちの頭の中には概念と因果関係が張り巡らされた客観的世界(現実世界と認識されるもの)が構築されているために、それがなかったら・・・という想像は非常に困難です。物ごころついたときから既に、ある程度の客観的世界ができてしまっています。
ただ、私たちが日々感じている感覚、あるものを見た、聞いた、触った、楽しかった、かわいそうだった、お腹がすいた(これらの感覚を、客観的世界で用いられる概念で説明するのも少々違和感があるのですが・・・)、等々、現象学的に言えば<内在>にあたるものですが、それらについては、「私」も「あなた」も「心」も「体」も関係なく、常に外側から突然やってくるものなのです。私たちの感覚は受け取るもの、つまり受身でしかありません。
私たちは、日々感じるそれらの感覚を再構成した上で、これは「私」の「体」と「心」、そして、あれは「他人」そして「物」、というふうに分類し、客観的世界を形作っているのです。
そして、自らの「体」「身体」というものを把握し、自らの欲望や感情がそこから発せられている、あるいは司られている、ということを、数々の因果関係から推測した上で、「私」というものから欲望や感情が出ているのだ、と捉えなおしているのです。
賛否両論あるかもしれませんが、ある事例で部分的に説明してみます・・・
はっと気がつくと、私は大きなロボットの操縦席にいました。窓から外が見えますが、見たこともないような景色で何が何やら見当もつきません。
とりあえず、目の前のレバーを引いてみました。すると、窓の外で、腕のようなものが動いています。どうやら、そのレバーの動かし方に応じて、腕のようなものも動いています。おそらくこのレバーと腕のようなものは連動しているのでしょう。窓からよく見ると、私がいる物体(ロボット)とその腕はつながっているようです。その腕はこのロボットの一部だったのか、と理解できました。
目の前に、石ころのようなものを発見しました。それは私のいる部屋の中のどのボタンを押してもうごきません。おそらく、その石ころのようなものは、私の乗っているロボットとは別のモノであるのだろう、と理解できました。
・・・このような形で、自らの身体や、自分の”外側”にあるものを、理解可能であると思います。その他、様々な感覚もこのようなモデルで説明できるかなぁ、と考えています。(『現象学入門』の194ページにある挿絵がイメージのもとにはなっています)
あくまでで比喩ですので、そこらへんはご了承ねがいたいのですが・・・ただ、私たちの感覚は、このような手探り状態のようなものであると思います。
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