2009年11月 5日 (木)

客観的世界の構築 補足

 私が客観的世界、と呼んでいるものは、必ずしも科学的なものだけではありません。宗教や、その他近代科学が発展する以前の世界認識、そういったものすべて含んでいます。

 科学的手法によらなくても、私たちは、周囲の世界を概念をもって区分し、それら概念と対応する物(あるいは人)の間に張り巡らされている因果関係の網の目を認識しています。宗教においても、因果関係をもって物事が説明されていることにはかわりありません。生きていくために、またはある特定の目的のために、そうせざるをえませんし、あるいは明確な目的がなくても、そのように認識してしまっている面もあると思います。

 科学的に構築された客観的世界と、その他の客観的世界との違いとは(既に迷信と科学でも述べましたが)、私たちの体験と客観的世界で構築された理論(因果関係)との整合性をより高める方法を持っている、あるいは高めるという姿勢を持っているということです。私たちの体験との矛盾があったとしても、それ以上考えないようにする、とかとにかく信じる、ということではなく、何らかの矛盾があれば、それを解明していく、という姿勢、そしてその手法を持っている、ということです。

 もちろん、科学的手法を用いても、解き明かすことができないでいる現象は数多くあります。また正しいと思われていた科学的理論が、覆される可能性も常にあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月25日 (日)

客観的世界の構築

 客観的世界(現実世界とも認識されている)というものは、人が生まれたときから、直ちに認識されるものではありません。
 経験を積み重ね、記憶を重ねていくことにより、次第にその網の目が張り巡らされて行くのです。

客観的世界の構築に必要なものは下の二つです。

(1)もの・現象の抽出(概念・観念を用いた世界の分節)
・・・さらに人間の場合は、それらに犬、木、山、などと名前をつけていきます。

(2)因果関係の把握
・・・○○が起これば□□が起こる、という因果関係を、意識的にせよ無意識的にせよ認識しているのであれば、人間でなくても因果関係を把握している、と考えることができるでしょう。

 つまり、犬には犬の、猫には猫の客観的世界がある、ともいえるでしょう(現在明らかになっている科学的知識から推測すると、ということですが)。
 また、現代では論理的でないと考えられている迷信なども、科学と同じく客観的世界と言えると思います(ここの定義に従えば)。

 では、迷信と科学との違いは何か、といえば、迷信と科学の記事で少し触れましたが、(言葉をかえれば)私たちの体験と客観的世界との整合性を高める、より精度の高い方法論を持っている、ということでしょう。

 このあたりの話は、これからじっくり考えながらまとめていこうと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月20日 (火)

迷信と科学

『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)に次のような記述があります。

 たとえば、未開の部族を目にした文明人は、奇妙な迷信や儀礼を共有する彼等を"幼稚"だと思うかもしれないが、これは、「文化」のルールの違いをしか意味しない。文明人もいろんな迷信や儀礼を持っている点では、"未開"の部族と本質的には変わらないからである。(22ページ)

 はたして、奇妙な迷信や儀礼を共有するような認識と、例えば科学的な認識とは、本質的に全く同じだと、言い切れるのでしょうか?

 どちらも、それぞれの社会において構築された「客観的な世界」「現実世界」である、ということについては同じであると思います(おそらく竹田さんの著書では、この点において「本質的」に同じだ、と述べているのかもしれません)。

 そして、(あまり好きな言葉ではありませんが)未開の部族における知識が迷信のみでないことも、私たちが普通に知っている事実でもあります。複雑な知識を持っているのは、先進国の住人のみではないと思います。

『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)の中の記述ですが、

「伝統社会における自然認識、そして生命形態の多様性の認識が、最先端の「科学的」分類にもけして劣らない首尾一貫した精緻なものでありうることを明らかにした。たとえばフィリピンに住むある集団は、1625種類の植物を区別するが、それは植物学上は650属約1100種に対応するという。」(216ページ)

 ただ、

「そこでは人間に対して腹を立てた動物は病気を送り込み、人間の見方である植物が薬を供給して応戦すると解釈され、「胃病と足の痛みは蛇、赤痢はスカンク、鼻血はリス」等々・・・のせいにされる。」(228ページ、アメリカ合衆国南東部のインディアンの事例)

というような理論をどう思うか、ということです。

 理論や知識が精密であることと、それが本当に正しいと思えるのか、ということとは別であると思います。このブログではしばしば触れていますが、結局のところ、「正しい」と思えるかどうかは、私たちの体験と理論とに矛盾が生じていないか、簡単にいえば、その治療法で本当に病気が治るのか?ということなのです。

 もちろん、広く信じられていた科学的理論が新たな理論で覆されることもしばしばですし、未開の部族の知識が、新たな思考のインスピレーションになることだって十分にありえると思います。また先進国においても、根拠が明確でないものを出発点として精緻な理論を作り上げている、そういう人たちもたくさんいるような気がします。

 ただ、「正しい」「間違い」を単なる解釈である、と言い切っていいのか、迷信における「正しい」「間違い」を、科学的な「正しい」「間違い」と同列に扱ってしまって良いのだろうか、どちらもそれぞれの社会において人が構築した客観的世界であることは同じであるにせよ、全く別の社会の話として、それぞれがどちらも「正しい」のだ、と混同してしまうのは問題があるのではないか、そう思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

絶対的真理(と呼ばれるもの)と客観的世界における真理について

 竹田青嗣さんの『エロスの世界像』について批判的に読み進めていこうと思っていたのですが、思った以上に難しいのと、じっくり本を読む気持ちの余裕がなくなってしまったので、しばらくブログの更新も出来ませんでした。

 それでもやはり少しでも考えを進めたいと思いなおし、見切り発進することにしました。

********************************

 私たちは、私たちが見て経験したものから観念・概念や因果関係を抽出し、客観的世界を構築しています。客観的世界における「真理」というものは、常に(それが錯覚であろうとなかろうと)私たちが見て経験したものと、客観的世界(現実世界)とが合致する(矛盾がない)かどうかで検証されています。(『現象学入門その5』の記事でもう少し詳しく書いています。記事はこちらです。)

 これが客観的世界における「真理」であり、科学的真理でもあります。その中において、私たちは、より体験を積み重ねることにより、

「客観的世界(現実世界)における理論と私たちの体験・経験が一致する・より矛盾が少ない」=「より真理に近い」

と判断することができます。

 一方、私たちの判断のもととなる経験・体験、すなわち見たもの、聞いたもの、感じたもの、それ自体が、これまでに構築された客観的世界においても説明不能な、今の私たちが想像もしていなかったような錯覚である、という可能性を100%捨てきることはできません。つまり、「絶対的真理」のようなものに届いた、と言い切ることは出来ないのです。

 ただ、実際、私たちの生活においてそこまで気にする必要は全くありませんし、考えたところでわかるはずもありません。しかし、今、私たちが客観的世界(現実世界)と考えているものが、一部分でも覆される可能性は常にある、ということです。「絶対的真理」という言葉を持ち出したために、少々大げさな雰囲気が出てしまいますが、要するに、私たちは客観的世界の中では"より真理に近い"、という感覚を持つことが可能ですが、その客観的世界が覆される可能性は常にある、ということを言っているだけなのです。

 私たちが構築した客観的世界における、ある理論について、今のところ矛盾をきたすような出来事、体験が出てこないから、その理論は正しいであろう、と感じることは可能です。ただ、科学的理論も常に覆される可能性を持っているのです(もちろん覆されない可能性もあります)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月24日 (金)

真理・真実について

 「絶対的真理」というもの、あるいはそう考えられているものにたどりついた、と証明する術は、私たちにはありません。

 人は、自らが見たこと、聞いたこと、感じたこと、つまり自分の体験した感覚・出来事をまず出発点にし、そこから客観的な世界(と人々が考えているもの)を構築しています。私たちには、その自らが感じた体験それしか材料がないのです。そして、自らの経験の積み重ね、他者とのコミュニケーションの中で、認識の共通部分を見出しながら、客観的世界を構築していきます。

 その客観的世界も、あくまでその出発点は、私たちが見たこと、聞いたこと、感じたことなわけで、私たちにはそれら自らの感覚が本当に正しかったのか、あるいは勘違い、幻覚ではなかったのか100%確信を持てるわけではありません。ひょっとして、複数の人々の間で見出された共通認識でさえ、皆の勘違いだった可能性が全くないとは言い切れません。

 ただ、その客観的世界による世界の認識、因果関係の把握が、とりあえず私たちの生活と矛盾を生じてさえいなければ、私たちが日々体験している現実社会と矛盾なくある程度の説明をつけることができてさえいれば、おそらく真実であろう、と認識しているのです。

 一方、私の認識が間違っていたと感じるとき、あるいは他の人からあなたは錯覚していると指摘されたときでさえ、私が体験した感覚・出来事がなぜ錯覚だったのか、錯覚に至る過程を説明・把握できなければ、納得することはできません。そこで納得できなければ、いつまでも違和感として、本当は間違いじゃないのではないか・・・と疑念が晴れることがないのです。

 このように、自らの認識が正しいと思うにせよ、錯覚だったと思うにせよ、自らの体験した感覚・出来事を出発点に、それを基準にして構築された客観的世界と突き合わせながら、現実世界というものを把握していくしかない、ということです。

 真理・真実とはおおよそこのようなものであろうかと思います。

****************************

例えば、エッシャーの絵では、滝となって落ちたはずの水がまたもとの場所に戻っていたり、階段を上っているのにまた同じ場所に戻ってしまったり、不思議なことが絵の中で起きています。
 しかし、私たちに何の予備知識もなければ(あくまで仮の話ですが)、その絵のとおり、錯覚と知らずに見てしまう可能性があります。疑うことさえ知らないと思います。私たちは「客観的世界」を構築しているからこそ「疑う」という感情が生まれるのだと思います。
 様々な体験を積み重ねることで、水が上の方に流れることはない、階段を上ってもとの場所にもどることはありえない、という「客観的世界」を、人は少しづつ構築していきます(そのあたりの過程についてはこれから説明していきたいです)。その客観世界を把握しているからこそ、エッシャーの絵を見て、あれ?と感じるのだと思います。そして、それが一枚の絵(版画?)だったのか、と認識できたとき(仕組みがわかったとき)、やっぱり錯覚だったのかと納得することができる、と思います。

(※ 2008年8月1日に注の部分を修正しました)

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年7月19日 (日)

「疑う」ということについて

 私が考えているのは、人が「疑う」とは、どういう思考のメカニズムなのか、「疑う」という意識が生じるのはどういうときなのか、ということです。

 例えば、私の今見ているものが正しいのかどうか「疑う」のは、そこには「客観的な」世界というものがある、という認識があるからです。その「客観的な」世界が構築されることなしには、自らの主観を「疑う」という意識は生じることはありません。

 <『現象学入門』その3:「正しい」「間違い」の判断について>という記事で、私は、

 私たちは、実際には自分の見たものを本当かどうか疑うときもあります。しかし、私たちはこの社会を理解する際、どうしても自分の見たもの、聞いたもの、感じたものを出発点にするしか、他に方法がない、ということだと思います。この世界の客観性について考える場合にしても、この世界のどこかで起きていることについて考えるにしても、他の人の気持ちについて考えるにしても、まず自らが見たこと感じたことが起点になっています。つまり「疑えないもの」なのではなく、ここを出発点にするしか「他に術がない」、ということなのです。「明証性」という言葉も誤解を招きやすそうです。

と書きました。

 上に述べているように、<明証性>という言葉を使う以前に、この世界のあらゆることについて考える際、まずは自らが見たこと聞いたこと感じたことを起点にするしか、私たちには他に術がないということです。私たちには、この世界の理解の際に使える材料はそれ以外にありません。私たちは受動的に受け取ったそれらの感覚を頼りに、そこから物、他の生物、他の人間が共存する客観的社会、あるいは宇宙というものを構築しています。

 もし、現象学で言うドクサ(類推・憶見)や超越というものを排除した<知覚><内在>というものを考えるのであれば、そのレベルにおいては、私の感覚というものを疑う対象としての「客観世界」というもの自体が構築されていませんから、そもそも「疑う」という意識自体も存在しえないことになります。

 これは「正しい」「間違い」についてもそうです。この世界が概念・観念により区分された上で、類推がその概念に該当しているのかどうか、それが「正しい」「間違い」という認識です。それが本当なのか、いうことについても、概念を使用した上で、概念どうしの突き合わせをしているわけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月17日 (金)

『現象学入門』その3:「正しい」「間違い」の判断について

  今、『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)の第四章を読み終わったところです。
 
 現象学についての内在、超越、という言葉についてですが、

具体的に経験される事物とは、「それの知覚を超越したもの」(第42節)だということである。この机がいまここにある」という経験は意識に直接(=「原的に」)与えられている「いまここにある知覚」とぴったり重ならない。いわば事物存在(机)は、原的な体験を超えた"構成された経験"だということだった。
(91ページ)

フッサールは、ここで「原的な体験」にあたるものを「内在」と呼び、"構成された事象経験"を「超越」と呼ぶ。
(91~92ページ)

 私たちのものの見方から、ドクサ(類推や憶見)を排除したものを「内在」「原的な体験」などと呼んでいるようです。そして、それらは人間の意識の彼岸にあるもの、意識の自由にならないもの、そしてそれ以上疑うことのできないものである、としています。

<内在>という不可疑性の根拠となるもの(<内在>によって確かめられる知覚の疑いがたさを「明証性」というのだが)、これこそあらゆる判断や認識の確信が成立することの源泉であり、だからこれはまた、「現実」一般の源泉なのである。これはもちろん<内在>が正しい判断や認識を保障するということをまったく意味しない。むしろ、<内在>という不可疑性の底がなければ、およそ、あるものが正しいか誤っているか、うそか本当かという問いそのものが人間にとって不可能になる、ということなのである。
(98ページ)

 私は、「疑えないもの」という表現が誤解を生むのかな、と思いました。

 私たちは、実際には自分の見たものを本当かどうか疑うときもあります。しかし、私たちはこの社会を理解する際、どうしても自分の見たもの、聞いたもの、感じたものを出発点にするしか、他に方法がない、ということだと思います。この世界の客観性について考える場合にしても、この世界のどこかで起きていることについて考えるにしても、他の人の気持ちについて考えるにしても、まず自らが見たこと感じたことが起点になっています。つまり「疑えないもの」なのではなく、ここを出発点にするしか「他に術がない」、ということなのです。「明証性」という言葉も誤解を招きやすそうです。

 まず、自ら見たこと、感じたことを出発点として、そこから人は、どのように客観世界を構築しているのか、何を持って「現実社会」としているのか、その思考のメカニズムについて考えてみたいと思っています。また、自ら見たこと、感じたことから、どのように因果関係を感じ取り、把握し、正しいものだと認識していくのか、そのあたりについても考察していこうと思います。
 

*******************

「正しい」「間違い」の判断について

 科学においても何においても、人が「正しい」「間違い」を判断する基準は目の前に広がる、私たちにはどうしようもない突き付けられている事実・現実社会です。しかし、現象学の言う<知覚><内在>を出発点にするにしても、現実社会の把握、たとえば机がある、という事実把握にさえ何からのドクサが入り込んでいるわけですから、「正しい」「間違い」を検証する際にも、何らかのドクサを経由せざるをえません。

 「正しい」「間違い」と感じること自体が、何らかの概念を経由しなければ生じえないものなのです。具体的には下のようになります。

類推した概念と、現実(概念により区分されている現実)とが一致する→「正しい」
類推した概念と、現実(概念により区分されている現実)とが一致しない→「間違い」

 たとえば、草むらからカサカサと音がします。ひょっとしてトラかライオンか?と予想したとします。そして、草むらから出てきたものが、トラかライオンだったら、「正しい」と感じますし、小さい猫だったら「間違い」だったと感じます。

 「明証性」の根源となる(とされている)<内在><知覚>についてですが、 なんらのドクサを含んでいない、いわゆる「源的な体験」だけでは、「正しい」、「間違い」という概念すら生じえません。

 まずは概念・観念というものが成立した上で、そして目の前に広がる世界が概念・観念で区分されてはじめて、「正しい」「間違い」というものを感じるようになる、ということです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月15日 (水)

2×2=4 は本当に"理念的なもの"にすぎないのか? 追加説明

 「2×2=4 は本当に"理念的なもの"にすぎないのか?」の記述をふまえて、人はどういうときに「正しい」と感じ、どのようなときに「間違っている」と感じるのか、そのメカニズムを探るときに必要なことは、

1.私たちの目の前に広がる現実社会、私たちには改変のしようがない突き付けられた事実について。改変することのできない、突き付けられた現実と、そうでない恣意的なものとを私たちの認識が区別するメカニズムとは? 私たちは、どういうときに「客観的」あるいは「恣意的」であると感じるのか。

2.1と関連して、それ(現実と認識されたもの)を多くの人が承認するメカニズム。ただ一人の人が「私は知っている」と言い張っても、他の人が認めてくれないようなものと、多くの人が事実であると共有するものとの違いについて。

 『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)の続きを読みながら、考えてみます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2×2=4 は本当に"理念的なもの"にすぎないのか?

 『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)の中では、実在物(とみなされるもの、例えばリンゴ)と理念(抽象物、例えば2×2=4という計算)に対する意識の働きについての比較がなされているのですが、これらはどちらも、意識の自由を超えたものとして意識に「疑えないもの」の確信を与える働きをする、と述べられています。

 たとえばフッサールは、2×2=4という「理念的なもの」は、ひとがその計算を納得してなるほどたしかにこうなると学習した瞬間から、彼にとって確かな存在者(=存在する事物)となるのだ、と言っている。(71ページから引用)

 いまここにあるリンゴのような「実在物」と2×2=4のような「理念物」の根本的な違いはどこにあるのだろうか。それは、リンゴがただ、必ず感性的な現実<知覚>に結びついてのみ存在を確証されるのに対して、2×2=4(またはリンゴという理念でもいい)は、現実<知覚>と必ずしも結びついているという必要がないという点だ。つまり「理念物」の場合は、頭の中で考えられた理念対象を基体として、そこで「疑えないもの」として存在が確証されればその条件を満たしているのである。
 そういうわけで、物の<知覚>と物の<意味>は、ふつう考えられているように実在するものと抽象的なものという分け方では捉えられないことがわかる。この二者は、いずれも意識の自由を超えたものとして意識に「疑えないもの」の確信を与える働きをするのである。(71ページから引用)

・・・2×2=4という理念も「疑えないもの」として現れている、ということには私も同意します。数字は人間が考え出した抽象的な理念であっても、恣意性に入りこみにくいもの、人の意志でどうにもならないものであると思います。

 ただ、はたしてこの計算というものは、単なる理念的なもの、としてしまってよいのでしょうか? そして、理念的な(と思われている)ものを支える「論理」というものについて、「正しい」「間違い」と判断する材料は何でしょうか?

 私が考えているのは、1+1=2、2×2=4というものは、人間の"直観"だけではなく、あくまで目の前に広がる現実世界のことでもある、ということです。
 数字を思いついたのは人間です。この世界にある実在物に1、2という番号がついているわけではありません。どのような経緯で発明されたのか、もはやもう知る由もありません。いずれにせよ、数字は人間が頭で考えだした観念にしかすぎません。
 
 しかし、その数字は、あくまで人間の目の前に広がる現実世界に対応した形でつくられています。「論理」というものは、人間の直観のみの産物ではなく、あくまで目の前に広がる現実世界から着想を得たものでもあるのです。

 石が目の前にあったとして、それを「1」個、と数えます。同じものが2つ並んでいたとき、それを「2」個、と数えます。そのようにして3、4、・・・と同じように続いています。そして、それは数字が発明された際の定義です。数字は人間の頭の中だけで考え出されたのではなく、あくまで目の前の現実世界と対応するように形成されているのです。そうすると、必然的に1+1=2となります。1個のものがあり、その横にもう一つ1個のものを並べれば、確かに2個になるからです。

 2×2=4についても、2個のものを2倍にすれば実際に4個になります。数学の「正しさ」は、基本的には現実世界と一致することにより、その客観性を与えられているのです。
 つまり、2×2=4に納得する、ということは、基本的には「論理」に納得するのではなく、2個のものを2セット並べる(2倍にする)と実際に4つになる、この現実より担保されているのです。
言いかえれば、「論理」というものは、私たちの目の前に広がる現実社会、私たちには改変のしようがない(『現象学入門』の言葉では「意識の自由の彼岸にある」「疑えない」といった表現で示されています)、突き付けられた事実が、その基礎になっているのです。

 AはBである。BはCである。ゆえにAはCである、という三段論法が正しい場合、それは現実世界でAとCが実際に一致しているから正しいと感じることができるのです。もしAとCが一致しなければ、この三段論法の論理の進め方にどこか間違いがあるだろう、と疑うに違いありません。
 また、もし現実世界が、AがBでありBがCなのにAとCが一致しないような異次元なものであったとしたら、おそらく人間の社会には三段論法ではないなにか別の論理が生まれていたでしょう。数学についても同じことで、2×2=4にならず、6とか8とか別のものになるようであれば、数学もそれに合わせた別の論理で構成されていることでしょう。

 ただ、おもしろいことに人はその基本的な部分(現実世界と照らし合わせて納得できる部分)をもとにして、さらに論理を広げることも可能です。また、数字などの観念は、現実世界から着想を得ているとはいえ、あくまで人間の頭の中で考えだされた抽象物でもあります。現実世界そのものではありません。そのため、論理を拡張することで実際の現実社会でうまく説明できないような虚数、無限大、無理数などのようなものが生まれてしまうこともあります。(ただ、この論理がこの現実世界のメカニズム理解の新たな発想につながる可能性もありますから、完全に矛盾しているとも断定はできませんが・・・)

 現実に即していることでその客観性を得られるはずのものが、人間の観念というものの限界(あるいは限界ではないかもしれませんが)のため、目の前に広がる世界と矛盾が生じる可能性がある、というところがおもしろいと思います。

※ 修正:7月6日に一番上に書いていた文章を削除しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月19日 (金)

ランダムとは? その2

 例えば、サイコロをふって1が出る確率をP1、xが出る確率をPxとします。

Px = f(x1, x2, x3,........., xn)

ここで、x1, x2, x3,........,xnとは、出てくるサイコロの目に影響を及ぼす要因です。例えば、サイコロを持った時の方向や、それぞれの筋肉の動き、その他無数にあります。(実際には要因どうしも網の目のように絡み合って影響し合っているのでしょうが、わかりにくいのでここではこのように単純化しておきます)

そして、n(要因の数)→∞ のとき、

P1=P2=P3=P4=P5=P6

と言えるのだ思います。つまり、ランダムとは「でたらめ」「乱雑」、「無秩序」なことではなく、関係する要因が多くなるほど、結果(確率)が均一化されるという「規則」「法則」なのだ、とも言えると思います。

 例えば、サイコロの1の目が上になるように持ち、なるべく低い場所からそっと押しだすように落としてやれば、1の目の出る確率はかなり高くなると思われます。あるいは、空気の状態その他周囲の状態を同一にして、精密機械でサイコロを同じ向きに同じ力で転がせば、常に同じ目を出すことができると思います。

 一方、サイコロを手に持って高いところから振り下ろすだけで、どのサイコロの目が出るのかとたんに判断が困難になります。人間の腕一本の中にも様々な筋肉、骨、その他数えきれないほどのさまざまな要素が関係しています。

 そして、そのサイコロの目が出るまでに関係する要因の数が非常に多くなれば、1~6の目が出る確率が平準化されていきます。

 実際、例えば1からnという整数がランダムに表示される、ということは、

P1=P2=P3=P4=P5=・・・・・=Pn

ということと同義のようです。


 しかし、実際に要因の数が無限大になるというのは、あくまで人間の思考の中のことでしょう。
(とりあえずここではこう断定しておきます。最新の科学では、このあたりはどのように認識されているのでしょうか・・・?)

 実際には、n(要因の数)が十分に多くなれば、それぞれのサイコロの目が出る確率は、

P1≒P1≒P2≒P3≒P4≒P5≒P6

となり、ほぼランダムと考えて差し支えない、といったところでしょうか。


 最初に書いた、

 Px = f(x1, x2, x3,........., xn) として、

 n→∞ のときに P1=P2=・・・=P6

という図式を考えれば、完全なランダムというものを見つけそうとすることは、無限大を見つけ出そうとすることと同じであると考えられます。


****************************


 このように、人間によって制御されない、人間が知らないうちに出来てしまっている規則、というものがあることは、よく考えてみればとても不思議です。

 ランダムほどに厳密ではありませんが、経済学における「神の見えざる手」も、このような規則と言えるかと思います。そのような法則が、その他社会科学の分野においてもみられる可能性はあります。

 こうなると、社会科学なのか自然科学なのか、その境はよくわからなくなりますね。
 
 まだ頭の中がまとまってないのですが・・・ヴェーバーにおける「理念型」を用いた分析のような社会科学の手法、個別の事象の分析、そしてそれらを超えて知らず知らずの間に出来てしまう規則・法則・・・そういったことについて考えているところです。

 レヴィ=ストロースの『構造人類学』の序「第一章 歴史学と民族学」の7ページに書いてある文章ですが、

「だからして、タイラーが次のように書くとき ― 「われわれが諸事実の総体から一つの法則を引き出すことができたときには、詳しい歴史というものの役割はすでに大きく乗りこえられてしまっている。磁石が一片の鉄を吸い寄せるのを見て、その経験から磁石が鉄を吸い寄せるという一般法則を引き出すにいたったならば、なにも当の磁石の歴史などを苦労してきわめる必要はないのだ」 ― 、彼は実際にはわれわれを一つの円環の中に閉じこめてしまうのである。というのは、物理学者とはちがって民族学者は、磁石や鉄にあたるような対象の決定に関し、また二つの磁石あるいは二片の鉄とうわべは見える対象の同一性を確認する可能性に関して、いまだ不確かであるからである。ただ「詳細な歴史」のみが、一々の場合にその疑念を晴らすことを可能にするのだ。」

・・・もっと頭の中が整理されたら、また何か書こうと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月12日 (火)

「わかる」とは感情、心の動きのこと

 私がスーパーで買い物をしていた時のことでした。どこからか腐ったような変な匂いがしてきました。最初は何の匂いかわからず、少々不安な気持ちになりました。しかし、しばらく後に商品のワインが棚から落ちて割れてしまったのだ、とわかった時ほっと安心しました。このように、わからないモノ・現象に遭遇したときの不安、そしてその正体がわかった時の安心というものが「わかった」という思考の仕組みの一つなのです。

 道を歩いている時、道端の草むらからガサガサ音がしてドキッとしたとします。何の音かわからず、ひょっとして獰猛な動物かなにかだったらどうしよう、などと不安な気持ちになります。しばらくして、その草むらから小さなかわいい猫がひょっこり出てきたとしたら、おそらく「何だ猫だったのか」とほっと安心するでしょう。この思考の過程に必ずしも言語が介在しているとは限りません。しかしこれも未知のものの正体が「わかった」と感じるプロセスの一種といえます。

 他のケースもあります。例えば、地面にキラッと光っているものが見えたとします。あれは何だろう?と好奇心にかられる人もいるでしょう。そこで、地面に顔を近づけてよく見てみると、単なるガラスの破片に太陽の光が反射していただけで、「なあんだ」とがっかりするかもしれません。あるいはそれがきれいな水晶で、素敵なものを見つけた、とうれしく感じるかもしれません。

 このように「好奇心」→その正体がわかったための「喜び」「落胆」といった感情の動きも「わかる」という思考の一つと言えるでしょう。

 このように「わかる」という思考は、「不安」「好奇心」、「安心」「喜び」「落胆」などの感情の働きなのです。未知のものに出会ったために生じる「不安」や「好奇心」が解消されたり満たされたりした時に「わかった」と感じるのです。このプロセスには必ずしも言語や観念は必要ありませんが、それら(言語や観念)が思考に伴ってくると、「わかる」の思考プロセスの種類が飛躍的に増えるのだと思います。

 以上のことを念頭に入れるならば、「わかる」「理解する」ということはどういうことなのかを考える場合は次の2点について明らかにすれば良いでしょう。

(1)未知のものに出会った「不安」や「好奇心」がどのようなときに現れるのか(どういうときに「わからない」と思うのか)、その感情が現れるための前提条件は何なのか(「わからない」と思うには何が必要なのか)
(2)どのような論理のもと、それらの「不安」「好奇心」が解消・満足されるのか

※ 『「わかる」とはどういうことか-認識の脳科学』 (山鳥重著、ちくま新書)をヒントに、少しだけ私の体験も交えて書いた文章です。ただしこの本では、言葉が「わかる」ということに必須だと述べられています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月24日 (火)

法則とは何か?

 この世界(宇宙)で生じている出来事、現象すべて何らかの因果関係により生じているとすれば、単なる因果関係と法則とを区別するものは何なのでしょうか?

 「法則」という言葉を広辞苑で調べてみたら、

①必ず守らなければならない規範。おきて。
②いつでも、またどこでも、一定の条件のもとに成立するところの普遍的、必然的関係。またそれを言い表したもの。

とありました。当然②の意味での「法則」がここで問題になります。

 では、上記の意味するところの「法則」として認められる条件についていくつか挙げてみます。

(1)「一定の条件」というものをそのまま実際に再現できる(実験で検証できる)、あるいは思考の中で想定できる(たとえば経済理論など)ことが法則の条件となります。しかし、その再現できる現象の範囲は結局、現在世界に生きている人間自身の能力次第なのです。たとえば要素があまりに多すぎれば再現は無理ですし、宇宙の始まりを全く同じに再現することなど(今のところはコンピュータ上でも)できません。もちろん人間の生活など全く同じ状況を再現するのも無理です。しかし、これらは現実的に無理だ、というだけで、もし神様みたいになれれば可能であるかもしれません。

(2)同じ・あるいは似たようなことが何度もこの世界で起きると考えられる、あるいは起きてきたと考えられることについての因果関係であること。つまり人間の生活に直接・間接に役立ちそうなもの(将来予測などに役立ちそうなもの)。あるいは人間の知的好奇心を満たし、この世界の理解へ役立ちそうなもの。因果関係が明確に認識できるが一度しか起きそうにないことについては法則と呼ばれないと思います。

(3)最後に、単なるイメージの問題です。関連する要因が少なければ少ないほど(原因と結果の関連がシンプルであるほど)法則と呼ばれやすいと思います。たとえば、一億あるいは一兆ほどの要素を絡ませて同じ結果が出るような因果関係(当然その他の条件は一定)を見つけられたとしても、それを法則とは呼ばないのではないでしょうか。

 このように、「法則」かそうではないかは、多分に人間の能力・人間の都合で決められているということになります。この世界(宇宙)の出来事が法則で説明できるのかどうか、という論議も、このあたりをわきまえないと不毛な論議になってしまいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月15日 (日)

ランダムとは?

 ランダム(無作為)、あるいは偶然という言葉は普段なにげなく使う言葉ですし、科学的な分析でもよく用いられています。法則、あるいは必然、と対置されて使われる言葉ですが、果たして、ランダムとはどういうことなのでしょうか?

 私は、ランダム、偶然、という言葉がけっこう無自覚に、都合よく使われているような気がしています。

 ランダム、無作為の一例として、サイコロの目が上げられると思います。サイコロを転がしたとき、私たちはどの面が上を向くか予測をつけることができません。しかし、私たちがわからないだけで、その時、その場所の空気の動き、周囲の様子、様々な要因に影響を受けた(サイコロを振る人の)腕の力の入れ具合、そういった無数の要因によって、たとえば6という目が出てきます。様々な要因が重なって、6という数字が出たのです。

 生物進化はランダムとよく言われますが、ある遺伝子が突然変異を起こしたとき、その遺伝子の周囲の様々な分子の位置、動き、そしてさらにその周辺の様々な環境が、その変異の要因となっています。様々な要因が重なりあってはじめて変異が起こるのであって、全く無根拠にその出来事が生じるわけではありません。

 乱数にしても、コンピュータソフトでは、特定の算出法で求められていますし、乱数発生器というものがあって、「高品質な」乱数をつくれるそうです。人が予想できないものであればあるほど、より正確(?)な乱数、ということになりそうですが、この世界で起こっている出来事は、すべてなんらかの(といっても無数の)要因がからみあって、起こるべくして起きたものです。法則性と、偶然性との違いはあくまで相対的なものであって、この世界の出来事がこの2つの種類に厳密に分離できるわけではありません。

 すべての現象は、様々な要因が絡み合って引き起こされたものです。結局のところ、その要因を人間がたどれれば法則、あるいは必然と呼ばれ、たどれなければランダム、偶然と分類しているにすぎないのです。

| | コメント (3) | トラックバック (0)