2006年10月15日 (日)

事実関係と、自らの願望・欲望とを混同しないこと

 私の気持ちをうまく表現した文章があったので引用してみます。「私たちが空を飛べないのは生物学的事実ですが、だからと言って、私たちは空を飛んではいけないという判断が自動的に導かれるわけではありません」(『進化と人間行動』(長谷川寿一・長谷川眞理子著、東京大学出版会、11ページ)。「現状がなぜそうなっているかの科学的説明を与えることは、そのままでよいのだという価値判断とは別の作業です」(同、17ページ)。

 たとえば、「自然界には直線は存在しない、だからデザインには直線を使うべきではない」と言った人がいたとします(実際、似たようなことを言った人がいるそうなのですが)。なんだか、そうかもなぁ、と納得してしまいそうです。

 しかし、「自然界には直線は存在しない」ということと、「デザインには直線を使うべきではない」ということの間には論理の飛躍があります。「自然界には直線は存在しない」という事実関係に基づいて、デザインのあるべき姿を論じる場合、おおざっぱに言って2つの答えがあります。一つは「直線を使うべきではない」ということですが、もう一つ「自然界には直線は存在しないからこそ、デザインには直線を使うべきだ」と言うこともできるわけです。つまり、「直線を使うべきではない」という言葉は、その言葉を言った人の、「直線を使いたくない、使って欲しくない」という個人的な欲望が表現されているだけなのです。くどいようですが、自然界に直線がないからこそ、デザインに直線を使いたい、使うべきだ、という主張も同じように成立しうるのです。しかし、「直線を使うべきではない」という言葉に多くの人が納得したとすれば、それは多くの人が、同じような欲望・願望を潜在的に持っている可能性が大きい、ということでもあるでしょう。

 また、ある政策論議において、A国ではこういうふうになっているので、日本もそうしなければならない、という場合、本来は、その主張をした人の「私は、この政策に関してはA国のものが好きで日本にもそうなってほしい」という願望を表現しているわけです。それを、自らの願望ではないかのように覆い隠し、自明のものであるかのように表現する場合は、一種の欺瞞と言えなくもありません。戦略的にわざとそうする場合もあるのかもしれませんが・・・

 なぜ、こういうことを書くのかというと、自らの欲望・願望を表現するとき、事実関係を巧みに利用し、論理の飛躍を隠して、あたかも一般的な原理として説明しようとする人が出てくる危険性があるからです。

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2006年11月 6日 (月)

「包括適応度」の理論や「利己的な遺伝子」の概念に関する誤解

  『文化と感情の心理生態学』(荘厳舜哉著、金子書房)の、「文化も遺伝子もその最終目的は個体の包括適応度の増加であることには間違いはない」(20ページ)、(人類の)「環境適応を増加させる目標は同一」(17ページ)、など人類やその他の生物が包括適応度を向上させる目的で生きているかのような記述、『人間性はどこから来たか』(西田利貞著、京都大学学術出版会)における包括適応度の理論の使い方、また『利己的な遺伝子』(リチャードドーキンス著、日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳、紀伊国屋書店)を読んで、人間の生きる意味は、遺伝子を残すことだ、という意見を述べる人たちに対して、私が抱く違和感について説明してみます。
 「包括適応度」「血縁選択」などの理論に関して私が問題だと考えているのは、理論そのものではなく、その適用の方法なのです。

 まず最初に、これらの理論について知らない人も多いと思いますので、 わかりやすく説明がなされている『文化と感情の心理生態学』34~37ページの内容からの引用を中心に説明してみようと思います。”~”で囲まれた文章の中には、私の意見は含まれていません。あくまで要約です。

 ”ダーウィンの理論の根幹となる「自然選択」とは、環境から加わるさまざまな選択圧に抗して、最も良く適合した個体の子孫がニッチ(生態学的環境)にその数を増やしていくことを意味します。しかし、自分の繁殖を放棄する個体が存在するハチやアリが滅亡もせず、逆にカスト(階級)に従った高度な社会を作り上げていることに対する説明が、自然選択理論ではできないのです。これを「包括適応度」という概念で、進化生物学的観点から合理的に説明したのがハミルトンでした。
 ダーウィンが個体適応を重視したのに対し、ハミルトンは生物としての個体は必ずしも直接の子孫を残さなくても、自分と同じ遺伝子型を持つ個体数が増加すれば、結果的に自分の遺伝子を残すのと同じ適応的価値を持つと考えたのです。個体そのものの適応度を問題とするのではなく、同じ遺伝子型を共有するもの全体がどれだけ子孫を残すことに成功するかが重要である、と指摘しました。
 この考えに従えば、遺伝子を共有する他個体を助ける行動は、自分が持っている遺伝子のコピーの増加を図ることと同じ意味を持ちます。ある個体が自分の繁殖を犠牲にしても、そのことで遺伝子を共有する「利他主義」が進化した理由がありました。
 ハミルトンは個体が血縁関係にあるときに、利他行動は適用的意味を増加させると考えました。これが「血縁選択」の考え方です。その理論をさらに先鋭化させたのがドーキンスで、「生物の身体は遺伝子の乗り物」でしかなく、実は遺伝子が自己を保護するための命令に従って行動してきたのに過ぎないのだと考えました。当然のことながら自然選択は、遺伝子そのものの淘汰に関係します。そこで遺伝子は、自分が生き残りやすいように生物の表現型を変化させ、環境適応を裏から援助してきたと説明しました。利他行動もその例外ではあり得ず、利他行動を採用させる「利己的な遺伝子」が存在するからこそ、人を含むすべての生物は環境に対して最適な適応を果たし、その結果ますます多くの利己的遺伝子を残すことに成功したとドーキンスは主張したのです。”

 この包括適応度の理論は、この地球上にいる生物の、多くの行動について上手に説明していると思います。しかし、決して生物の行動のあらゆる側面を説明しているわけではありません。
 例えば、『文化と感情の心理生態学』の50ページに取り上げられているコモドドラゴンのこどもは、地上にいると親によって捕食されてしまうので木の上で1年間生活をします。ヘビの子供も孵化後即座に分散し親から隠れ、親による捕食を回避します。コモドドラゴンのこどもが木に登るのは自らの遺伝子保全に役立っていますが、親が子を食べるのはどう考えても遺伝子保全につながっているとは言えません。個体そのものの適応度の理論には合致しますが、包括適応度は低下しています。

 先日、NHKの『ダーウィンが来た!』(URL:http://www.nhk.or.jp/darwin/)という番組でシジミチョウの生存戦略についての放送がありました。クロシジミは、アリの巣の中で幼虫、さなぎとなり、羽化してはじめて地上へ出てきます。幼虫、さなぎはオスアリと同じような匂いと、おいしい蜜を体から出し、アリに育ててもらいます。羽化して初めて巣の外へ逃げてゆきますが、そのとき匂いはなくなっているので、アリに捕食されないように大急ぎで逃げなくてはなりません。
 ムモンアカシジミは、アリの巣の中には入りませんが、幼虫、さなぎともども蜜のような匂いを出し、アリを自らの周囲に呼び込み取り囲ませることで身を守っています。アブラムシなどを自分で捕らえて食べるのでアリに食べさせてもらう必要はありません。しかし、このシジミチョウも羽化すると匂いがなくなって「化けの皮がはがれた」とたんに周囲を取り囲んでいたアリに襲われてしまいます。素早くアリから逃げられれば生き延びることができますが、運が悪ければ今度はアリの食べ物になってしまいます。
 どちらのシジミチョウも、羽化後も同じ匂いをさせてさえいれば遺伝子保全のためにより有利です。しかし、詰めが甘いとしか言いようがないというか、いずれにせよ、生存のために「最適」なように生物は出来ていません。
 人間に関しても、自殺や身内の殺人その他、包括適応度の理論ではとうてい説明できそうもない行為はたくさんあります。

 しかし、地球上にいるどの種類の生物も、うまくバランスを保ちながら、なんとか生き延びています(ただしバランスが崩れれば絶滅することもあります)。地球上のいたるところでは、同じ場所に雑多な生物がそれぞれのやり方で生き延び、共存しています。他の生物との関係、自然環境など人間が把握できないほどの無数の要因が偶然的に(※要因が多すぎて人間がそのすべてを把握できないという意味の偶然です。詳しくはランダムとは?の記事を参照してください重なったおかげで、それぞれの生物は、なんとか現在に至るまで子孫を残すことができたのです。

 もちろん、生物の行為のうち多くのものが、包括適応度の向上につながっていることも否定できません。そうでなければ生物は絶滅してしまいます。しかし、多様な生物の雑多な行為(及びそれをもたらす本能、欲求)のうち、包括適応度向上につながらない行為も多く見られるのです。

 結局のところ、生物の行為のいくつかについて包括適応度の理論を当てはめるとうまく説明できた、その事実があるだけで、それ以上でもそれ以下でもないのです。しかし、それは地球上の生物の行為すべてを理解したことにはなりません。一つの理論が、この世界で起きている現象の中の、この局面とこの局面を上手く説明するのに役立った、そこまでしか論証されていないのです。包括適応度の理論が、生物のすべての行為を規定していると論証されているわけではありません。

 私たちが生存できているかどうかは、遺伝子だけでなく、遺伝子以外の多様で雑多な無数の要因によって左右されてきたのです。

 決して「理論」というものが意味のないものだ、と言っているのではありません。理論を用いてそれを世界に当てはめて納得する、という思考は、人間がこの世界を理解する一つの方法なのです。しかし、それはその現象についてその理論がよく当てはまり、多くの人が納得した、という事実以上のことを示してはいません。

 また、地球上に現存する生物すべては、様々な環境下で様々な要因によってなんとか現在まで子孫を残すことができたわけですが、それらすべての生物について、彼らは遺伝子を維持するために生きてきたのだ、と後付けの説明をすることも可能です。なぜなら、今生きている生物は皆、体の中に先祖から受け継いできた遺伝子を持っているからです。

 しかし、それは原因と結果が逆になった理論です。生物の体が遺伝子の乗り物だ、という「比喩」がこの世界の特定の局面ではうまく当てはまるかもしれません。しかし、遺伝子が自らを保持するという唯一の「目的」に向かってすべての行為を組織立てていると、一元的に説明しようとするのは、明らかな誤解なのです。

 人間も他の動物と同じ生物、共通点はいくらでもあるし、同一の理論で説明できる行為もたくさんあると思います。しかし、その「理論」とは何なのか、「法則」とは何なのか、それらは人間がこの世界を理解する上でどのような位置づけになっているのかを、見極めなければ、かつての唯物史観のように同一の理論であらゆる現象を説明しようとする、間違った思考につながってしまう可能性があるのです。

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2006年12月 2日 (土)

「生物学的本性」に関するドーキンス氏の誤解

  『利己的な遺伝子』(リチャードドーキンス著、日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳、紀伊国屋書店)の中の記述で印象に残った場所を引用してみます。

「もしあなたが、私と同様に、個人個人が共通の利益に向かって寛大に非利己的に協力しあうような社会を築きたいと考えるのであれば、生物学的本性はほとんど頼りにならぬということを警告しておこう」(18ページ)

「われわれが利己的に生まれついている以上、われわれは寛大さと利他主義を教えることを試みてみようではないか。われわれ自身の利己的な遺伝子が何をしようとしているかを理解しようではないか。そうすれば、少なくともわれわれは、遺伝子の意図をくつがえすチャンスを、すなわち他の種がけっして望んだことのないものをつかめるかもしれないのだから。」(18ページ)

「われわれの遺伝子は、われわれに利己的であるように指図するが、われわれは必ずしも-生涯遺伝子に従うよう強制されているわけではない。」(18~19ページ)

 ドーキンス氏の書き方では、私たちの道徳的行為がまるで遺伝子のプログラミングの外にあるように思えます。しかし、(ちょっと極端な言い方かもしれませんが)私たちが道徳的行為を行うとき、遺伝子は働きをやめて機能停止になっているでしょうか?私たちがどんな行為をする場合も、遺伝子は周囲の環境との相互作用の中で、絶えず機能しています。

 私は、「利己的な遺伝子」の論理に飛躍があり、そのためにわざわざ「生物学的本性」という言葉を持ち出して説明しなくてはならなくなったのだと思います。そこで、ドーキンス氏の「利己的な遺伝子」の概念に関する論理の飛躍はどんなものなのか、図D-1に示してみました。

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  包括的適応度の理論は、あくまで生物の個々の行為(図D-1におけるa、b、c、d)を説明するモデルでしかないのに、その個別の事例から、すべての生物の行為を説明しようとしています。図のような論理の飛躍の中で、ドーキンス氏は、「利己的な遺伝子」という自らの概念にしばられ、道徳的な行為=人間の生物学的本性から離れた行為、と定義せざるをえなかったのです。

 遺伝子は、私たちが非道徳的に行為しようが道徳的に行為しようが、常に働いています。どちらも例外的行為ではありません。

 ちょっと話が変わりますが、田舎に住む人が最新テクノロジーでいっぱいの都会に移住したいと思うのも本性、田舎にとどまりたいと思うのも本性、騒々しい都会に住む人が静かな田舎に移住したいと思うのも本性、便利な都会にい続けたいと思うのも本性です(それらの選択には人それぞれ傾向があり、その傾向は遺伝子によるものが大きいとは思います)。

 前に、選択のプロセス(2)で説明しましたが、人間の欲求はあまりに雑多で様々な方向へ向かっています。そのため、ある1つの欲求が実現しても充足されない欲求は常に存在します。そして、特に現状に対して不満を抱く状況になったとき、これまでに充足されなかった欲求を「本当の自分」「本当にやりたいこと」と考えるようになるのです。また、ある人が人間の本性は「こうあるべき」と考えた場合も、そうでない行為が「本性」からはずれた行為になってしまい、自らの願望に沿った行為を「本性」と呼ぶようになってしまいます。

 「本性」という言葉は、限定的な言葉です。「本性」という言葉が使われている場合、その言葉を使った人の意図が裏に隠されていることも多いのです。

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2007年1月29日 (月)

方法は一つではない

 だいぶ前の話なのですが、海岸に生息する植物の生存戦略についてのテレビ番組を見ていました。海岸で生きる植物が乾燥しがちな砂地において水分を保持するために、主に次のような方法がとられているそうです。

・葉の表面をロウのようなものでコーティングする
・肉厚の葉を持つ
・日でりが続くと葉を丸く縮める
・うぶ毛、細かい毛を植物体に密生させ、蒸散を防ぐ

 それぞれの植物が上記の方法のうちどれか、あるいはここに記してない他の方法で生き続けています。そして、それら異なった手段をとるそれぞれの植物が同じ場所に共存しています。写真は、ハマゴウとコウボウムギなどが同じ場所に生育している様子を示しています。コウボウムギも、ハマヒルガオも、ハマゴウも、ケカモノハシも浜辺の砂地でそれぞれのやり方で生きているのです。

Aoshima





 砂地では乾燥に耐えられなければ生きていけないという制限要因があります。しかし、その制限要因のもとにおいてでさえ、環境に適応する方法はたくさんあるのです。海岸の砂地に生息する様々な植物、そして小さな動物、微生物まで含めれば、おそらく数え切れないほどの生物が同じ場所で共存しています。生きるための方法は一つではないのです。

 このような状態において、海岸の砂地に適応するための「最適な」方法とは何か、いちばん良い方法とは何か、と問うてみたところで答えようがありません。

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2008年11月27日 (木)

「理念」「思想」は原理ではない

このブログ第三章の結論になってしまいますが、

究極的には、道徳というものは、人間の持つ感情、共感能力(そしてそれを支える想像力)によって支えられています。

道徳の根拠として理念をあげる人も多いですが、それはその理念自体が人の感情・欲求(世界にこうなってほしい、こんな世界に住みたいと思うこと)によって支えられていることに気付いていない人たちです。

ある理念が、多くの人々によって支持されている場合、それは似たような欲求、願望を持っている人が多い、ということとほぼ同義なのです。(マスコミ操作などで扇動されてなんとなく支持ということもありうるかもしれませんが)

「理念」とは仮のものです。人間の欲望の別の表現なのです。
それは「思想」についても同じことですね。

つまり、Xという人・団体が、Aという「理念」「思想」があるから、あなたも従わなければならない、と言っていたとしたら、それは一種の詭弁でもあります。
要するに、Xという人がAという理念・思想に基づいた社会、というものに共感してほしい、一緒に同じように考え、行動してほしい、と欲して(願って)いるということなのです。

つまり、自分の欲求・欲望・感情に共感してほしい、同じように感じて行動してほしい、という願いを他の人に求めているわけです。

それがいつの間にか「理念」「思想」が独り歩きし、それ自体が一般的原理でもあるかのように感じられてしまうこともあります。そうなると少し怖い気がしますね。

共感能力、人の気持ちについて考える能力は皆が同じ程度に持っているわけではありません。人の気持ちについて考えることができない(あるいは考えようとしない)人たちが、理念・思想を振りかざし、社会を動かすようになると、怖い世界が待っているような気がします。

繰り返しますが、「理念」「思想」は仮のものにしかすぎません。原理ではないということです。

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2009年1月14日 (水)

哲学とは・・・?

「哲学」という言葉は、だいたい二通りに使われているような気がします。

(1)まずは、「思想」「生きるための指針」といった意味合いの「哲学」です。「人生哲学」などという形でよく用いられます。
一般的に、「哲学」という言葉を聞くとこの意味の方を考えることが多いと思います。

これは、突き詰めれば「欲望」「願望」のことです。私はこのように生きたい、皆さんにこのように生きてもらいたい、行動してもらいたい、といった願望、希望のことです。

この「哲学」に対しては、正しい・間違いといった判断はできません。あくまで支持するかしないかは、共感する・共感しないといった感情の問題となります。

あちこちで見られる「存在の意味」というのも、実はこの「哲学」の範疇に含まれます。これは「意味」というものが、人間の欲望に対応した人やその他の生物、モノの持つ「機能」を意味するものだからです。意味は人間の欲望の反映です。

言い換えれば、たとえば「人はこう生きるべきだ」「人が社会あるいはこの地球の中で無意味であってほしくない、何らかの意味(=機能)を持つ存在であってほしい」という願望、希望を示しているわけです。

(2)もう一つの「哲学」とは、人間の思考を支える論理について考えることです。まさにこのブログでやっていることです。

たとえば1+1=2という数式を支える論理です。科学の思考を成立させている人間の思考の論理について検証することも含まれます。

人が「生きる意味」と考える際に、「人はこう生きるべきだ」と考える論理ではありません。人が、存在というものに「意味」をつけたがっている、その思考論理について検証するのが(2)の哲学です。人は、どういうときに何を「意味」と呼んでいるのか、ということについて考えることです。

上の(1)と(2)の哲学を混同させていると、わかるものもわからなくなってしまいます。あるいは論理の飛躍によってある人の欲求・願望があたかも法則や一般的原理のように考えられてしまう恐れがあるような気がします。

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2009年3月21日 (土)

包括適応度に関する追加説明

「包括適応度」の理論や「利己的な遺伝子」の概念に関する誤解の記事に関して、コメントをいただいていますが、私の記事の説明もよくなかったのかもしれません。

この記事で、私が言おうとしていることは、

 人間の行為すべてが、包括適応度の向上という目的のために組織されているのではない。
 個々の行為については、適応度を向上させているように見える行為、低下させているように見える行為、よくわからない行為が混在しながらも、全体としては(今のところ)生き残れる程度になんとかバランスがとれている。

 あくまで現時点において結果として生き残っているわけで、その理由については後付けでいくらでも説明ができると思います。そして、その要素のなかには、当然、適応度を向上させる要因もあれば低下させる要因もあったと思います。

 包括適応度の理論自体を否定しているわけではありません。
その理論の適応方法に問題がある説明をしばしば見かける、ということを言いたかったわけです。

 そして、その理論とは、どのようなものなのか、どう利用すべきなのか、ということを再確認しながら考えていきたいと思っています。

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2009年5月 6日 (水)

遺伝子に操られる・・・? 遺伝子に逆らう・・・?

 包括適応度のところのコメントに対する回答を、もっと納得できるような内容にしたいので、ゲーム理論についてもう一度ちゃんと見直しておいた方が良いかな・・・

・・・と思い、『生命の意味 進化生態からみた教養の生物学』(桑村哲生著 裳華房)を読んでいたら、下のような文章が目に入りました。

「ただし、人間だけは血縁選択でもなく互恵的でもない、純粋な利他行動もできるように思います。ただし、そういう行動がとれるのは、遺伝子に操られるのではなくて、遺伝子に逆らって、理性的にふるまえる人に限られるはずです」(138ページ)
(引用はここまでです)

 「遺伝子に操られる」「遺伝子に逆らう」という表現のところに、どうもひっかかってしまいます。人間のすべての生命活動において、遺伝子が何らかの形で関与しているわけです。人の行為は遺伝子に逆らって行われているのではありません。人が理性的な(と一般的に言われているような)行為を行う場合も、あくまで環境と遺伝子の相互作用の中で起こった出来事なわけです。
 理性的(と言われる)行為も、遺伝子の関与なくしてはありえないと思います。

 つまり、遺伝子にそのような限界があるのではなく、

<遺伝子の関与→血縁選択・互恵的な行為>

という理論に縛られている人たちの思考パターンに限界があるのだと思います。

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