『文化と感情の心理生態学』(荘厳舜哉著、金子書房)の、「文化も遺伝子もその最終目的は個体の包括適応度の増加であることには間違いはない」(20ページ)、(人類の)「環境適応を増加させる目標は同一」(17ページ)、など人類やその他の生物が包括適応度を向上させる目的で生きているかのような記述、『人間性はどこから来たか』(西田利貞著、京都大学学術出版会)における包括適応度の理論の使い方、また『利己的な遺伝子』(リチャードドーキンス著、日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳、紀伊国屋書店)を読んで、人間の生きる意味は、遺伝子を残すことだ、という意見を述べる人たちに対して、私が抱く違和感について説明してみます。
「包括適応度」「血縁選択」などの理論に関して私が問題だと考えているのは、理論そのものではなく、その適用の方法なのです。
まず最初に、これらの理論について知らない人も多いと思いますので、 わかりやすく説明がなされている『文化と感情の心理生態学』34~37ページの内容からの引用を中心に説明してみようと思います。”~”で囲まれた文章の中には、私の意見は含まれていません。あくまで要約です。
”ダーウィンの理論の根幹となる「自然選択」とは、環境から加わるさまざまな選択圧に抗して、最も良く適合した個体の子孫がニッチ(生態学的環境)にその数を増やしていくことを意味します。しかし、自分の繁殖を放棄する個体が存在するハチやアリが滅亡もせず、逆にカスト(階級)に従った高度な社会を作り上げていることに対する説明が、自然選択理論ではできないのです。これを「包括適応度」という概念で、進化生物学的観点から合理的に説明したのがハミルトンでした。
ダーウィンが個体適応を重視したのに対し、ハミルトンは生物としての個体は必ずしも直接の子孫を残さなくても、自分と同じ遺伝子型を持つ個体数が増加すれば、結果的に自分の遺伝子を残すのと同じ適応的価値を持つと考えたのです。個体そのものの適応度を問題とするのではなく、同じ遺伝子型を共有するもの全体がどれだけ子孫を残すことに成功するかが重要である、と指摘しました。
この考えに従えば、遺伝子を共有する他個体を助ける行動は、自分が持っている遺伝子のコピーの増加を図ることと同じ意味を持ちます。ある個体が自分の繁殖を犠牲にしても、そのことで遺伝子を共有する「利他主義」が進化した理由がありました。
ハミルトンは個体が血縁関係にあるときに、利他行動は適用的意味を増加させると考えました。これが「血縁選択」の考え方です。その理論をさらに先鋭化させたのがドーキンスで、「生物の身体は遺伝子の乗り物」でしかなく、実は遺伝子が自己を保護するための命令に従って行動してきたのに過ぎないのだと考えました。当然のことながら自然選択は、遺伝子そのものの淘汰に関係します。そこで遺伝子は、自分が生き残りやすいように生物の表現型を変化させ、環境適応を裏から援助してきたと説明しました。利他行動もその例外ではあり得ず、利他行動を採用させる「利己的な遺伝子」が存在するからこそ、人を含むすべての生物は環境に対して最適な適応を果たし、その結果ますます多くの利己的遺伝子を残すことに成功したとドーキンスは主張したのです。”
この包括適応度の理論は、この地球上にいる生物の、多くの行動について上手に説明していると思います。しかし、決して生物の行動のあらゆる側面を説明しているわけではありません。
例えば、『文化と感情の心理生態学』の50ページに取り上げられているコモドドラゴンのこどもは、地上にいると親によって捕食されてしまうので木の上で1年間生活をします。ヘビの子供も孵化後即座に分散し親から隠れ、親による捕食を回避します。コモドドラゴンのこどもが木に登るのは自らの遺伝子保全に役立っていますが、親が子を食べるのはどう考えても遺伝子保全につながっているとは言えません。個体そのものの適応度の理論には合致しますが、包括適応度は低下しています。
先日、NHKの『ダーウィンが来た!』(URL:http://www.nhk.or.jp/darwin/)という番組でシジミチョウの生存戦略についての放送がありました。クロシジミは、アリの巣の中で幼虫、さなぎとなり、羽化してはじめて地上へ出てきます。幼虫、さなぎはオスアリと同じような匂いと、おいしい蜜を体から出し、アリに育ててもらいます。羽化して初めて巣の外へ逃げてゆきますが、そのとき匂いはなくなっているので、アリに捕食されないように大急ぎで逃げなくてはなりません。
ムモンアカシジミは、アリの巣の中には入りませんが、幼虫、さなぎともども蜜のような匂いを出し、アリを自らの周囲に呼び込み取り囲ませることで身を守っています。アブラムシなどを自分で捕らえて食べるのでアリに食べさせてもらう必要はありません。しかし、このシジミチョウも羽化すると匂いがなくなって「化けの皮がはがれた」とたんに周囲を取り囲んでいたアリに襲われてしまいます。素早くアリから逃げられれば生き延びることができますが、運が悪ければ今度はアリの食べ物になってしまいます。
どちらのシジミチョウも、羽化後も同じ匂いをさせてさえいれば遺伝子保全のためにより有利です。しかし、詰めが甘いとしか言いようがないというか、いずれにせよ、生存のために「最適」なように生物は出来ていません。
人間に関しても、自殺や身内の殺人その他、包括適応度の理論ではとうてい説明できそうもない行為はたくさんあります。
しかし、地球上にいるどの種類の生物も、うまくバランスを保ちながら、なんとか生き延びています(ただしバランスが崩れれば絶滅することもあります)。地球上のいたるところでは、同じ場所に雑多な生物がそれぞれのやり方で生き延び、共存しています。他の生物との関係、自然環境など人間が把握できないほどの無数の要因が偶然的に(※要因が多すぎて人間がそのすべてを把握できないという意味の偶然です。詳しくはランダムとは?の記事を参照してください)重なったおかげで、それぞれの生物は、なんとか現在に至るまで子孫を残すことができたのです。
もちろん、生物の行為のうち多くのものが、包括適応度の向上につながっていることも否定できません。そうでなければ生物は絶滅してしまいます。しかし、多様な生物の雑多な行為(及びそれをもたらす本能、欲求)のうち、包括適応度向上につながらない行為も多く見られるのです。
結局のところ、生物の行為のいくつかについて包括適応度の理論を当てはめるとうまく説明できた、その事実があるだけで、それ以上でもそれ以下でもないのです。しかし、それは地球上の生物の行為すべてを理解したことにはなりません。一つの理論が、この世界で起きている現象の中の、この局面とこの局面を上手く説明するのに役立った、そこまでしか論証されていないのです。包括適応度の理論が、生物のすべての行為を規定していると論証されているわけではありません。
私たちが生存できているかどうかは、遺伝子だけでなく、遺伝子以外の多様で雑多な無数の要因によって左右されてきたのです。
決して「理論」というものが意味のないものだ、と言っているのではありません。理論を用いてそれを世界に当てはめて納得する、という思考は、人間がこの世界を理解する一つの方法なのです。しかし、それはその現象についてその理論がよく当てはまり、多くの人が納得した、という事実以上のことを示してはいません。
また、地球上に現存する生物すべては、様々な環境下で様々な要因によってなんとか現在まで子孫を残すことができたわけですが、それらすべての生物について、彼らは遺伝子を維持するために生きてきたのだ、と後付けの説明をすることも可能です。なぜなら、今生きている生物は皆、体の中に先祖から受け継いできた遺伝子を持っているからです。
しかし、それは原因と結果が逆になった理論です。生物の体が遺伝子の乗り物だ、という「比喩」がこの世界の特定の局面ではうまく当てはまるかもしれません。しかし、遺伝子が自らを保持するという唯一の「目的」に向かってすべての行為を組織立てていると、一元的に説明しようとするのは、明らかな誤解なのです。
人間も他の動物と同じ生物、共通点はいくらでもあるし、同一の理論で説明できる行為もたくさんあると思います。しかし、その「理論」とは何なのか、「法則」とは何なのか、それらは人間がこの世界を理解する上でどのような位置づけになっているのかを、見極めなければ、かつての唯物史観のように同一の理論であらゆる現象を説明しようとする、間違った思考につながってしまう可能性があるのです。
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