2009年11月 7日 (土)

『エロスの世界像』その3 エロス原理(欲望)だけで説明可能なのか?

 『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)を違和感を感じながら読んでいます。

 人間は本来、さまざまなレベルで欲望(夢)を持っており、ただそれが思い通りに実現しない領域を「現実」と読んでいるにすぎない。(23ページ)

 上の文章で示されているように、欲望ではどうにもならない世界がある、ということを私たちは普通に認識しています。エロス原理(欲望)のみで私たちの世界認識を説明するには無理があるのでは、と感じます。欲望で説明できるのは、価値、倫理といったものに限られ、むしろ、それらを「現実」と混同しない、そちらの認識の方が大切なのではと思います。

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 子供が排出物を「キタナイ」と感じるようになるのは、人間の生得の感覚として美醜感が発達してくるからではない。排出物は「日常生活」からはみ出す「ケガレ」の世界を象徴する、それがキタナイのはそれが「ケガレ」ているからであって逆ではない。(82ページ)

 社会科学(とくに文化人類学関連)の文献を読むとき、しばしば感じる違和感をここでも思い出しました。間違っているとも言い切れないが、本当にそうなのか? 正しいという証拠も出せません。このようなストーリーがしばしば作られているのです。『エロスの世界像』の中では、死について、自我について、様々な説明がなされていますが、おもしろい半面、本当にそうなのか? という疑念が常についてまわります。

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 これまでに述べてきたように、現象学で言う<内在>は、見た、聞いた、だけではなく、私が感じた欲望や感情も含みます。私たちは、常に受身的に、それらの感覚を受け取っているのです。

 そして、それらの感覚を再構成し、「私」「あなた」「物」などと世界を区分し、そして「私」というものから欲望が発生し、「私」というものが感情を持った、というふうに<内在>で得た情報を再構成しているのです。(「自我」や「身体」についての私の見解は、「私」は客観的世界の住人である、および「私」は客観的世界の住人である その2、で述べています。)

 私の欲望や感情は、私が頭の中で客観的世界を構築する際の原理ではなく、構成要素の一つにしかすぎない、ということです。

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『近代哲学再考』その1

 客観的世界の構築は、自らの体験の積み重ねと、他の人との概念の共有によって、より精緻なものとなっていきます。私たちが日ごろ「客観的」と言っている場合、おそらく「誰から見ても正しい」と思われる、ということを指しているのではないかと思います。

 つまり、「誰から見ても正しい」、とより多くの人が確信していれば、より広く認められる真実である、と認識されているということです(文章がくどくてすみません)。今、『近代哲学再考』(竹田青嗣著、径書房)を読みながら、そういったことについて考えています。

 つまり、ある多様な現象を、どのような「キーワード」(=原理)で呼べば、またそれをどう構成すれば、より普遍的な(=広い共通了解を生むような)説明方式になるか、これが哲学(フィロソフィー)という思考方法のもっとも核心的な方法であり、自然科学はまさしくこの方法を「自然科学」の領域に当てはめて成立したものなのです。(『近代哲学再考』35ページ)

 キーワードとは、例えば、電気のプラス・マイナス、原子や素粒子といった概念、またはタレスの「万物の原理は水である」という見解などのことです。

 ともあれ、こう見てくると哲学の思考方法の独自性が明らかになってきます。哲学の方法の本質は、自然科学の方法の本質と同じであり、それは世界説明をより”普遍化”していくこと(=共通了解を促進し拡大してゆくこと)であって、「客観」や「真理」へ届くための絶対的方法ではないのです。(36ページ)

 もう一度、『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)の一部を引用してみます。

哲学の祖と言われるミトレスの住人タレスは、「万物の原理は水である」と唱えた。わたしたちはこれを笑えない。ある大もとの原理が物を構成するという発想は、「素粒子が物質を構成する」という考え方と基本的には同じだからだ。タレスと現代科学の誤差は、認識論的ディスクールを基礎としているという点から言うと、きわめて小さい。(25ページ)

 私自身は、これらの説明に対し同意する部分もあれば、違和感を感じる部分もあります。既に、『エロスの世界像』その1の記事でも述べていますが、近代科学が他の思考と違うところは、実際にそのものを見たり、それがあるという証拠を実際に見せる、そういう姿勢・技術を有している、というところです。これを無視して、皆同じだ、と一からげにしてしまうのも、問題があるのではないでしょうか。

 しかし、哲学も自然科学も基本的な思考方法には、共通部分がある、ということも確かです。そして、私たちの判断の最終的根拠が現象学で言う<内在>の持つ<明証性>であることも忘れてはなりません。「客観的真理」が最初から用意されているわけではなく、あくまで、「世界説明をより”普遍化”していく(=共通了解を促進し拡大してゆく)」過程であることにも変わりはありません。

(自然科学は、より多くの人に共通了解をもたらす効果的な方法を持っている、そして共通了解を得やすい問題を扱っている、と言い換えることもできます)

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 私たちの「問い」と「答え」は、下のように分類できると思います。

1. 「答え」「真実」(※客観的世界における真実です)が得られる可能性がある(あるいはあった)と考えられるもの
 1-a. 理論的には検証可能であると考えられるもの(本当にそうかはわからないが)
   1-a(1). 現在の技術水準で可能なもの
  1-a(2). 現在の技術水準では不可能と思われるもの
 1-b. 既に起きてしまったことで、もう検証が不可能であるもの(推測するしかない)

2. 見方によって「答え」が変わってしまうもの

 自然科学と社会科学・人文科学(?)、あるいは芸術評論、文芸評論など、一応「学問」として括られてはいるものの、「問い」と「答え」の性格が異なるものがまぜこぜになっています。

 また、皆が「正しい」と判断できるものと、人によって「正しい」「間違い」の判断が分かれる可能性のあるものについて、その違いは何なのか、そのあたりも説明していく必要があると思います。

 まだ頭の中がきっちりと整理されていないので、『近代哲学再考』を読みながら考えを進めていきます。

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2009年11月 4日 (水)

『エロスの世界像』その2

 『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)は堅実な内容だったと思いますが、『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)は、著者自身のストーリーが知らず知らずのうちに入り込んでいたり、再考せねばならない問題点がいくつかあるのではないか、と感じながら読んでいます。

「きれい―きたない」は、生理身体的な「快―不快」とは違って、人間の生活経験の積み重ねの中でその身体世界の変容として形成された秩序である。しかし、重要なのは、いったん形成されたその秩序は、「快―不快」と同様、その形成の由来が意識にはまったく与えられないということだ。(99ページ)

 このあたりは<内在><明証性>というものについての認識にブレが生じているのではないか、と感じます。

<内在>それ自身は、あくまで客観的世界、そして因果関係を構築する材料です。
 そして、私たちの欲望や感情について、例えば、「何で○○と感じたのか」とか「なんで○○が欲しいと思ったのか」と問う場合は、客観的世界における因果関係で把握し、<内在>との照合によりその正しさを検証するしかないのです。

 その由来を問う、ということは客観的世界における因果関係を問う、ということです。因果関係を問うているのに、客観的世界を否定している、その矛盾があると思います。

 私たちが感じる「快―不快」の感覚(情動)は、それ自体が<明証性>を持つ<内在>であると言えます。そして、それらの経験を積み重ね、そこから概念と因果関係を抽出して、「私」というものの客観的世界を構築していくのです。その客観的世界においては、「なぜ○○と感じたのか」「なぜ○○が欲しいと思ったのか」という問いも、因果関係において答えることができます。例えば、これまでの体験・出来事との関連を検証したり、あるいは脳科学風に、対象があって、刺激、脳の働き、その他の要因などの相互作用から欲望や感情が生じた、というようにです。

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2009年11月 2日 (月)

『エロスの世界像』その1

 『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)は、科学を相対化したいという意図が強すぎ、過小評価している気がします。

哲学の祖と言われるミトレスの住人タレスは、「万物の原理は水である」と唱えた。わたしたちはこれを笑えない。ある大もとの原理が物を構成するという発想は、「素粒子が物質を構成する」という考え方と基本的には同じだからだ。タレスと現代科学の誤差は、認識論的ディスクールを基礎としているという点から言うと、きわめて小さい。
(25ページ)

 確かに、客観的世界(客観世界)を構築する人の思考、という点では同じでしょう。ただ、それらを単に一からげにしても良いものでしょうか?
 「すべてのものは水からできている」ということと「素粒子が物質を構成する」という論理は何が違うのか、というと、前者は単なる推測(仮説)に留まっているのに対し、後者はそれを直接的・間接的に観測できる、あるいは証拠がある、ということです。

 より確実なものとして、「すべての物質は原子から成り立っている」という論理を考えてみましょう。私たちは、電子顕微鏡を使うことで、実際にそのものを観察することが出来ます。つまり、論理と私たちの体験とが一致している、整合性がある、ということなのです。それが客観的世界における「正しい」ということなのです。

 もちろん、(その確率はかなり低いにせよ)私たちが原子・分子を電子顕微鏡で観測した、この体験自体が、私たちの想像を超えた錯覚であった、という可能性が全くないわけではありません。こういう意味において、すべての論理が「仮説」である、と言うことも可能ではあります。

 ただ、いずれにせよ私たちは、(私たちの体験できる範囲内において)科学によって、論理と体験との間により整合性を持たせる方法を獲得することができたわけです。

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(ベルクソンの意見の引用部分)
彼は人間の存在をどれほど高度で複雑な機械の組み合わせと考えても、そこから「意識する」あるいは「感覚する」という原理は理解されえないという(『物質と記憶』)。
(16ページ)

 はたして、このように断言できるのでしょうか? 私たちは、まだその原理を知らないことも事実ですが、一方で、理解されえないということを断言する根拠もまだないと思います。
 

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 あと、ずっと考えているのが、欲望と事実認識との間の関係をどのように説明するのか、よくよく考えてみると意外と難しい気がします。単に私が迷っているだけなのかもしれません。

 しかし、よく考えてみるなら、自然物の秩序の正しい判断ということと、善悪や美醜の判断ということの間には大きな深淵がある。物の認識と、善悪、美醜の判断の関係は非対象的なものであり、交換式を持たないのだ。
 すると、前者から後者を引き出すのは不可能であり、唯一可能なのは、善悪、美醜の秩序の原因となるものが、「それが最善になるような仕方で」物の世界を秩序づけてわれわれに現わしている、と考えることだ。おそらくそのようにソクラテス=プラトンは考えた。
(35ページ)

 半分同意で半分?、といったところです。
 確かに、物の認識と善悪、美醜の判断は別のことであると思います。ただ、善悪・美醜は、結局人間の欲望や感情によって決まります。そして人間の欲望や感情は、客観的世界の中の把握が(難しいにせよ)可能であり、実際、私たちは、毎日体験している自らの欲望や感情を、次々に客観的世界における因果関係に組み込んでいます(そして、「私」というキャラクターのイメージをつくりあげています)。さらに、脳科学の進歩が、私たちの思考の働きと脳との関係をどんどん明らかにしています。

 私たちの欲望、感情を客観的世界における因果関係(わかりやすく言えば科学理論)で説明することが可能であること(すべてを説明しきることができるということではありません)と、物の認識と善悪・美醜の判断は別のことであること、これらのことを上手く説明したいと思っています。

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2009年8月 1日 (土)

『現象学入門』その5

 『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)を読みながら、違和感を感じていたのですが、考えているうちにだいぶ納得できるようになりました(一方で、私の見解と違っている部分もあります)。あれこれと書いていたのですが、最終的には、「真理・真実について」という記事にまとめています。

 私たちが見たこと、聞いたこと、感じたこと、それらは疑いない事実である、私たちはそこからはじめるしか術がありません。それが錯覚であろうとなかろうと、とにかくそこから出発するしかない、ということです。(「明証性」という言葉にも前ほど違和感を感じなくなってきました・・・)

 そして私たちは、(不思議なことに?)自ら感じたことについて、これは錯覚ではないか、あるいは本当ではないか、と判断しています。なぜそんな判断ができるのか? その判断の基準となるものが、「客観的世界」であると思います。

 私たちは、様々なものを見たり聞いたり、感じたりしながら、経験を重ねていきます。その経験の積み重ねと、他の人とのコミュニケーションの中から、認識の共通点を見出しながら、客観的世界というものを構築していきます。それらは、自らの経験やコミュニケーションを重ねる中で、次第に広がっていったり、修正されたり、精密になったりしていきます。

 そして、客観的世界=現実世界と、私たちが見たこと聞いたこと、感じたこととを突き合わせながら、「正しい」「間違い」を判断している、ということです。あるときには客観的世界をもとに自らの感覚について判断を下す、あるときは私の感じたものを基準に客観的世界を修正する・・・このあたりの思考メカニズムについて、さらに考えてみたいと思っています。

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2009年7月19日 (日)

『現象学入門』その4

 『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)、とりあえず最後まで読みましたが、いくつか納得できないことがあります。

1.<明証性>について

 いわゆる<内在><知覚>について、それが人間が客観世界というものを構築する材料になっている、というかむしろ、その<内在><知覚>、人間の受け取る感覚、見たもの、聞いたもの、感じたものしか、私たちがこの世界理解に利用できる材料はない、ということだと思います。

 しかし、「正しい」「間違い」を判断したり、「これは本当のことなのか?」と疑うのは、概念により人間がこの世界を区分した上で生じる意識です。そして、その正しさを検証するとき、<内在><知覚>そのものではなく、それらを使って構築した客観世界を用いているのではないか、という気がします。

 これについては、まだ自分でもまとめきれていないので、下の2と合わせて、さらに考えを進めてみたいと思います。

2.客観世界の構築のプロセスについてはまだよくわからない

 この本を読んだだけでは、まだ十分に理解できません。とりあえず自分で考えてみます。

 

3.心的なものについては、因果関係がなぜ目的論になってしまうのか(そして心的なものは因果関係では把握できないという結論にしたがるのか)

 このあたりも、まだまとめきれていないので、とりあえず引用だけしておきます。

 ものはただ対象化されるだけの存在だが、人間は(他の人間から対象化されることがあるが)むしろ、つねに対象化しつつある存在である。この違いにこそ、事物存在と人間の存在のありようの本質的な相違があることは誰にでもわかるだろう。じつはその点に、人間ともの、<身体>と機械、<主観>と<客観>との間の、存在論的な非対象性、つまり「存在論的差異」ということのカギがあるのだ。ハイデガーはおおよそそのように言う。
 人間の存在は、確かにある面では対象的存在として捉えられる。しかし、人間の、つねに対象化しつつ存る存在本性、これは対象としては捉えることができない。つまり~のためにという観点から見られた因果連関として捉えることができない。
(185ページ)

 人間存在の"対象化する本性"と事物存在の"対象化される本性"は、たとえばある構造を持った機械(身体)と、この機械を動かす動因、力(精神)という関係にすこし似ている。構造としての機械は、ただこの機械の目的からだけ、その各部分の存在の意味が理解(規定)され、またその相互の関係も理解される。しかし機械を動かす「力」のほうは、機械の目的そのものを作り出すなにかであり、その意味でこれは自己目的的な存在である。したがって、「力」それ自身を構造や因果として捉えることはできないのである。
 事物存在が因果関係として捉えられるのに対して、心的な存在はその本性自身を因果関係として捉えられないのはそのためだ。
 そういうわけで、心的な存在は、目的論的なかたちで(つまり因果関係)として把握されるわけにはいかず、あえてこれを把握しようとすれば、ただ自己了解的な仕方でしか捉えるほかはない。
(187ページ)

4.私たちが感じる感情、意志、欲望も、それ自体が<知覚><内在>の一つではないのか

 私たちは、自らの意思・欲望でさえ、自由になりません。その自らの意思・欲望でさえ、実は外から与えられたもの、つきつけられた事実の一つです。私が思ってしまったこと、感じてしまったこと、欲してしまったこと、それは私たちが事実として、受動的に受け入れざるを得ないものです。

 実は、この人間の意志も「原的な体験」「知覚」「内在」の一つであると思います。人は、何かしらの欲望を持っていることを感じます。その欲望自身には、本来は名前などついていません。
 その欲望を、人は概念をつけることで分類しているのです。「生理的欲求」「本能的欲求」「理性的欲求」「所有欲」「権力欲」その他、そのときどきの必要に応じて様々な分類概念が存在します。そして、欲望に名前がついていること自体、既に現象学で言う「ドクサ」(類推・憶見)が入り込んでいます。
 私たちは、自分自身を安心させるために、自らの欲望でさえ分類して納得しようとします。しかし、たとえば私が今感じている欲望は、権力欲かなぁ、と感じながらも、本当にそうなのか、それだけなのか、と疑問に思う、そういうことは日常茶飯事なのではないでしょうか。(このことは、ものを概念によって分類しようとするときに、はじめて「疑う」という意識が生じていることを示していると思います)

 そして、欲望は意味を作り出す源泉でもあります。このあたりを、<気遣い>による意味世界(?)構築というプロセスにどう突き合わせていくか(あるいは批判するか)、考えてみたいと思います。

 そもそも欲望を把握する場合に、人が何らかの区分概念を用いている(しかもそれがきちんと説明しきれているかも疑わしい)のですが、後付けの分類を行う以前に、それらの欲望は勝手に働いて、私たちが世界を見るときに作用してしまっています。そして、3と関連しますが、それらの勝手に出る欲望それ自体も、「志向性」というものがあると思います。

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2009年7月16日 (木)

『現象学入門』その2

 今、『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)の第四章を読んでいるところです。同意する部分も多いのですが、何か違和感がぬぐえないです。

 その違和感の一つは、近代科学、とくに自然科学に対する拒否感、みたいなものかなぁと感じています。

 私は、現象学的視点を維持した上で、科学的手法を採用することは可能だと思います。独我論を出発とする現象学を無視せず、その視点から、どのようにして人々は客観性というものを感じるのか、その仕組み、メカニズムを明らかにすることも可能なのでは、と感じています。現実世界(と思われているもの)と法則との関係を見失わなければ大丈夫なのでは、と思います。

 そのとき「正しい」「間違い」を検証する最終的根拠として、<知覚><内在>だけでは、説明しきれていないのでは、とも感じます。そのあたりはまだちゃんと説明できません。今考えているところです。

 また、心における因果系列について、なぜ心身二元論と混同されてしまうのかもよくわかりません。因果関係についての記述に関しても、違和感を感じている部分があるので、そのあたりについてもなんとかまとめて書ければなぁと思っています。

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2009年7月11日 (土)

『現象学入門』その1

 『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)の第二章まで読みました。かなり内容を忘れてしまっていました・・・

 ここまでは、フッサールが「確実なもの」と「あいまいなもの」(33ページ)との区別、「夢」と「現実」の区別について、そして「ほんとうのもの」という認識をもたらすものを、独我論から説明しようとした、そのプロセスを説明しているのですが・・・(この記事の一番下に主な箇所を引用しておきます)

 私が感じたことは、これまでの説明では、「現実」「ほんとうのもの」の確証についての回答になっていない、ということです。

 外から与えられる「原的直観」についても<知覚>が意識の自由にならないものとしていますが、人が夢を見ること自体、意識の自由にならないものです。夢を見たことは(自分の意識の中では)否定できません。夢の中で石を見たとしたら、夢の中で石を見たこと自体も否定できません。
 脳の働きでさえ、意識の外から与えられているかのように作用しているのです。人が感情を抱いてしまうこと、思い出したくないのに思い出してしまうこと、皆、自由にならないものなのです。(よくわかりませんが、それら見たこと感じたことすべてを現象学における<知覚>であると言ってしまうことも可能なのかもしれませんが)

 結局のところ、話は非常に簡単です。

 人は、目が覚める前に見たから「夢」と感じ、目が覚めた後に立ち会う世界、それを「現実」だと感じる、ただそれだけなのです。

 そして、それが「夢」だ「現実」だと完全に証明する術はありません。

 いずれにせよ、<意識>の自由にならないもの、というより、<意識>自体が自由にならないものなのです(「自由」という概念の再検討も必要ですが)。

 むしろ、物事の客観性をもたらすものは、「共通了解」(63ページ以降)の方だと思います。人とのコミュニケーションの中で、初めて客観性というものを確認できる、ということです。そして、それを支えるものは、生物としての人間の持つ共通性であると思います。人間としての共通性があるから、普遍的なものを共有することが可能なのです。

 また、この本では、まだ「本質」「意味」という概念に対する検討が足りていないかなとも感じました。70~71ページの記述についても問題があると思いますが、エネルギーが足りないので、そこまで書きません・・・ 

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<『現象学入門』引用部分>

 「確実なもの」と「あいまいなもの」との区別、「夢」と「現実」の区別について、

 人間は、ただ<主観>の"内側"だけからある「正しさ」の根拠をつかみとっていると考えるほかない。まさしくフッサールはそう考えた。(41ページ)

 なぜ人間は<主観>の中に閉じられているにもかかわらず、世界の存在、現実の事物の存在、他者の存在などを「疑いえないもの」として確信しているのか、と問うべきである。(43ページ)

 どんな認識や思想にも必ずさまざまな"憶見"がつきまとっているが、そのいちばん底にはもはや憶見と言えないもの、それを疑うことが無意味であるようないわば「確信」の底板というべきものがあると、原理的には言える。それをフッサールは「諸原理の原理」、つまり「原的な直観」と呼ぶのだ。だから彼はこれを「認識の正当性の源泉」であると言うのである。(50ページ)

 結論を言うとこうなる。わたしたちが<知覚>と呼ぶ意識表象には、他のものとは決定的に違う性質がある。それは。<想起>、<記憶>、<想像>などが、ほぼ意識の志向力によってそれを遠ざけたり、呼び寄せたりできるのに対して、<知覚>だけは、つねに意識の自由にならないものとして現れるという点である。つまり意識表象の兄弟たちの中で、<知覚>だけは、意識の志向性という親の言うことを聞かないわがまま息子なのだ。
 <知覚>だけは、もしそれを遠ざけたいとき"身体"的な働きによらなくてはならないような意識表象である。これを現象学的な見方で言えば、わたしたちは、自分のうちに生じるさまざまな意識表象のうち、意識の自由にならず、その志向力の彼岸にあるようなものとして現われ出る意識対象を<知覚>と呼んでいる、と言ったほうがいい。つまり、これが<知覚>とは何かについての現象学的な"定義"なのである。
 さて、重要なのは、まさしくこの理由によってのみ、<知覚>は、「疑いえないもの」、「ほんとうのもの」という確信一般を人間に生じさせる「源泉」だと見なされるということだ。その理由は明らかだろう。
(55~56ページ)

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2009年6月29日 (月)

現象学入門

 『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)と『言語的思考へ 脱構築と現象学』(竹田青嗣著、径書房)は、非常に参考になった本です。この2冊を読んでから、自分自身の思考がかなりクリヤーになり、新たな問題に関して自分なりの視点を持てるようになりました。

 今、『現象学入門』を再び読み直しているところです。とてもわかりやすく説明してくれています。細かいところはだいぶ忘れてしまっていますね・・・数年前の本への書き込みを見ながら懐かしい気持ちになりました。

 ただ、いくつか違和感を感じる部分もあるので、それらの問題についても考えてみたいと思っています。

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 客観/主観と分離させることはナンセンスだ、と私も思います。そして、唯心論/唯物論、どちらが正しいとか議論することもナンセンスだと思います。

 結局のところ、本質・意味、客観・主観、世界の「本当の姿」、自由、偶然・必然、運命、これらすべて人間が頭の中で考え出した「観念」にしかすぎません。これらの観念を用いて世界を見ようとすることで、かえって人間の思考に混乱をもたらしています。

 それらの観念を一つ一つ検証していくことで、そのもつれた思考の糸をほぐしていけるのではと思います。

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 哲学といわれているものの中には、脳科学や生物学で解決できてしまうような、つまり「実証科学」の部分がかなり含まれていると思います。それら自然科学から目を背けながら、価値判断(これも哲学と呼ばれていますね)を混入することで、わざと結論を避けようとしているのでは・・・と思われるような文章を読んだこともあります。(何年も前のあいまいな記憶なのですが・・・すみません) 

 一方、生物学は、まだ思考が機能主義で止まっているような印象を受けます。生物学は、生物社会学や生物の行動の分析など、社会学との境界にあるような分野も含んでいます。そこでは、誤った観念の使い方をよく見かけます(このブログでも採り上げていますが)。

 このあたりの混乱を私なりに整理できれば・・・と思っています。

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2009年6月28日 (日)

『レヴィ=ストロース 構造』その6

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)、やっと最後まで読み終わりました。

 神話論はすごいですね。壮大なパズルを解いているようです。様々な知識がなければ解くことができないでしょう。アメリカ大陸以外の神話、昔話ではどうなのでしょうね・・・? 日本の昔話にも、何がいいたいのかよくわからない部分がけっこうありますね。

 ただ、これらの分析が本当に正しいと言えるのかどうにも確かめようがありません。また、神話には作者がない、とも言い切れないと思います。要するにわからないのだと思います(作者が複数の人たちである可能性もありますね)。その神話がどのように形成され、どのように伝承されていったのか、その神話が出始めた頃にタイムトリップ(?)して調べ上げれば(いわゆる『構造人類学』にも書いてある「詳細な歴史」がわかれば)謎がかなりの程度解けるかもしれません。しかしそれはもう無理な話です。

 レヴィ=ストロースがしているような、神話が無意識のうちに何を伝えようとしているのか、という分析については、分析が特に「意識されぬもの」の領域であるほど、その客観的な説明が困難にならざるをえないでしょう。結局、検証する術のない「仮説」であるため、共感する、しない、で評価が分かれざるをえない、と言えるでしょう。実際、この本にも共感、という言葉が出てきます。

 「こうしたレヴィ=ストロースの論旨の展開を共感をもってたどれるか、あるいは索強付会として距離を置くかによってその評価は大きく分かれるであろう。」(265ページ)
 「構造分析の感受性」(13ページ)
 「こうした構造分析の小手調べにも、意表を衝いた発見があることを認め、共感できるかどうか、という点が構造主義への感受性の評価の分かれ目のひとつとなるだろう。」(16ページ)

 また、複数の神話の中に、共通点や、あるいは対になる要素を感じ取れるのは事実でしょう。しかし、それが何を意味しているのかを判断する際、どうしても分析者の価値判断が紛れ込んでしまいがちです。

 社会科学では、仮説と証明された理論、客観的判断と価値判断との混同が生じやすいと思います。そのあたりが社会科学で感じる「あやしさ」なのでしょう。

 レヴィ=ストロースの理論については『構造人類学』を読んで、さらに考えてみたいです。まだ第一章を読んでいるところですが、レヴィ=ストロースの問題意識については共感するものが多いです。これらの問題にどのように立ち向かっていったのか、見てみたいと思います。

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2009年6月17日 (水)

『レヴィ=ストロース 構造』その5

『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)の第五章「幻想から思考へ」まで読みました。とりあえず感じたことを書いてみますが、最後まで読んでからまたきちんと考えたいです。

●レヴィ=ストロースは、機能主義を批判していますが、レヴィ=ストロースの説明のとおりならば、確かに当たっているかなぁ、と思いました。
 すべてのことが関係しあっていることと、すべてのことが機能で説明できることとは違うと思います。
 機能主義は、人間のすべての行為を、包括適応度で説明しようとすることと似ていると感じました。

●「種としての個体」という概念は、どのようにも説明できそうな、恣意性のようなものをどうしても感じてしまいますが・・・もっと理解が進んでから、またコメントしたいです。
 ただ、人間が自然から思考の体系を築き上げる、というのは「野生の思考」に限ったことではなく、科学的な思考においても、最終的には客観性を支えるものは、この世界・自然という人間にはどうしようもない、すでにあるものとして受け入れざるをえない事実・現実であると思います。
(やや理解がずれているかもしれないので、もう少し考えてみたいと思います。)

●「伝統社会における自然認識、そして生命形態の多様性の認識が、最先端の「科学的」分類にもけして劣らない首尾一貫した精緻なものでありうることを明らかにした。たとえばフィリピンに住むある集団は、1625種類の植物を区別するが、それは植物学上は650属約1100種に対応するという。」(216ページ)
・・・とあるように、複雑な知識を持っているのは、先進(?)社会というか工業国(?うまい表現がみつかりません)のみではないと思います。
 ただ、「そこでは人間に対して腹を立てた動物は病気を送り込み、人間の見方である植物が薬を供給して応戦すると解釈され、「胃病と足の痛みは蛇、赤痢はスカンク、鼻血はリス」等々・・・のせいにされる。」(228ページ、アメリカ合衆国南東部のインディアンの事例)のような、理論をどう思うか、ということなのですが・・・
 理論や知識が精密であることと、それが本当に正しいと思えるのか、ということとは別であると思います。確かに現代社会においても、根拠のなさそうな、本当に正しいのか疑わしいことを根幹にして精緻な理論を積み立てている思考形態が、あちこちにあるような気はしますが・・・

 レヴィ=ストロースに関しては、いろいろ考えるヒントというか、気になるフレーズもあちこちに見つけています。そのうち、それらをうまくつないで説明できればなぁと思っています。 
 ちなみに、タイトルについてですが、検証する術のない暗号解読という記事が、「『レヴィ=ストロース 構造』その4」にあたります。

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2009年6月12日 (金)

検証する術のない暗号解読

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)の第四章「神話と詩のあいだに」まで読みました。少しづつではありますが、だんだんと理解できるようにはなってきました。

 理論の客観性をもたらすものは、この現実世界です。理論をこの世界と照らし合わせ、適合するのか、あるいはどの程度適合するのか、ということを見極めることで、その理論が正しいか(あるいはどの程度正しいのか)を明らかにすることができます。

 自然科学においては、理論が実証(つまり現実世界でそれが再現あるいは観察できる)されてはじめて正しいと判断されます。経済理論は、現実の経済がそのように動くことを見極めたうえで、正しかったかどうか判断するでしょう。
 ちょっと違う分野になりますが、昔の文字の解読はどうでしょうか・・・? まずは、仮説として一定の文法を当てはめ、それぞれの文字の意味を推測し、それらがちゃんとしていた文章になっているとしたら、かなり信憑性の高い仮説であると認められるでしょう。そして、関連する遺跡やその他現存している遺品、その他の文献などを調べることで、ある程度はその解読法が本当に正しかったかどうか検証することが可能でしょう。
 学問とは違いますが、たとえば軍事的な暗号解読では、暗号を読み取って敵の作戦を正確に当てることができれば、その暗号解読が正しかったと判断できると思います。

 レヴィ=ストロースの構造についてですが、確かに、人間の知らないところで、いつの間にかいろいろな構造、相互関係が形成されていることは珍しくないと思われます。書いたもの、話したものについても、書き手・話し手が伝えようとした内容以外のものが、読み手・聞き手に伝わってしまう、そんなことも日常茶飯事だと思います。

 レヴィ=ストロースの神話論は、神話の暗号解読のようにも思えます。それぞれの文章、文節を取り出し、それぞれを意味づけして、並べ分析することは可能でしょう。
 ただ、その取り出し方に恣意性がなかったか、そしてそこから取り出した構造は、本当にレヴィ=ストロースの考えたようなものであったのか、それを検証する術はあるのでしょうか・・・?
 ここまで読んだかんじでは、あくまでそれはレヴィ=ストロースの感性に任されているような気がします。そして、それを他の人が正しいと思うかどうか、それもその人たちの共感力(?)にゆだねられているような気がします。

 レヴィ=ストロースの神話論は、なんだか、検証する術のない暗号解読のようです。

 だからといって、それが間違いだ、と断言しているのではありません。ひょっとしたら正しいのかもしれません。ただ、それを判断する方法はあるのでしょうか・・・?

****************

 例えば、私たちが「良いお天気ですね」と挨拶するとき、必ずしも天気の話をしたいと思っているとは限らないと思います。会話の内容ではなく、会話する、挨拶することで関係を確かめる意味合いもあるでしょう(あるいは人によってはさらに別の意味合いがあるかもしれませんが)。

 このような場合、

『「良いお天気ですね」と挨拶するとき、必ずしも天気の話がしたいわけではなく、関係を確かめるためにそう挨拶していることもある。』

 という仮説、というか、より一般的な表現にすれば

「話す内容以外に意味されるものがある」

という理論をつくったとします。これを、客観的に実証する術はあるのでしょうか?

 このような仮説は、それを知った人が、「なるほどそういう面もあるかもしれない」と共感する人が多ければ真理として認識されやすく、共感する人が少なければ正しくないと思われるような気がします。

 自然科学や一部の社会科学のように、現実世界の現象と突き合わせて、証拠を提示することが難しそうです。日常会話の場合は、完全には無理でしょうがある程度はインタビューや調査票などで話の受け手がどのように感じたか、ということを把握することは可能でしょう。しかし、神話のように話し手だけではなく、聞き手もその意味を掴みかねているような場合は、さらに検証が難しくなると思います。

 このように、仮説の検証において、客観的な証拠を提示できる場合と、人々の共感に依存している場合とがあると思います。後者の場合、科学と呼んでよいのかどうか・・・あくまで定義の問題でしょうが・・・あるいは脳科学やその他技術が進めば証拠を提示することができるようになるのかもしれませんが。

 後者(仮説の検証が、人々の共感に依存している場合)について、もう少し考えをまとめていきたいです。

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2009年6月 9日 (火)

『レヴィ=ストロース 構造』その3

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)は、今第四章を読んでいるところです。
 第三章「旅の終わり」まで読んでみて、この思考の方向性は結局、生物学や脳科学に行きつくのかなぁ、という印象を持ちました。

 レヴィ=ストロースの説明は、普遍的な構造(どの程度普遍的かどうかはわかりませんが)というものがある、というところまでは説明していますが、なぜそうなったのか、というところまでは証明されているわけではない、と感じました。その後の説明は、様々な思想が入り込んでいて、科学的と言えるのかどうか疑問です(これについては、最後まで読んでみてからまた考えたいです)。

 結局のところ、普遍的構造とは、生物としての人間の共通性のことでもあると思います。前にも書きましたが、「無意識の構造」とは(脳を含めた)人間の体の構造のことでもあると思います。第二章(107ページ)では、インセストの禁止の原因について生物学的説明を否定していますが、生物学的側面といいつつ、遺伝学のみからしか説明されていないのは、やはりおかしいと思います。
 いろいろなものが「無意識」ということで一からげにされてしまい、何か特殊なもののように扱われているようにも感じられます。

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 今ある社会は、生物としての人間が持つ普遍的なもの、そしてそれぞれの人々(ひょっとしてその地域の人々)の持つ特殊な性質、そして人々が住む自然環境、さらには周囲に住む人々との関係、それらがすべてからみあって、できているのだと思います。

 共通項を見つけて、人間はすべて一緒だ、ということもできるし、違いを探して、それぞれが違うんだと言うこともできます。

 また、普遍的な構造があったとしても、それは合理的、非合理的とは別の次元の話だと思います。

 今、この世界に生きている人たちは、どんな生き方をたどってきたのかにかかわらず、なんとか生きて今にいたっています。豊かであろうと貧しかろうと、とにかく生き延びて現在に至っています。
 それゆえに、視点を変えさえすれば、世界中のどこの民族も、それぞれ「合理的」に生きている、と説明はいくらでもできると思います。あるいは、死に絶えてしまった人たち、あるいは民族(たとえばの話ですが)にさえ、視点によっては、ある論理のもとでは合理的なのだ、と説明することが可能でしょう。
 つまり、その「視点」をどこにおいているのか、ということを明確に認識することが大事なのだと思います。観察者・分析者の「視点」をぼかして説明したところで、結局何の証明にもならないでしょう。

 「歴史の主体とは何か」とか、「主体を抜き去る」とか、「主体」という言葉にまつわるものが、言葉の遊びのように思えてしまうのです。

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2009年5月24日 (日)

『レヴィ=ストロース 構造』その2

 『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)は、ときどき、気が向いたときに、進んだり戻ったりしながら読んでいます。第三章の途中だったのですが、再び第二章に戻ってみました。

 第二章「声とインセスト」ですが、なかなかしっくりと来ないというか、すっきりと理解ができません。いくつか疑問点を挙げてみます。

1.無意識とは?

 ヤコブソンの「弁別特性」ですが、これは本当に人間の無意識の産物、と言ってしまってよいのでしょうか?

 たとえば、開/閉、前方/後方、円唇化/非円唇化、などと分類できる母音、あるいは破裂音であるpとbが「無声」「有声」と対をなしているとか、これらのことは、人間の意識・無意識、というよりは、人間の体(とくに発声に関する部分)の構造によるものなのではないか、ということです。人間の体の構造により、おのずから発声できる声・音の種類は限られてきます。

 一方、たしかに文法についていえば、単に体の構造というよりは、脳の構造といった方が良いのかもしれません。無意識の構造、という言い方もそんなに外れていないような気もします。

 このように、無意識の構造といっても、人体の構造に規定されているものから、脳あるいはその他のものに規定されているものなど、いろいろあると思います。それらを「無意識」とひとまとめにしてしまっても良いのかどうか・・・?
 
 いずれにせよ、言語というものは、生物としての人間の構造によっても規定されているものであり(もちろんその他さまざまな要因の影響もあるでしょう)、親族の構造についても、同じことが言えるのかもしれません。たとえば、ある程度は人間の生物的な性質の影響が厳密でない形で影響を及ぼしている可能性もあるのでは、ということです。(実際そのような要因があるというニュースを聞いたことがあるのですが、詳しいことについては知らないので、ここで述べるのは控えておきます)


2.いったい何を説明したいのか?

 「体系は自明だったが、機能は知られていない」という親族の構造について、

 親族関係の構造における、「精神構造」は
①規則としての規則の必然性
②自己と他者の対立を統合しうるもっとも直接的な形式としての互酬性の概念
③ある個人から別の個人への価値物の移転が、二人をパートナーに変え、価値物に新たな性質を与えるという贈与の総合的な性質

これらが、女性の授受をもたらす直接的要因としてつながりが明確に示されているようにも思えません。

 この第二章で読んだかぎりでは、レヴィ=ストロースの理論は、女性どうしを交換したら、このような社会構造になった、というところを説明していますが、それ以上のことは説明していないのでは、とも感じられます。
(当然、それはそれで立派な理論だとは思いますが)

 インセストを避けたいために他の婚姻クラスから女性を受け取るのか、身内以外の女性と結婚したいために、他の婚姻クラスから女性を探すのか、結果としては同じことでも、その理由というものは結局わからない、ということのようにも思えます。

 たとえば、規則としての規則、とか交換のための交換、というのは説明になっていません。それは、生物としての人間が規則を欲している、あるいは交換を欲する生き物なのである、という説明と同義であると思います。
つまり、人間の生物学的(?)な欲求、ということになってしまうような気がします。

 そのものの周囲にあるものとの因果関係を捨てて、そのもの自体・そのものの内部にある構造を見つけ、それをその存在意義にする、という論理構成自体に、無理があるのでは?という気もします。

 とりあえず途中経過です。まだ最後まで読んでいないし、誤解している部分もあるかもしれません。『構造人類学』も読んでおきたいです。

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2009年5月20日 (水)

一元的に説明できる理論への誘惑

 『社会科学の方法 -ヴェーバーとマルクス-』(大塚久雄著、岩波新書)は、学生だったときに読んだ記憶があります。内容については全く忘れてしまっていたのですが・・・先日、たまたま本屋で見つけたので、読み直してみました。

 大塚氏は、日本のマルキシズムの問題点についても触れられています。

 「日本のばあいには、明治以来いろんな思想や科学諸部門の研究成果がごちゃごちゃと一緒に入ってきたばかりでなく、文化統合の原理についても、宗教と科学をわかつ一線がまだ十分に明確に認識されないままのところへ、マルキシズムがそういう原理として、唯物論という一貫した理論をもちこんできたものですから、ひじょうに大きな衝撃を与えることになった。」
 「なかには、経済学さえやればいいのだ、あとはやらなくていいという人さえあるという話すら聞きます。経済さえわかっていれば、あとのことはみなわかるはずだ。」
(202~203ページ)

 念のために記しておきますが、この本は1960年代に書かれたものです。さすがに、現在では経済学さえやればいい、という人はほとんどいないとは思いますが・・・
 しかし、私の学生時代にも『資本論』をバイブルのように使う研究者を見かけたこともあります。講義では、労農派と講座派どちらか?とか言う先生もいらっしゃいました。私は労農派だとか・・・
(世界中の国々がみな同じ経過をたどって社会主義になるのだ、あるいはなるべきだ、と考えている人は今ではほとんどいないでしょうが)
 
 ただ、「文化統合の原理」というものが実際存在するのか、そもそも存在する必要があるのか・・・?
という疑問もあります。

 それにしても、なんでも一元的に説明できる理論・法則というものへの誘惑は大きなものなのだな、と感じます。

 人は、現在や未来について分析・予測する際、何らかの基準を持っていれば、より安心して生活できると思います。とくにある要因のみから一元的にこの世界を分析できるような理論があれば、確かにそれにすがりたくなる気持ちも出てくるでしょう。
 それは、宗教における神様に似ているようにも思えます。生産力で何でも説明できるかのような説明をする唯物論というかマルクス主義の理論(ただし、マルクス自身はそう言い切っていたわけでもなさそうです)、包括適応度の理論、唯脳論、etc.・・・

 なんでも単一の理論にあてはめて説明できれば便利ではありますが、あくまで理論というものは、社会をある一面から見る道具にしかすぎません。

*****************************

 
 『社会科学の方法 -ヴェーバーとマルクス-』については、下のような視点で読んでいました。

1.「疎外」について・・・疎外は経済活動以外においても起こりうるものではないのか、マルクス経済学では経済理論が科学となるための前提のように扱われているようであるが、本当にそうなのか?
(このあたりは資本論などを検証してみる必要がありそうです)

2.必然・偶然とは?・・・この世界は様々な要素が影響しあいながら動いています。その因果の複雑な網の目のうち、

人間がその因果をたどれた(と感じた)ものについては→必然
人間がその因果をたどれなかったものについては→偶然

と呼んでいるにすぎないのです。

 貨幣の必然性(25ページ)、偶然的な自由(29ページ)という言葉にちょっとひっかかったもので・・・

3.自由な意思について

 これはこのブログの3章で取り扱っている問題ですが、1の疎外の問題や2の必然・偶然の問題とも関連しているかもしれません。
 そもそも「自由」という言葉自体が人間の作り出した限定された概念にすぎません。人間の意志といえども、この世界の複雑な因果の網の目の外側に出るものではありません。

4.社会科学と自然科学について

 大塚氏によると、ヴェーバーも基本的には自然科学と社会科学と根本的に変わるところはない、と考えていたようです。ただ、社会科学の場合、人の意思決定が入り込むことで、手法もそれに合わせたものである必要がある、ということです(いわゆる理念型)。

5.文化統合の理論

 そういうものが成り立ちうるのか、あるいは本当に必要なのか?

 これらの視点について、後日、まとめてみようと思います。

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2009年5月16日 (土)

理念型とは?

 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)を読んでも、今一つしっくりこないので、『理解社会学のカテゴリー』(マックス・ウェーバー著、林道義訳、岩波書店)と、『社会学の根本概念』(マックス・ヴェーバー著、清水幾太郎訳、岩波書店)の前半部分を読みながら、さらに考えていたら、「理念型」について、だんだんとすっきり理解できるようになりました。

 理念型を作りだし、それに従って社会を見る方法は、人が日常的に行っているものの見方の一つであるように思われます。

 人が他人の行為を見る場合、

 まず、その人の置かれた状況により、どんな動機(欲望、欲求、目的)を持ちうるか想像します。すると、その動機に従えばどのような行為をとるべきか、ある程度は考えが浮かぶでしょう。

 そして、その人(他人)の実際の行為を見て実際にその予想通りだったら、合理的な行動だなと納得するでしょうし、もし違っていたら、なぜそんなことをするんだ?自分ならこうするのに、あるいは自分が想像していたのとは違う動機がその人にあったのかも?と疑問に思うでしょう。

 社会学研究においては、そのやり方を論理的により厳密化した上で行おう、そして人間の動機というものが分析の中に入り込んでいるこをと明確に認識しよう、ということでしょう。

 さらに、下の事柄について考えてみました。

1.(主観的)意味=動機=欲望=目的であること

 ヴェーバーの理念型に関する記述をわかりにくくしているのは、「意味」という言葉でしょう。主観的意味とか、意味連関とか、意味がある行為とかない行為とか・・・
 これらの「意味」という言葉を「動機」と書き換えてみると、非常にすっきりと理解ができると思います。

 『理解社会学のカテゴリー』の訳者の解説においては、

 「まず、「主観的意味」ということであるが、これをウェーバーはときにはMotivといい変えることもある。このMotivはやはり「動機」と訳さざるをえないと思うが、しかし日本語の「動機」とすると、一方ではわかりやすくなる反面、どうもいくたの誤解を生むもとになっているように思えてならない。私は本論文のように、あくまで「主観的意味」で押し通すべきだと考える。というのは、「主観的意味」というのは、単なる人間行動の「意図」とか「目的」とかいう意味の「動機」でもなければ、また単なる本能的衝動(食・性・原始宗教心・金銭欲など)という意味での「動機」でもない。そういうものも含むけれど、それとはやや感じのちがうものである。」(『理解社会学のカテゴリー』訳者解説の108ページより)

 また、ヴェーバー自身も、理念型をつくりあげる際の主観的意味(動機?)について述べるとき、心理学的な欲望のようなものとは違うと述べています。

 「たとえば「利益追求」というような範疇は「心理学」の中には存在しない。」(『理解社会学のカテゴリー』17ページ)

 このような言葉をそのまま理解しようとすると、いったい理念型の中の動機とは・・・?と頭が混乱してしまいます。
 私自身、考えてみて気づいたのは、結局のところ、これは分析者(=理念型をつくる人)自身の頭の中にある欲望・欲求のカテゴリーなのではないか、ということです。
 たとえば、人間の感情・情動の分類においては、現時点においても定説というものがないようです。研究者の視点によってさまざまな分類方法が併存しています。同じように、人間の欲望・欲求というものも、分析者の視点によって様々に分類が可能です。
 たとえば、本能的欲求・理性的な欲求、という分類も可能でしょうし、利益追及・理念追求・慣習追従、食欲・性欲・名誉欲・○○欲・・・など、あるいは心理学においては分析目的に応じてさらに細かい欲求の分類がなされていると思います。
 人が分析対象となる他人の行為の動機を推測する際には、必然的に、分析者の視点による動機・欲望のカテゴリーが準備されているのです(図1 理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その1)。

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図1 理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その1

 
 
 「利益追求」という範疇が心理学にないとヴェーバーが述べているとしても、それはあくまで心理的な欲求の一つのカテゴリーであるわけです。心理学の分析目的と視点が違うためにカテゴリーが異なっているにすぎません。

 そして、「意味」というものが、人間の欲望、欲求の反映であることは、すでに述べています(「意味とは? ~ 意味が生じるプロセス」の記事を参考にしてください)。

 このように、意味という言葉に惑わされなければ、かなりすっきりと理解ができるようになるのでは、と思います。

 
 そして、次にヴェーバーの言う社会学的手法と、心理学的手法との差異はあくまで相対的なものでしかない、ということを図2(理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その2)に示しました。

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図2(理念型における動機(=欲望・目的)の推測 その2

 ヴェーバー自身も、動機・意味が理解できる行動や、理解できない心的ないし生理的事実、その他の間は明確な境界によって分離できるものではないとは述べています。(『理解社会学のカテゴリー』26~27ページ)

 ただ、図2のように、学問としての社会学的手法と心理学的手法との間についても、同じように明確な境界はないのだ、ということを認識していたかどうかはわかりません。

2.どこを起点にして分析するのか

 この世界は、様々な要素がお互いに影響しあう、因果関係の網の目のようなものです。それは人間の心理についても言えることです。本能でさえ、何もないところから自動的に出てきたものではなく、様々な要因が重なり合った上で発生してくるものなのです。

 ヴェーバーは、人の意志は、それ以上さかのぼることのできない、そしてそれ以上説明不能なものである、と認識しているように思えます。しかし、人間の意識もその因果関係の網の目から抜け出ているものではありません。

 ですから、様々な要因が人間の心理に与える影響という研究自体も当然存在しうるし、実際存在しているわけです。
 ただ、利益追求、理念追求・・・といったような大雑把な欲求のカテゴリーを設定してしまった場合は、その心理に与える影響についての分析が非常に困難になる面もあるとは思います。
 人間の心理・意志がそれ以上さかのぼることのできない究極的なものだから分析ができないのではなく、その前提となる心理・意志・欲望のカテゴリーが大雑把である場合は、そのカテゴリーの中にさらに多様な欲求を含んでいるため、分析が困難にならざるをえない、ということであると思います。

 結局のところ、ヴェーバーの場合は、動機を起点にして人間の行為を分析したものを「社会学」と呼びましょう、ということであると思います(ヴェーバー自身がそう述べたかどうかは別にして)。

3.「客観性」の根拠についても、さらに考えてみたい

 結局のところ、すべての科学における「客観性」の根拠は、現実社会・現実世界(宇宙全体含む)です。すべての理論は現実世界と比較された上で、正しい・間違いと検証されていきます。
 ただ、その現実世界の認識、正しい・間違いという認識を行う際、どうしても人間の生物的な限界というものが出てきます。
 そのあたりは、竹田青嗣さんの『現象学入門』あたりもヒントにして、別の機会に述べてみたいと思います。

※ 本により、「ヴェーバー」だったり「ウェーバー」だったりするのですが、引用部分は統一せずにそのままにしておきました。

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2009年4月30日 (木)

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(その2)

 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)の後半部分を久し振りに読んでみました。

 次の二点について感じたことを書いてみます。

1.「法則」と「因果関係」との違いとは?

 マックス・ヴェーバーのこの著書においても、その違いについて明確に述べられているわけではありません。

ただ、文脈から見て、

法則・・・(実在から抽出され)さらに法則から実在が演繹できるような理論
因果関係・・・一度きりの出来事

という意味合いで書き分けられているように思われます。しかし、この世界の因果関係が、上のように二分できるようには思えません。

 それについては、このブログの法則とは何か?という記事でも述べています(下の図でも少し触れています)。法則と因果関係との違いはあくまで相対的なものです。ヴェーバーの著書の中ではその違いはあまり意識されていないように感じます。

2.常に理念型が必要とは限らないのでは?

 分析対象といっても、思考の中で完成された一種のユートピア社会(?)としての理念型を適用するような社会組織から、その社会組織の一要素まで、その範囲は様々であると考えられます。

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 図(左の画像です)にも示してありますが、社会(実存世界)の小さな構成要素が分析の対象となる場合、分析者の視点による概念形成の差異がより少なくなると思われます。

 自然科学と社会科学との違いについても、実は、上の図に示されているような相対的なものでしかありません。
 たとえば、ある分子と分子との反応によって、別の分子ができる、という因果関係は、その反応にかかわる要素が限られたものであるため、分析者の視点による違いが出にくいと思われます(図1)。
 一方、ある社会組織と社会組織との関係、あるいは、ひとつの社会形態が、ある要因によって別の社会形態に変化する、といった分析の場合、分析対象となる社会が、様々な要素を含んでいるものであり、分析者の視点によって、その社会の定義、範囲その他、様々に変化する可能性があります(図2)。

 図1と図2の分析は、明確に二分できるものではなく、あくまで程度の問題であると考えられます。

 私が大学にいた頃は、社会科学は自然科学とは質的に違うんだ、としばしば教えられたものです。確かに、実際の分析手順に関しては違いがあるのですが、その違いとは、実はあくまで相対的なものでしかない、程度の違いでしかない、ということです。

 また逆に、たとえば

2H2 + O2 → 2H2O

という化学式や、他の数式モデルを、「理念型」と呼ぶことも可能かもしれません。モデル仮説(=理念型)を思考の中で作りあげ、現実(実存世界)と照らし合わせ検証しているわけです。

(※『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、その1の記事はこちらです。)

※ 追記(2009年5月24日)

 理念型とは、ヴェーバーの定義ではあくまで人間の動機・意志を起点にした「動機→手段・行為→結果」のモデルであるため、本当は単なる化学式などを理念型と呼ぶのは正しくないようです。

 「理念型とは?」の記事はこちらをご覧ください

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2007年2月11日 (日)

『レヴィ=ストロース 構造』

 今、『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)をゆっくりと読んでいるところです。レヴィ=ストロースに関しては、なかなかピンと来なかったのですが、先日この本のさわりをなにげなく見てみたら、ちょっとひっかかる部分があったので、時間をかけてゆっくり読んでみようと思いました。

 「解剖台の上のミシンと洋傘の偶然の出会い」(画家マックス・エルンストの言葉)、というフレーズについて、レヴィ=ストロースは「決して偶然のものではなく、秘かな意味作用の総体を覆い隠して」おり、二つのものの出会いがけっして偶然のものではないとして、言語学的、意味的な面から分析しています。

「フランス語のミシンmachine a coudreと洋傘parapluieは単語の組成の点で微妙な対をなしている。というのも後者の洋傘という単語はpar a pluieという三つの要素に分解され、その点でミシンと対比できるようにも思える。ところが実際には後者はpara(~を防ぐという意味の形態素)とpluie(雨)の二つの要素からなっているのであり、外見上の対比にはずれが組み込まれている。」(15ページ)
「この短い語句のなかには内的/外的、硬質/流体、貫かれるもの/貫くものといったいくつもの対比が隠されているという。物体としてもイメージの要素においても、ばらばらに解体しうるミシンと傘が、本来、解体作業のためのものである解剖台の上で出会うことで、暗黙の対比をつうじてたがいに他を変形した比喩に変貌する。そこにこの一節の人の心を騒がせる詩的な秘密がある。」(15ページ)

 構造分析の感受性への評価の分かれ目として、著者は、「意外な対比とされるもの自体に価値を認めるかという点と、そのような対比が「秘かな意味作用」すなわち意識されぬものの領域に関わるという視点を認めるか、という二つの論点」(16ページ)をあげています。

 私自身どう感じたかというと、レヴィ=ストロースの分析は、想像→共感、の領域の話であるように思われます(実際、社会科学の多くの部分はそうなのかもしれませんが)。もちろん脳の働きのかなりの部分は意識されていないものです。意識しない部分で感じている要素というものは当然あると思います。ただ、上に述べられているような要因もありうるかな、と感じられる一方で、本当にそれが正しい解答だ、と確信を持てるわけでもありません。レヴィ=ストロースのような分析手法について、正しいのかどうか検証する方法があるのかどうか、「科学として」検証する方法があるのかどうか、これから読み進めながら考えてみたいと思います(ひょっとしたら脳のニューロンなどの分析で可能かもしれませんが)。
 あと、「偶然」という概念をよく検証して使うべきでしょう(偶然という概念について私が書いた「ランダムとは?」という記事を参照ください)。余計なお世話かもしれませんが、科学に関する文献で、「偶然」「ランダム」という言葉があまりに適当に、あるいは都合よく使われているのでいらいらすることがあるのです。

 次に、自我についてですが、レヴィ=ストロースは、

 「私の著作は、私の知らぬまに私のなかで考え出されているのです。私は以前から現在に至るまで、自分の人格的アイデンティティ(同一性)の実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、「私が」どうするとか「私を」こうするとかいうことはありません。私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受身の性質のもので何かがそこでおこるだけです」(18ページ)。

 「私の考えでは、人間に人格的アイデンティティを押し付けているのは社会」(19ページ)

と述べています。

 この「ものごとのおこる交叉点」「まったく受身の性質のもの」ということに関しては、そのとおりだと私も思います(「自我・欲望・感情について」を読んでみてください)。ただ、自分自身というものは、身体(脳も含む)的に、いやおうなしに感じてしまうものだと思います。人間がこの地球上に自分一人しかいなかったとしても、この自分自身という感覚は、お腹がすいたとき、お腹がいたいとき、怖いとき、など何らかの感覚や感情を感じるときに、いやおうなしに受け取ってしまうものだと思います。それは社会が押し付けたものではありません。
 一方で、「私」「あなた」という観念付きで自分自身を感じることとは別の事柄であると思います(もちろんお互いに関連しあってはいますが)。それは、この世界における人間関係の中で生じてくるものだと思います。

 そして、「私の知らぬまに私のなかで考え出されている」ことは、私たちの脳の中で起こっている出来事です。私の存在なしには起こり得なかった、考え出されなかったことです。

 今は、ヤコブソンとの出会いの章(第二章 声とインセスト)を読んでいるところです。最後まで読んでゆっくり頭の中を整理したいです。私が感じる記号論に対する違和感などについてもうまくまとめられたらと思います。

 私はこのブログで、法則と単なる因果関係との違いは相対的なものでしかない、人間の都合で恣意的に区別されているにすぎない、という前提のもと(「法則とは何か?」という記事を参照ください)、人が法則というものを見つけ「理解した」「わかった」と感じながら、この世界を分析していく行為について検証しなおしてみようと思っています。

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2006年10月23日 (月)

「わかる」とはどういうことか-認識の脳科学

『「わかる」とはどういうことか-認識の脳科学』 山鳥重著、ちくま新書

 主な内容はだいたい下のとおりです。

・「わかる」「わからない」ということは、心のありよう、感情です。

・記憶・知識の網の目が既にあることが、「わからない」「わかる」と感じる前提条件です。既に自分が記憶している知識にはっきりと当てはまらないもの・現象に出会うと「わからない」と感じます。何か新しい問題に直面したとき、これは自分の頭におさまらないぞ、という感情・違和感が起きるのです。頭の中になんの記憶もなければ(そういうことは通常ありえませんが)、「わからない」「わかる」という感情も生まれません。

・知覚によって、現象(客観的世界の出来事)が五感に分解され、神経系で処理出来る部分だけをもう一度組み建て直し、意識化され、それが記憶されます(記憶心像)。心像とは、心の思い浮かべることのできるすべての現象・物事のことです。客観的事実ではありません。
 具体的な経験を積み重ねるなかで、個別の経験の記憶(出来事の記憶)が消し去られ、重なり合っている共通の部分だけが抜き出されて作り上げられてゆきます。そのほか、関係・状態変化の様子も心像化され、知識の網の目がつくられていきます。(それ以外にも、経験の繰り返しによって得られるいわゆる「体が覚えている」記憶や、遺伝子に組み込まれている記憶などについても書かれています)
 記憶心像と言語が結びつくことで、他の人とやり取りできるようになります。

・「わかった」と感じるときの論理の種類はだいたい下のとおりです。
1. 全体像がわかる:見当をつけること、扱っている問題を一度手元から話して、遠い距離から眺め、他の問題とのかかわりがどうなっているのかという大枠を知ること。
2. 分類・整理してわかる:なんらかの分類基準で目の前の現象を分類出来れば、現象が整理できるだけでなくて、心も整理されます。
3. 筋が通る、説明できる:時間的つながりの理解
4. 空間関係がわかる
5. 仕組みがわかる:現象の背後にあるからくりがわかる。
6. 規則に合えば「わかる」:たとえば数学。

 あまり上手にまとめられませんでしたが・・・興味のある方は読まれてみてはいかがでしょうか。わかりやすく書かれています。

※ 本書では、言葉が「わかる」ということに必須だと述べられているのですが、私が思うに、言葉がなくても「わかる」はあると思いました。
 たとえば、ある動物が草むらを歩いているとします。(がさっと物音がする)→(あれは何だ?)→(出てきたのは小さな動物)→(その正体が「わかって」安心)
 そういうときに、「あれは何だ?」とか「わかった」とか言語で表現はできなくとも、心配・安心といった感情が出てきていると思います。これも「わからない」「わかる」の一種だと思います。
 ただ、言語や記号を使用をするようになると、「わからない」「わかる」の種類が飛躍的に増える、ということだと思います。

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2006年10月21日 (土)

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

<追記:2009年6月3日>

この記事では、まだ「理念型」に対する理解が十分になされていません。理念型については、

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(その2) および

理念型とは?

の記事を参考にしてください。

(追記おわり、以下本文です)

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)は、かなり参考になった本なので、それについて書いてみようと思います。(この本に書いてあることをすべて網羅することはできませんが・・・)

 人が世界(=無限に多様な出来事のカオス)を見て、理解し、分析するときのものの見方について、この本を参考にしながら図示してみました。

Max01_1

 人は、世界を理解するときに、たえず意識的に・無意識的に概念の助けを借りています。 ただ、それらはあくまで人間が頭の中で構築した虚構、というか物差しでしかありません。
 問題は、そういった概念自体が実体とみなされ、それに適応していない人はおかしい、とか普通ではない、とか判断されてしまうことです。概念は、あくまで人間の頭でつくられているものにすぎないのです。
※ 「理念型」:たとえば「おこりっぽい人」「落ち着いた人」という単なる分類概念(本文では「類概念」と呼ばれています)を、より詳細で明確な分析のため、どういう場合にどういう行為を起こしたり感情を生じたりする人なのか、などといううふうにはっきりと定義していけば、「理念型」になります。概念を、分析の目的に従ってより明確に、論理的に定義したものが「理念型」であるといえます。モデルと言い換えればわかりやすいと思います。
 もちろん、理念型=実在ではありません。実際の人間は、怒りっぽい面もあるが、時の場合によって優しくなることもありますし、すべてがその概念に対応しているわけではありません。

 また、人が世界を見て分析しようとする場合、そこから実在の一部分を抽出する際に既に分析する人の目的意識が入り込んでいます。

"かれが素材と取り組みさいには、すでに無意識に価値理念を抱いており、かれは、これにより、絶対に無限な実在のなかから、僅少な一構成部分をまえもって取り出してしまった上で、もっぱらその考察だけを、自分にとって問題であるとしているのである。こうして、世界に起こる〔無限の〕出来事のなかから、個々の特定の「側面」が、つねに、またいたるところで、意識的ないし無意識的に選択されているのであるが・・・(95ページ)"

 この本では、科学的分析における「法則」というものの位置づけについてもしばしば述べられています。本文から抜粋して掲載してみます。上の図を見ながら読むと、少しは理解しやすくなると思いますが・・・

(91-92ページ)
科学研究の理想的目的は経験的なものを「法則」に還元することでなければならない、という意味で、文化事象を「客観的」に取り扱うことには意味がない、ということである。そうした取り扱いが無意味であるというのは、しばしば主張されてきたように、文化事象ないしは精神現象が、「客観的」に法則的に生気することがないからではなく、むしろ、(1)社会的諸法則の認識は、社会的実在の認識ではなく、むしろこの(社会的実在の認識という)目的のもとに、われわれの思考が用いるさまざまな補助手段のうちのひとつにすぎないからであり、また、(2)いかなる文化事象の認識も、つねに個性的な性質をそなえた生活の現実が、特定の個別的関係においてわれわれにたいしてもつ意義を基礎とする以外には、考えられないからである。ところが、いかなる意味で、また、いかなる関係において、そうである(生活の現実がわれわれにたいして意義をもつ)かは、どんな法則によっても、われわれに明らかにされない。というのも、それは、価値理念によって決定されるからであり、われわれは、個々のばあいに、そのつど、この価値理念のもとに「文化」を考察するのである。「文化」とは、世界に起こる、意味のない、無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義を与えられた有限の一片である。

(100ページ)
実在がなんらかの意味で最終的に編入され、総括されるような、ひとつの簡潔した概念体系を構築して、その上で、そこから実在をふたたび演繹できるようにする、というのが、いかに遠い将来のことであれ、文化科学の目標である、とする考えがあって、これが、われわれの専門専科に属する歴史家をさえ、いまだにときとして捕らえているのであるが、そうした思想には、まったく意味がないということ、これである。計りがたい生起の流れは、永遠に、かぎりなく転変を遂げていく。人間を動かす文化問題は、つねに新たに、異なった色彩を帯びて構成される。したがって、個性的なものの、つねに変わりなく無限な流れのなかから、われわれにとって意味と意義とを獲得するもの、すなわち「歴史的個体」となるもの、の範囲は、永遠に流動的である。歴史的個体が考察され、科学的に把握されるさいの思想連関が、変化するのである。

(解説:226ページ)
じっさいには、経済的考察にとって「偶然的な」契機もすべて<それぞれに固有の法則にしたがっている>のであり、それぞれに特有の意義を追求する考察方法にとっては、そのときどきの経済的「条件」も、逆のばあいとまったく同様、「歴史的に偶然」なのである。

 私が、事実関係と、自らの欲望とを混同しないことの記事で書いたことと関連する内容もあります。引用してみます。

(92-93ページ)
人間が、ある具体的な文化を仇敵と見て対峙し、「自然への回帰」を要求するばあいでも、それは、当の人間にとって、やはり文化であることに変わりはない。けだし、かれがこの立場決定に到達するのも、もっぱら、当の具体的文化を、かれの価値理念に関係づけ、「軽佻浮薄にすぎる」と判断するからである。

(131ページ)
相対主義を仕込まれている現代の歴史家は、かれとは反対に、自分が語っている時代を、一方では「それ自体から理解し」、他方では、やはりどうしても当の時代にたいする「価値判断をくだ」そうとするので、自分の判断の基準を「素材」から取り出そうとする欲求、すなわち、理想の意味における「理念」を「理念型」の意味における「理念」から引き出そうとする欲求を抱く。

(145ページ)
歴史的概念の「本来の」「真の」意味を確定しようとする試みは、つねに繰り返されているが、けっして完結しない。

(41ページ)
世界に起こる出来事が、いかに完全に研究され尽くしても、そこからその出来事の意味を読み取ることはできず、かえって、〔われわれ自身が〕意味そのものを創造することができなければならない。

 <最後に一言>
「法則」はあくまで私たちが物事を理解する上での道具にしかすぎず、決してそれは私たちが生きる上での価値理念・価値基準にはなりません。

 先日、ランダムとは?ということで、ランダム・偶然という概念に対する疑問について書いたのですが、同様に、「法則」ということについても、もうちょっと詳しく書いてみようと思います。「法則」と単なる「因果関係」との境界のあいまいさのため、「法則」という言葉が都合よく解釈され使われているような気がしています。この本にもそういった部分の迷いのようなものが垣間見られる(気のせい?)ので、僕なりにこの問題について考えてみたいと思います。

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2006年10月12日 (木)

参考になった文献

私の考えをまとめていく際に、非常に参考になった本を紹介します。

『言語的思考へ 脱構築と現象学』(竹田青嗣著、径書房)
・・・欲望→意味の経路(欲望が意味をつくり出す)について、はっきりと認識させてくれた本でした。

『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)
・・・「わたしたちは誰でも何らかの直観を持っている。そしてこれをさらに考えようとするとき、ほとんどの場合人は、自分の直観を補強するような仕方で考えるが、自分の直観の根拠を確かめるような仕方では考えないのである」という指摘が非常に参考になりました。

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)
・・・「あるもの」(存在)の認識と「あるべきもの」(当為)との認識との区別、人が社会を見て理解・分析する方法、本質について、その他いろいろと参考になりました。

『やわらかな遺伝子』(マット・リドレー著、中村桂子・斉藤隆央訳、紀伊国屋書店)
・・・『利己的な遺伝子』(リチャードドーキンス著、日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳、紀伊国屋書店)を読んだあとにこの本を読むと良いかもしれません。

『進化と人間行動』(長谷川寿一・長谷川眞理子著、東京大学出版会)
・・・「私たちが空を飛べないのは生物学的事実ですが、だからと言って、私たちは空を飛んではいけないという判断が自動的に導かれるわけではありません」(11ページ)、「現状がなぜそうなっているかの科学的説明を与えることは、そのままでよいのだという価値判断とは別の作業です」(17ページ)ときちんと書いてある良心的な本だと思いました。

『文化と感情の心理生態学』(荘厳舜哉著、金子書房)
・・・(人間の)「環境適応を増加させる目標は同一」(17ページ)、「文化も遺伝子もその最終目的は個体の包括適応度の増加であることには間違いはない」(20ページ)という指摘には疑問を感じますが・・・情動と大脳辺縁系との関係など、参考になりました。

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