とくに、ここ2年くらいは本をまともに読めない時期が続きました。活字が意識を上すべりしてしまい、頭の中になかなか入りませんでした。本を開くことさえ苦痛に思えるようになっていました。仕事上で必要なことがある場合のみ、なんとか部分的に読む、といったかんじでした。
先月のことですが・・・やっぱり仕事上必要だろう、ということで松田権六さんの『うるしの話』を読むことにしたのですが、ちょっとづつ進むにつれ、だんだんと、本を読むという感覚が戻ってきました。松田さんのお陰です・・・
今は、頭のリハビリも兼ねて、本を読むようにしています。
人間の意識と、法則との関連について考えながら、渡辺公三さんの『レヴィ=ストロース 構造』を再び読み始めました。いろいろと突っ込みどころがあるような気がしますが、よく頭の中を整理してから何かしら書いてみたい、と思っています。レヴィ=ストロースの著書は、お恥ずかしながら『悲しき熱帯』しか読んだことがありません。先日『構造人類学』のさわりを読むことができました。ちょっと興味深い文章などを見つけました。そのうち読み進めてみたいです。
数年前に読んだ岩井克人さんの『貨幣論』(ちくま学芸文庫)も読み直しています。その数年前に残したメモがあります。
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岩井克人さんの『貨幣論』(ちくま学芸文庫)を2章まで読んだところだ。
「「歴史の偶然」「歴史の事実性」としかいいようのない無根拠な出来事であり、まさにひとつの「奇跡」にほかならない。」(105ページ)
というところで、気になったのが、
単一の理論に還元できないことは、「無根拠」であるということとは違う、ということ。
偶然起こったことは、無根拠なのではない。
奇跡も無根拠に起こったのではない。
何が貨幣に選ばれるのか、そのプロセスは単一の理論で説明できるわけではない。
人為的な貨幣を政府がつくりだして、それがうまく流通するようになった場合もあろうし、
金や銀の人の心をひきつける性質や、その鋳造のやりやすさから、なりゆきで金銀が貨幣になったこともあろう。
家畜が、多くの人が持っている財産で、多くの人に必要とされているものだったから、それが貨幣のような役割を果たすようになったこともあろう。
(中略)
・・・この世界のルールの根拠を、モノや観念だけから推測しようとすれば、結局循環論法っぽくなるか、無根拠だ、というしかなくなる。
それらを支えているのは、そうあってほしい、と願う、あるいは欲する人間そのものだ。
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また、「貨幣商品説的に合理化された歴史も貨幣法制的に合理化された歴史も、それぞれ数ある可能な歴史の道筋のひとつにすぎず、先見的にはなんらの必然性ももってはいない」
という表現も気になります。必然性・・・?
『貨幣論』についての私の見解もまとめていきたいし、史的唯物論の問題点(唯物論と唯心論と分けること自体ナンセンスだと思います)、物事を一元的に説明したがる人間の気持ち、そういったものについても考えているところです。
あと・・・このブログの第2章「意味とは」の後半部分を大幅に修正したいと思っていたのですが、だいたいの方向性はまとまってきました。「現象の背後にある意図を推測する」を削除しようかどうか考えているところです。
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