2009年8月 7日 (金)

近況

昨日はとても強い雨が降りました。今日はわりあい天気がよかったです。予報では雨のようでしたが・・・

夏は仕事場も暑くてしんどいです・・・でも夏のがんばりが秋~冬につながるので、がんばりどころです。

竹田青嗣さんの別の本を読んでいたのですが、今中断しています。お盆にじっくり、いろいろと考える時間がとれればいいな、と思いますが・・・

先日いただいたコメントの回答については、少々お待ちください。すみません。よく読んでから返事します。興味深い内容ですね。

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2009年7月23日 (木)

考え中・・・(目的論と因果関係について)

 今、目的論と因果関係について、考えながらいろいろと書いている最中です。

 マックス・ヴェーバーの「理念型」は、大塚久雄さんによると、「目的論的関連の因果関連への組みかえ」(『社会科学の方法 -ヴェーバーとマルクス-』大塚久雄著、岩波新書、60ページ)である、ということです。そして、それが理念型理解のもっとも大事な部分でもあります。一応、言いたいことは、表面的には理解できます。しかし、どうも納得いかない部分もあります。

 『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)でもそうですが、人の意識(欲望?)に関しては目的論的関連しかなく、因果関係はモノか身体(?)に関するもの、と分けてしまっています。そして、人の欲望はそれ以上は因果関係で説明されないもの、とされています。これは、マックス・ヴェーバーの著作においても同じです。

 私はこの部分にとても違和感を感じています。目的論、というものは、人間の欲望から抽出された概念であると思います。精神→目的論、身体・モノ→因果関係、という図式は誤解、あるいは錯覚ではないか、と感じています。

 そのあたりを、きちんとまとめておきたいと思います。目的論とは何なのか・・・?

 『現象学入門』には、次のような記述もあります。

 第三は、これと関係するが、原存在の<気遣い>は、動物的な生理的、本能的欲求とは違って、必ず何らかの"意味"へ向けられているという点である。
(192ページ)

「意味」への欲求(欲望)とは何でしょうか? これは、「意味」という言葉についてきちんと吟味せずに「意味」という言葉を用いたことによる、間違った概念の使い方なのではないか、「意味」への欲望(仮にこう呼んでおきます)とは、矛盾した言葉の使い方になってしまっていないか、と感じています。(この「意味」という言葉に関する混乱は、ヴェーバーにもあるのでは、と感じます)

 人の欲望、欲求は、動物的であろうと本能的であろうと、理性的であろうと、なんらかの「対象」に向けられているものです。それが「モノ」であろうと、「目に見えないもの」であろうと、とにかく対象なくしては欲望もありません。そして「意味」にむけられた欲望とは、いったい何のことなのでしょうか・・・?

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2009年7月21日 (火)

自由について、共感について

 このブログの第三章と第四章をなんとか完成したいと思うのですが、まだ考え中の部分がたくさんあって、まとめきれません。記事の内容の連続性については一旦あきらめて、わかるところ、気づいたところから少しづつ書いてみようかな、とも考えています(第四章は実際そのようになりつつありますが・・・)。

 第三章については、まずは自由意思について考えているところです。人の意思は自由だと考えている人は多いと思いますが、「自由」という言葉について検証した上で考えている人はあまりいないのでは、と思います。

 私の思考方法のひとつは、「○○は何か?」という問いに対して、「人はどういうときに何をもって○○と呼んでいるのか?」という問いに変換して考察するものです。目に見えるような実在物に関しては、このような説明をせずとも一目瞭然ではあるのですが、「意味」「自由」のような実在しない観念の場合に、この問いは非常に有効であると思います。

 それで、自由意思があるのか、ないのか、と問う前に、「人はどういうときに自由だと感じるのか」という問いについて考えてみようと思っています。第三章でこれまで書いてきた文章で述べているように、「私」という意識があり、そこから欲望が発せられているのではありません。欲望は勝手に出てくるものです。そして人は欲望が出てしまったあとに、それが自分の意思である、と感じるのです。感情もそうです。

 「私」がいて、「私」が「欲望」を発する、「感情」を持つ、のではありません。「欲望」があることを感じる、「感情」を持ったことを感じる、何か刺激を感じる、そのときに、はじめて「私」という存在を感じるのです。

 上に述べたことを前提として、人はどのようなときに自由だと感じるのか、そのことについて説明していこうと思います。

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 ちょっと前のことですが、テレビで、天敵のウニから逃げようとするヒトデの映像を見ました。ウニに気付いたヒトデは、まさに大慌てで、わたわたと、動きにくい体の動く限り一生懸命逃げようとしていました。

 その映像を見て、私はヒトデにも感情があるのでは、あのヒトデの慌てようはまさに人間みたいだったと感じました。

 でもヒトデには情動・感情を司る大脳辺縁系はありません。大脳辺縁系を持つ動物のような感情はないのだ、と理解はしています。

 でもやはり、あれは感情じゃないか、と感じてしまいます。共感というものは、人間ではなくても感じてしまうものです。あのヒトデみたいに動かれれば、ロボットにだって共感を感じてしまう可能性があります。場合によっては植物に共感することもあります。

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2009年5月 3日 (日)

修正したい箇所

 法則とは何か?の記事を、あらためて見なおしてみたのですが、少し修正した方がよさそうな気がしました。

 先日の記事の内容もとりいれながら、書き直したいと思っています。

 実験というものは、同じ環境を再現して行うわけですが、全く同じ環境、というのは実は不可能なことです。たとえば、酸素分子を使った実験を2度行ったとして、1度目と2度目に使われた酸素分子は同じものではありません。また、地球の位置、宇宙の配置、その他さまざまな環境が、1度目と2度目とでは異なっています。(ただ、その違いが実験結果に反映されることが少ないわけですが)

・・・何でこんなことを書いているのかというと、自然科学も社会科学もその違いは、あくまで相対的なものでしかない、ある境界線によってくっきりと二分できるものではない、ということが言いたかったわけです。

 ただ実際の分析において、再現性の程度によって手法が異なってくるのはやむを得ないわけですが・・・

再現性がほとんどないようなものについて、どのような分析が「科学」として成り立ちうるのか、

客観的な分析と、(ある人の想像→他の人たちからの共感)によって支持されている意見・理論(?)との違いはどのあたりにあるのか、

そのあたりをもう少し考えてみたいと思います。

 第2章後半も早く修正したいですね・・・

 第3章は、道徳についても書こうと思っていたのですが、この章はやっぱり、感情、本能(本能とは・・・?)、そして「自由」意志(「自由」という概念についてきちんと検証されているような気がしていません)について述べて終わりにしようと思いました。道徳関連は、第5章ですね・・・

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2009年4月11日 (土)

とりとめもなく・・・

今、いろいろと考えていることなのですが・・・

(その1)

包括適応度の評価をする場合、

1.評価の対象となる集団の範囲
2.包括適応度の変化を評価する期間

上の1と2を恣意的に変動させた事例を並列・比較して説明しても意味がないように思えます。
どうとでも説明できてしまう恐れがありそうです。

(その2)

『レヴィ=ストロース 構造』(現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社)を少しづつ呼んでいます。

印象として、
現実社会から観念を抽出する際に、どうしても恣意性を感じてしまうのです。
まだうまく説明できないのですが・・・とりあえず最後まで読んでみます。

(その3)

その2と関連するのかしてないのか微妙なところですが、

例えば、AとBという文字があります。

AとBとの共通性について考えた場合、
・AとBは同じアルファベットの文字だ
・どちらもエィ、ビィと少しだけ伸ばして発音する

・・・というふうに共通性を抽出することが可能です。この他にもいろいろと考えられるかもしれません。
この共通性から、AとBの同一性を強調し、AとBを同じカテゴリーに分類できるもとの見なしたり、
AとBはなぜ共通項を持つのか、といったかんじの問題提示をすることもできます。

一方で、

AとBの違いについて考えた場合、
・AとBは形が文字の形が全然違う
・Aはエィ、Bはビィ(破裂音?)、と違う発音である
・単語の中でAは母音としてBは子音として使われる

・・・というふうに違い・差異を強調することも可能です。
そしてAとBを違うカテゴリーとして分類することもできます。
AとBはなぜ違うのか、といった問題提示も可能でしょう。

少々たとえが悪かったかもしれませんが・・・

ここで言いたかったのは、視点の違いにより、同じモノ・現象等から、
共通点を抽出することもできるし、違い・差異を抽出することも可能だということです。

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2009年4月 7日 (火)

近況・・・

とくに、ここ2年くらいは本をまともに読めない時期が続きました。活字が意識を上すべりしてしまい、頭の中になかなか入りませんでした。本を開くことさえ苦痛に思えるようになっていました。仕事上で必要なことがある場合のみ、なんとか部分的に読む、といったかんじでした。

先月のことですが・・・やっぱり仕事上必要だろう、ということで松田権六さんの『うるしの話』を読むことにしたのですが、ちょっとづつ進むにつれ、だんだんと、本を読むという感覚が戻ってきました。松田さんのお陰です・・・

今は、頭のリハビリも兼ねて、本を読むようにしています。

人間の意識と、法則との関連について考えながら、渡辺公三さんの『レヴィ=ストロース 構造』を再び読み始めました。いろいろと突っ込みどころがあるような気がしますが、よく頭の中を整理してから何かしら書いてみたい、と思っています。レヴィ=ストロースの著書は、お恥ずかしながら『悲しき熱帯』しか読んだことがありません。先日『構造人類学』のさわりを読むことができました。ちょっと興味深い文章などを見つけました。そのうち読み進めてみたいです。

数年前に読んだ岩井克人さんの『貨幣論』(ちくま学芸文庫)も読み直しています。その数年前に残したメモがあります。

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岩井克人さんの『貨幣論』(ちくま学芸文庫)を2章まで読んだところだ。

「「歴史の偶然」「歴史の事実性」としかいいようのない無根拠な出来事であり、まさにひとつの「奇跡」にほかならない。」(105ページ)
というところで、気になったのが、
単一の理論に還元できないことは、「無根拠」であるということとは違う、ということ。
偶然起こったことは、無根拠なのではない。
奇跡も無根拠に起こったのではない。

何が貨幣に選ばれるのか、そのプロセスは単一の理論で説明できるわけではない。

人為的な貨幣を政府がつくりだして、それがうまく流通するようになった場合もあろうし、
金や銀の人の心をひきつける性質や、その鋳造のやりやすさから、なりゆきで金銀が貨幣になったこともあろう。
家畜が、多くの人が持っている財産で、多くの人に必要とされているものだったから、それが貨幣のような役割を果たすようになったこともあろう。

(中略)

・・・この世界のルールの根拠を、モノや観念だけから推測しようとすれば、結局循環論法っぽくなるか、無根拠だ、というしかなくなる。
それらを支えているのは、そうあってほしい、と願う、あるいは欲する人間そのものだ。

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また、「貨幣商品説的に合理化された歴史も貨幣法制的に合理化された歴史も、それぞれ数ある可能な歴史の道筋のひとつにすぎず、先見的にはなんらの必然性ももってはいない」

という表現も気になります。必然性・・・?

『貨幣論』についての私の見解もまとめていきたいし、史的唯物論の問題点(唯物論と唯心論と分けること自体ナンセンスだと思います)、物事を一元的に説明したがる人間の気持ち、そういったものについても考えているところです。

あと・・・このブログの第2章「意味とは」の後半部分を大幅に修正したいと思っていたのですが、だいたいの方向性はまとまってきました。「現象の背後にある意図を推測する」を削除しようかどうか考えているところです。

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2009年1月 9日 (金)

考えていること・・・

最近、考えていることなのですが・・・

1.人間・生物の行動すべてを機能的に説明しようとするやり方への違和感

 生物の行動すべてを、何らかの目的に対応した機能として説明しようとするやり方に対する違和感です。生物学ではとくにそのような傾向が強いような気がします。
 このあたりを、上手く説明できないかなと思っています。

 様々な環境の中で、様々な行為をしながら、絶妙なバランスの中で、結果として私たち生物は生き残っています。
 結果として生き残っているのだから、そこからたどれば、当然一つ一つの行為が「生き残る」という結果を説明する変数の一つにはなりえます。しかし、それは結果が出ているから言えるわけで、結局、後付けの説明でしかありません。結果として生き残っていれば、その生物がしているあらゆる行為が、生き残るという目的に対応した行為と説明可能になってしまうのではないか・・・

 ・・・う~ん、このあたりのニュアンスを共有してくれる人がいれば良いのですが・・・
 とにかく、上手く説明できるように考えてみようと思います。

2.私たちの思考は、かなり脳にダマされているのではないか・・・

 脳があまりにも自動的に働きすぎるため、便利である一方で、いろいろなことがかえって見えなくなっている、あるいは勘違いをおかしてしまっている気がします。それらを一つ一つ検証してみたいです。

 これはあくまで想像にしかすぎませんが、人の意識というのは、行為・感覚の記憶が一つ一つ積み重なり、数えきれなくなっていく過程で、次第に感じられるようになってくるもののような気がします。
 私たち人間一人一人が、それぞれ持っている「自分」という感覚は、あくまで一つの錯覚、というかそれも脳にダマされているだけのような気がしているのです。
 まだ確証はないですが、これについては、暇なときに遊び半分で考えていこうと思います。別に解決したからといって幸せになるとかいう類の問題でもないので・・・

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2008年11月24日 (月)

生命がよく出来ているのか出来ていないのかなんて判断は人が勝手にしていること

最近は、仕事の方が忙しくてこちらのブログの方になかなか集中できないのですが・・・

まとまりのない文章でも、「日々雑感」のカテゴリーで書いてみたいなと思います。

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地球の生態系は、すごく上手く出来ているといわれますが、それは、単に見る人の感じ方次第でしょう。

たくさんの生物が生まれ、死んで行く。

小さな生き物が大きな生き物に食べられ、大きな生き物の生命を支えている。

それにしても、この地球は壮大な生命の浪費によって支えられていますね。

見方によっては非常に残酷なシステムです。

人は、生きていきたいのに死んでしまうように出来ています。

だけど永遠に生きたいか・・・?と問われれば、それも恐ろしくなりますね。

牛も豚も鶏もかわいいですが、肉になればおいしいですね。

バランスなんて、たまたまとれているだけです。

たまたま、という言葉自体にも検討は必要なのですが)

それぞれの生命が、環境に「最も適した」ように出来ているかどうか、というのも、人の見方次第で、本来、そんなことは決めようがありません。

脳の動きに、人の体がついていけてないのではないか?

脳と体のアンバランスがあるのではないか?

脳が欲していることが、体が欲していることと合致してないのではないか?

このブログでもとりあげているように、脳があまりに自動的に動きすぎるために、人の思考がしばられてしまい、論理的に間違った問いに悩まされてしまったり、いろいろとうまくいかないこともあります。

・・・ただ、こういった無秩序の中で、なんとか日々生きていけていることに、幸せを感じたりもしています。

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2007年10月 9日 (火)

近況

なかなかこちらのブログ更新まで手がまわらなかったのですが、そろそろ再開しようかなと考えています。

最近、ゆっくり本を読むことも少なくなってしまったのですが、頭の働きが衰えないように、読書も少しづつ進めていこうかな、とも思います。

今、第4章の、概念の設定、および概念間の因果関係についてちょっとだけ書いています。最終的には、人が様々な論理を立て、それが広く認められていくための根拠となる人間の感情と思考方法について検証したいと考えています。

第3章の自我・欲望・感情についても、まだ途中なので最後まで書いてしまいたいです。第3章は、情動・感情および共感という人間の能力にもとづいた、善悪・道徳の根拠について明らかにして終わりにする予定です。

第2章については、神様の概念について言及する場所を変えてみると、もっと論理がクリアーになるかなとも感じています。

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人間という生き物は、様々な動物の肉などを食べて生きています。焼肉を見ると食欲が湧きますし、お刺身を見るとおいしそうだと感じます。なのに、生きている動物を見るとかわいい、とかいとおしい(?)とかそういった感情、さらにときには共感の感情さえ持つことがあります。

このように人間は同時に実現できない・満たされない、相反する感情を有しています。肉を食べるのであれば、動物に共感する感情が人間になければどんなに気が楽になるか、と思いますが、でもそんな人間になりたくはない、という感情もあります。

これは一つの事例にすぎませんが、人間は、他にも矛盾しあう感情・欲望を常にたくさん抱えています。悩みが絶えないのは仕方ないことなのでしょう。

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2006年11月28日 (火)

新しいブログをつくりました

新しいブログをつくりました。
日常の記録や音楽、その他の趣味についてはこちらに掲載しようと思います。

工房Miyaのブログ
http://sky.ap.teacup.com/koubou-miya/

こちらのブログも、不定期ながら、地道に更新していく予定です。

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2006年11月 9日 (木)

栗野

仕事のあいまに、栗野町(現鹿児島県湧水町)に行ってきました。
Kurino03Kurino04
栗野の美術館は、とても景色が良くて、ゆったりするのにはもってこいです。


栗野駅周辺にて。ほのぼのします。
Kurino01_1Kurino02_1







駅前は再開発中で、工事していました。

Kurino05







栗野駅の裏には、きれいな池があります。
栗野に行かれた方は、水路に沿って散歩してみてはいかがでしょうか。

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2006年11月 4日 (土)

三代目

Yasai01 一昨年からベランダで育てているイタリアンパセリも、今三代目が大きくなっているところです。実家に帰っている間に急に育ってしまったので、あわてて間引きをしました。

 このパセリを使って、今日の昼ごはんはペペロンチーノ(みたいなスパゲティ)にしました。

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2006年11月 1日 (水)

犬のしじみ

3日ほど山口の実家にいたので、MIX犬しじみ(注*)の写真を撮ってきました。
カメラをいやがるので、上手く撮れませんでした・・・

Shijimi03_2Shijimi02_4Shijimi01_1


 
                  

久しぶりに散歩もしてきました。
しじみももう9才です。時間の経つのは早いですね。

(注*) 小さい子供の頃、目がしじみのようだったので、しじみという名前になりました。大人になったら、タヌキみたいになりました。

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2006年10月21日 (土)

さくらんぼの絵葉書

Hagaki01 3ヶ月くらい前に、以前からお世話になっている方から、絵葉書をいただいていました。とてもきれいなので、このブログに掲載させていただきました。
 私も、こんな絵がかければいいなぁ、と思います。練習しようかな・・・

(画像をクリックすると大きくなります)

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2006年10月19日 (木)

西都原のコスモス

本当にきれいでした。
可能な方は一度見に行かれると良いと思います。

Saito02





Saito01




広々として、心も落ち着きます。

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2006年10月17日 (火)

日記をブログに移行します

 これから、工房Miyaの日記ページもこのブログに書くことにしました。

 以前の日記は、こちらです(↓)

W.E.D.  ~ Wonderful every day

 過去の記事は、それぞれのカテゴリーの中に、内容ごとに保存されていますので、そちらを見ていただければ、わかりやすいと思います。

Hana04

うちの玄関先に植えてある日々草です。
宮崎市内でも、あちこちに植えてあります。

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