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<title>思考の方法</title>
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<description>意味・欲望・感情などについて
科学の方法についても考察中です。</description>
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<item rdf:about="http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-6feb.html">
<title>『エロスの世界像』その３　エロス原理（欲望）だけで説明可能なのか？</title>
<link>http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-6feb.html</link>
<description>　『エロスの世界像』（竹田青嗣著、講談社学術文庫）を違和感を感じながら読んでいま...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　『エロスの世界像』（竹田青嗣著、講談社学術文庫）を違和感を感じながら読んでいます。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;　人間は本来、さまざまなレベルで欲望（夢）を持っており、ただそれが思い通りに実現しない領域を「現実」と読んでいるにすぎない。（23ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　上の文章で示されているように、欲望ではどうにもならない世界がある、ということを私たちは普通に認識しています。エロス原理（欲望）のみで私たちの世界認識を説明するには無理があるのでは、と感じます。欲望で説明できるのは、価値、倫理といったものに限られ、むしろ、それらを「現実」と混同しない、そちらの認識の方が大切なのではと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;****************************************&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;　子供が排出物を「キタナイ」と感じるようになるのは、人間の生得の感覚として美醜感が発達してくるからではない。排出物は「日常生活」からはみ出す「ケガレ」の世界を象徴する、それがキタナイのはそれが「ケガレ」ているからであって逆ではない。（82ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　社会科学（とくに文化人類学関連）の文献を読むとき、しばしば感じる違和感をここでも思い出しました。間違っているとも言い切れないが、本当にそうなのか？ 正しいという証拠も出せません。このようなストーリーがしばしば作られているのです。『エロスの世界像』の中では、死について、自我について、様々な説明がなされていますが、おもしろい半面、本当にそうなのか？ という疑念が常についてまわります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;****************************************&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これまでに述べてきたように、現象学で言う＜内在＞は、見た、聞いた、だけではなく、私が感じた欲望や感情も含みます。私たちは、常に受身的に、それらの感覚を受け取っているのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そして、それらの感覚を再構成し、「私」「あなた」「物」などと世界を区分し、そして「私」というものから欲望が発生し、「私」というものが感情を持った、というふうに＜内在＞で得た情報を再構成しているのです。（「自我」や「身体」についての私の見解は、「&lt;a href=&quot;http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-113f.html&quot;&gt;私」は客観的世界の住人である&lt;/a&gt;、および&lt;a href=&quot;http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-3c51.html&quot;&gt;「私」は客観的世界の住人である その２&lt;/a&gt;、で述べています。）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私の欲望や感情は、私が頭の中で客観的世界を構築する際の原理ではなく、構成要素の一つにしかすぎない、ということです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>参考文献</dc:subject>

<dc:creator>工房Miya</dc:creator>
<dc:date>2009-11-07T23:37:40+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-657f.html">
<title>『近代哲学再考』その１</title>
<link>http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-657f.html</link>
<description>　客観的世界の構築は、自らの体験の積み重ねと、他の人との概念の共有によって、より...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　客観的世界の構築は、自らの体験の積み重ねと、他の人との概念の共有によって、より精緻なものとなっていきます。私たちが日ごろ「客観的」と言っている場合、おそらく「誰から見ても正しい」と思われる、ということを指しているのではないかと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　つまり、「誰から見ても正しい」、とより多くの人が確信していれば、より広く認められる真実である、と認識されているということです&lt;span style=&quot;font-size: 0.8em;&quot;&gt;（文章がくどくてすみません）&lt;/span&gt;。今、『近代哲学再考』（竹田青嗣著、径書房）を読みながら、そういったことについて考えています。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;　つまり、ある多様な現象を、どのような「キーワード」（＝原理）で呼べば、またそれをどう構成すれば、より普遍的な（＝広い共通了解を生むような）説明方式になるか、これが哲学（フィロソフィー）という思考方法のもっとも核心的な方法であり、自然科学はまさしくこの方法を「自然科学」の領域に当てはめて成立したものなのです。（『近代哲学再考』35ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　キーワードとは、例えば、電気のプラス・マイナス、原子や素粒子といった概念、またはタレスの「万物の原理は水である」という見解などのことです。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;　ともあれ、こう見てくると哲学の思考方法の独自性が明らかになってきます。哲学の方法の本質は、自然科学の方法の本質と同じであり、それは世界説明をより”普遍化”していくこと（＝共通了解を促進し拡大してゆくこと）であって、「客観」や「真理」へ届くための絶対的方法ではないのです。（36ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　もう一度、『エロスの世界像』（竹田青嗣著、講談社学術文庫）の一部を引用してみます。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;哲学の祖と言われるミトレスの住人タレスは、「万物の原理は水である」と唱えた。わたしたちはこれを笑えない。ある大もとの原理が物を構成するという発想は、「素粒子が物質を構成する」という考え方と基本的には同じだからだ。タレスと現代科学の誤差は、認識論的ディスクールを基礎としているという点から言うと、きわめて小さい。（25ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　私自身は、これらの説明に対し同意する部分もあれば、違和感を感じる部分もあります。既に、&lt;a href=&quot;http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-27a3.html&quot;&gt;『エロスの世界像』その１&lt;/a&gt;の記事でも述べていますが、近代科学が他の思考と違うところは、実際にそのものを見たり、それがあるという証拠を実際に見せる、そういう姿勢・技術を有している、というところです。これを無視して、皆同じだ、と一からげにしてしまうのも、問題があるのではないでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし、哲学も自然科学も基本的な思考方法には、共通部分がある、ということも確かです。そして、私たちの判断の最終的根拠が現象学で言う＜内在＞の持つ＜明証性＞であることも忘れてはなりません。「客観的真理」が最初から用意されているわけではなく、あくまで、「世界説明をより”普遍化”していく（＝共通了解を促進し拡大してゆく）」過程であることにも変わりはありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（自然科学は、より多くの人に共通了解をもたらす効果的な方法を持っている、そして共通了解を得やすい問題を扱っている、と言い換えることもできます）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;**************************************&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私たちの「問い」と「答え」は、下のように分類できると思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1. 「答え」「真実」&lt;span style=&quot;font-size: 0.8em;&quot;&gt;（※客観的世界における真実です）&lt;/span&gt;が得られる可能性がある（あるいはあった）と考えられるもの&lt;br /&gt;　1-a. 理論的には検証可能であると考えられるもの（本当にそうかはわからないが）&lt;br /&gt;　&amp;nbsp; 1-a(1). 現在の技術水準で可能なもの&lt;br /&gt;　　1-a(2). 現在の技術水準では不可能と思われるもの&lt;br /&gt;　1-b. 既に起きてしまったことで、もう検証が不可能であるもの（推測するしかない）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;2. 見方によって「答え」が変わってしまうもの&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　自然科学と社会科学・人文科学（？）、あるいは芸術評論、文芸評論など、一応「学問」として括られてはいるものの、「問い」と「答え」の性格が異なるものがまぜこぜになっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また、皆が「正しい」と判断できるものと、人によって「正しい」「間違い」の判断が分かれる可能性のあるものについて、その違いは何なのか、そのあたりも説明していく必要があると思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　まだ頭の中がきっちりと整理されていないので、『近代哲学再考』を読みながら考えを進めていきます。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>参考文献</dc:subject>

<dc:creator>工房Miya</dc:creator>
<dc:date>2009-11-07T15:43:18+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-c38c.html">
<title>客観的世界の構築　補足</title>
<link>http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-c38c.html</link>
<description>　私が客観的世界、と呼んでいるものは、必ずしも科学的なものだけではありません。宗...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　私が客観的世界、と呼んでいるものは、必ずしも科学的なものだけではありません。宗教や、その他近代科学が発展する以前の世界認識、そういったものすべて含んでいます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　科学的手法によらなくても、私たちは、周囲の世界を概念をもって区分し、それら概念と対応する物（あるいは人）の間に張り巡らされている因果関係の網の目を認識しています。宗教においても、因果関係をもって物事が説明されていることにはかわりありません。生きていくために、またはある特定の目的のために、そうせざるをえませんし、あるいは明確な目的がなくても、そのように認識してしまっている面もあると思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　科学的に構築された客観的世界と、その他の客観的世界との違いとは（既に&lt;a href=&quot;http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-eb90.html&quot;&gt;迷信と科学&lt;/a&gt;でも述べましたが）、私たちの体験と客観的世界で構築された理論（因果関係）との整合性をより高める方法を持っている、あるいは高めるという姿勢を持っているということです。私たちの体験との矛盾があったとしても、それ以上考えないようにする、とかとにかく信じる、ということではなく、何らかの矛盾があれば、それを解明していく、という姿勢、そしてその手法を持っている、ということです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　もちろん、科学的手法を用いても、解き明かすことができないでいる現象は数多くあります。また正しいと思われていた科学的理論が、覆される可能性も常にあります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>4. わかる・理解するということ</dc:subject>

<dc:creator>工房Miya</dc:creator>
<dc:date>2009-11-05T20:14:33+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-3c51.html">
<title>「私」は客観的世界の住人である　その２</title>
<link>http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-3c51.html</link>
<description>　「私」とは、主観のことでしょう？と思われる方もいらっしゃると思います。ややこし...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　「私」とは、主観のことでしょう？と思われる方もいらっしゃると思います。ややこしいかもしれませんが、主観・客観というものは、客観的世界（客観世界でもよい）が構築される中で生じるものなのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　　既に、私たちの頭の中には概念と因果関係が張り巡らされた客観的世界（現実世界と認識されるもの）が構築されているために、それがなかったら・・・という想像は非常に困難です。物ごころついたときから既に、ある程度の客観的世界ができてしまっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ、私たちが日々感じている感覚、あるものを見た、聞いた、触った、楽しかった、かわいそうだった、お腹がすいた&lt;span style=&quot;font-size: 0.8em;&quot;&gt;（これらの感覚を、客観的世界で用いられる概念で説明するのも少々違和感があるのですが・・・）&lt;/span&gt;、等々、現象学的に言えば＜内在＞にあたるものですが、それらについては、「私」も「あなた」も「心」も「体」も関係なく、常に外側から突然やってくるものなのです。私たちの感覚は受け取るもの、つまり受身でしかありません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私たちは、日々感じるそれらの感覚を再構成した上で、これは「私」の「体」と「心」、そして、あれは「他人」そして「物」、というふうに分類し、客観的世界を形作っているのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そして、自らの「体」「身体」というものを把握し、自らの欲望や感情がそこから発せられている、あるいは司られている、ということを、数々の因果関係から推測した上で、「私」というものから欲望や感情が出ているのだ、と捉えなおしているのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　賛否両論あるかもしれませんが、ある事例で部分的に説明してみます・・・&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;　はっと気がつくと、私は大きなロボットの操縦席にいました。窓から外が見えますが、見たこともないような景色で何が何やら見当もつきません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　とりあえず、目の前のレバーを引いてみました。すると、窓の外で、腕のようなものが動いています。どうやら、そのレバーの動かし方に応じて、腕のようなものも動いています。おそらくこのレバーと腕のようなものは連動しているのでしょう。窓からよく見ると、私がいる物体（ロボット）とその腕はつながっているようです。その腕はこのロボットの一部だったのか、と理解できました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　目の前に、石ころのようなものを発見しました。それは私のいる部屋の中のどのボタンを押してもうごきません。おそらく、その石ころのようなものは、私の乗っているロボットとは別のモノであるのだろう、と理解できました。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;・・・このような形で、自らの身体や、自分の”外側”にあるものを、理解可能であると思います。その他、様々な感覚もこのようなモデルで説明できるかなぁ、と考えています。（『現象学入門』の194ページにある挿絵がイメージのもとにはなっています）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　あくまでで比喩ですので、そこらへんはご了承ねがいたいのですが・・・ただ、私たちの感覚は、このような手探り状態のようなものであると思います。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>3. 自我・欲望・感情について</dc:subject>

<dc:creator>工房Miya</dc:creator>
<dc:date>2009-11-05T20:04:29+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-885d.html">
<title>『エロスの世界像』その２</title>
<link>http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-885d.html</link>
<description>　『現象学入門』（竹田青嗣著、NHKブックス）は堅実な内容だったと思いますが、『...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　『現象学入門』（竹田青嗣著、NHKブックス）は堅実な内容だったと思いますが、『エロスの世界像』（竹田青嗣著、講談社学術文庫）は、著者自身のストーリーが知らず知らずのうちに入り込んでいたり、再考せねばならない問題点がいくつかあるのではないか、と感じながら読んでいます。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;「きれい―きたない」は、生理身体的な「快―不快」とは違って、人間の生活経験の積み重ねの中でその身体世界の変容として形成された秩序である。しかし、重要なのは、いったん形成されたその秩序は、「快―不快」と同様、その形成の由来が意識にはまったく与えられないということだ。（99ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　このあたりは＜内在＞＜明証性＞というものについての認識にブレが生じているのではないか、と感じます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;＜内在＞それ自身は、あくまで客観的世界、そして因果関係を構築する材料です。&lt;br /&gt;　そして、私たちの欲望や感情について、例えば、「何で○○と感じたのか」とか「なんで○○が欲しいと思ったのか」と問う場合は、客観的世界における因果関係で把握し、＜内在＞との照合によりその正しさを検証するしかないのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　その由来を問う、ということは客観的世界における因果関係を問う、ということです。因果関係を問うているのに、客観的世界を否定している、その矛盾があると思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私たちが感じる「快―不快」の感覚（情動）は、それ自体が＜明証性＞を持つ＜内在＞であると言えます。そして、それらの経験を積み重ね、そこから概念と因果関係を抽出して、「私」というものの客観的世界を構築していくのです。その客観的世界においては、「なぜ○○と感じたのか」「なぜ○○が欲しいと思ったのか」という問いも、因果関係において答えることができます。例えば、これまでの体験・出来事との関連を検証したり、あるいは脳科学風に、対象があって、刺激、脳の働き、その他の要因などの相互作用から欲望や感情が生じた、というようにです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>参考文献</dc:subject>

<dc:creator>工房Miya</dc:creator>
<dc:date>2009-11-04T09:51:13+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-113f.html">
<title>「私」は客観的世界の住人である</title>
<link>http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-113f.html</link>
<description>　まず、疑いえないものとしての＜内在＞というものについて、再び説明しておきます。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　まず、疑いえないものとしての＜内在＞というものについて、再び説明しておきます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　『現象学入門』（竹田青嗣著、NHKブックス）では、私たちの判断の根拠、「疑いえないもの」としての＜内在＞というものについて説明がなされています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;　「赤く」感じたが、じつは茶色だったとか、「丸い」と思ったがよく見ると「四角」だった、ということはありうる。しかし、「赤く」感じたと思ったのは間違いで、じつはそのとき自分は「青く」感じていたということが明らかになった、などということはありえないのだ。&lt;br /&gt;　フッサールが＜内在＞と呼ぶのは＜知覚＞におけるこの”内在”的な感覚体験、ひとがそのように感じたという初源的な事実性のことである。（93ページ）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　こうして現象学的視線においては、＜内在＞という不可疑性の根拠となるもの（＜内在＞によって確かめられる知覚の疑いがたさを「明証性」というのだが）、これこをあらゆる判断や認識の確信が成立することの源泉であり、だからこれはまた、「現実」一般の源泉なのである。これはもちろん&amp;lt;内在＞が正しい判断や認識を保障する、ということをまったく意味しない。むしろ、＜内在＞という不可疑性の底がなければ、およそ、あるものが正しいか誤っているか、うそか本当かという問いそのものが人間にとって不可能になる、ということなのである。（98ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　私が、ここ最近のブログ記事で書いているのは、だいたい上のような内容をもとにしています。私が感じたことそれ自体は、それが錯覚と言われるものであろうとそうでなかろうと、疑いようがありません。そしてそれらの体験を積み重ねていくことで、客観的世界（別に客観世界でもいいですが）を構築していきます（その過程については&lt;a href=&quot;http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-2463.html&quot;&gt;客観的世界の構築&lt;/a&gt;やその他の記事を参考にしてください）。そして、客観的世界と自らの体験とが一致する、一致しないで、「正しい」「間違い」を判断しているのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それで、竹田さんの考えと、私とが違うところは、私たちの欲望や感情、それ自体も＜内在＞なのではないか、ということです。『現象学入門』の一文を引用します。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;　結論を言うとこうなる。わたしたちが＜知覚＞と呼ぶ意識表象には、他のものとは決定的に違う性質がある。それは＜想起＞＜記憶＞＜想像＞などが、ほぼ意識の志向力によって、それを遠ざけたり、呼び寄せたりできるのに対して、＜知覚＞だけはつねに意識の自由にならないものとして現れるという点である。（55ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　竹田さんの論旨では、人間が＜自由にできるもの＞と＜自由にできないもの＞と二分しているように思えます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私自身は、そうではなく、＜想起＞＜記憶＞＜想像＞してしまうものである。あるいは、＜想起＞＜記憶＞＜想像＞したい、と思ってしまうものである・・・というように考えます。&lt;br /&gt;　人間の欲望も感情も「私」から出たものではなく、あくまで、私たちが、それらが発現してしまったのを感じる、つまり（現象学で言う）＜原的な直観＞＜内在＞というものの一つである、と考えています。私たちが感じた欲望、感情、それ自体は「疑いえない」ものでしょう。感じてしまったことは感じてしまったことなのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;　私たちは、周囲の世界を見ながら概念と因果関係を抽出し客観的世界を構築していきますが、それは自らの欲望、感情についても同じことなのです。たとえば、自らの欲望に○○欲（例えば食欲・出世欲）と名前をつけたり、○○が欲しい、○○になりたいと思う気持ち、と認識したりします。感情についても「楽しい」「悲しい」その他様々な名前をつけて自らを納得しようとします。&lt;br /&gt;　そして、△△の時には××の欲望が生じた、あるいは○○の感情を持った、という経験の積み重ねにより、因果関係を把握していきます。&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;strong&gt;　このようにして構築された客観的世界が、「私」のキャラクタ―、性格、のイメージとなるのです。&lt;span style=&quot;color: #ff3300;&quot;&gt;「私」についての客観的世界が構築されてはじめて「私」というものが出来てくるのです。そして、「私」というものから欲望・感情が生まれる、というふうに捉えなおしているのです。&lt;/span&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このように、「自由になるもの」「自由にならないもの」という分け方ではなく、すべて自由にならないもの（※ここでは一旦、このように表現しておきます。自由については、&lt;a href=&quot;http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-f745.html&quot;&gt;こちらの記事&lt;/a&gt;をご覧ください）、受身のものとして考え、すべてを現象学的＜内在＞として考えていくのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　もちろん、客観的世界において構築された「私」というものの性格は、日々の体験により常に修正されています。また、私の気持ちを言葉で表現した際、既に、私自身が実際に感じたものとのズレが生じる可能性があるといえます。実際、自らすべてを、言葉だけで表現しきれる、と感じる人は少ないのではないでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　人がメタ的思考ができるのも、このようにすべての欲望、感情を含む感覚を、＜内在＞（あるいは＜原的な直観＞などとも呼ばれます）として受け取る、そしてそこから「私」についての客観的世界を構築する、この思考プロセスがあるからだと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　とりあえず、つたない説明ではありますが、ここまでやってきました・・・さあ、目的論と因果関係、欲望（価値観）と事実関係、このあたりをどのように説明できるかな・・・というかんじで思考を進めています。あとは実際に「正しい」「間違い」を判断する具体的な手法（このあたりが自然科学と社会科学・人文科学の違いになると思います）まで行って完了、といったところです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>3. 自我・欲望・感情について</dc:subject>

<dc:creator>工房Miya</dc:creator>
<dc:date>2009-11-03T23:59:57+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-27a3.html">
<title>『エロスの世界像』その１</title>
<link>http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-27a3.html</link>
<description>　『エロスの世界像』（竹田青嗣著、講談社学術文庫）は、科学を相対化したいという意...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　『エロスの世界像』（竹田青嗣著、講談社学術文庫）は、科学を相対化したいという意図が強すぎ、過小評価している気がします。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;哲学の祖と言われるミトレスの住人タレスは、「万物の原理は水である」と唱えた。わたしたちはこれを笑えない。ある大もとの原理が物を構成するという発想は、「素粒子が物質を構成する」という考え方と基本的には同じだからだ。タレスと現代科学の誤差は、認識論的ディスクールを基礎としているという点から言うと、きわめて小さい。&lt;br /&gt;（25ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　確かに、客観的世界（客観世界）を構築する人の思考、という点では同じでしょう。ただ、それらを単に一からげにしても良いものでしょうか？&lt;br /&gt;　「すべてのものは水からできている」ということと「素粒子が物質を構成する」という論理は何が違うのか、というと、前者は単なる推測（仮説）に留まっているのに対し、後者はそれを直接的・間接的に観測できる、あるいは証拠がある、ということです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　より確実なものとして、「すべての物質は原子から成り立っている」という論理を考えてみましょう。私たちは、電子顕微鏡を使うことで、実際にそのものを観察することが出来ます。つまり、論理と私たちの体験とが一致している、整合性がある、ということなのです。それが客観的世界における「正しい」ということなのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　もちろん、（その確率はかなり低いにせよ）私たちが原子・分子を電子顕微鏡で観測した、この体験自体が、私たちの想像を超えた錯覚であった、という可能性が全くないわけではありません。こういう意味において、すべての論理が「仮説」である、と言うことも可能ではあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ、いずれにせよ私たちは、（私たちの体験できる範囲内において）科学によって、論理と体験との間により整合性を持たせる方法を獲得することができたわけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;****************************&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;（ベルクソンの意見の引用部分）&lt;br /&gt;彼は人間の存在をどれほど高度で複雑な機械の組み合わせと考えても、そこから「意識する」あるいは「感覚する」という原理は理解されえないという（『物質と記憶』）。&lt;br /&gt;（16ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　はたして、このように断言できるのでしょうか？ 私たちは、まだその原理を知らないことも事実ですが、一方で、理解されえないということを断言する根拠もまだないと思います。&lt;br /&gt;　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;****************************&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　あと、ずっと考えているのが、欲望と事実認識との間の関係をどのように説明するのか、よくよく考えてみると意外と難しい気がします。単に私が迷っているだけなのかもしれません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;　しかし、よく考えてみるなら、自然物の秩序の正しい判断ということと、善悪や美醜の判断ということの間には大きな深淵がある。物の認識と、善悪、美醜の判断の関係は非対象的なものであり、交換式を持たないのだ。&lt;br /&gt;　すると、前者から後者を引き出すのは不可能であり、唯一可能なのは、善悪、美醜の秩序の原因となるものが、「それが最善になるような仕方で」物の世界を秩序づけてわれわれに現わしている、と考えることだ。おそらくそのようにソクラテス＝プラトンは考えた。&lt;br /&gt;（35ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　半分同意で半分？、といったところです。&lt;br /&gt;　確かに、物の認識と善悪、美醜の判断は別のことであると思います。ただ、善悪・美醜は、結局人間の欲望や感情によって決まります。そして人間の欲望や感情は、客観的世界の中の把握が（難しいにせよ）可能であり、実際、私たちは、毎日体験している自らの欲望や感情を、次々に客観的世界における因果関係に組み込んでいます（そして、「私」というキャラクターのイメージをつくりあげています）。さらに、脳科学の進歩が、私たちの思考の働きと脳との関係をどんどん明らかにしています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私たちの欲望、感情を客観的世界における因果関係（わかりやすく言えば科学理論）で説明することが可能であること（すべてを説明しきることができるということではありません）と、物の認識と善悪・美醜の判断は別のことであること、これらのことを上手く説明したいと思っています。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>参考文献</dc:subject>

<dc:creator>工房Miya</dc:creator>
<dc:date>2009-11-02T04:26:33+09:00</dc:date>
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<title>客観的世界の構築</title>
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<description>　客観的世界（現実世界とも認識されている）というものは、人が生まれたときから、直...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　客観的世界（現実世界とも認識されている）というものは、人が生まれたときから、直ちに認識されるものではありません。&lt;br /&gt;　経験を積み重ね、記憶を重ねていくことにより、次第にその網の目が張り巡らされて行くのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;客観的世界の構築に必要なものは下の二つです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（１）もの・現象の抽出（概念・観念を用いた世界の分節）&lt;br /&gt;・・・さらに人間の場合は、それらに犬、木、山、などと名前をつけていきます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;（２）因果関係の把握&lt;br /&gt;・・・○○が起これば□□が起こる、という因果関係を、意識的にせよ無意識的にせよ認識しているのであれば、人間でなくても因果関係を把握している、と考えることができるでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　つまり、犬には犬の、猫には猫の客観的世界がある、ともいえるでしょう（現在明らかになっている科学的知識から推測すると、ということですが）。&lt;br /&gt;　また、現代では論理的でないと考えられている迷信なども、科学と同じく客観的世界と言えると思います（ここの定義に従えば）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　では、迷信と科学との違いは何か、といえば、&lt;a href=&quot;http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-eb90.html&quot;&gt;迷信と科学&lt;/a&gt;の記事で少し触れましたが、（言葉をかえれば）私たちの体験と客観的世界との整合性を高める、より精度の高い方法論を持っている、ということでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このあたりの話は、これからじっくり考えながらまとめていこうと思います。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>4. わかる・理解するということ</dc:subject>

<dc:creator>工房Miya</dc:creator>
<dc:date>2009-10-25T00:11:14+09:00</dc:date>
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<title>迷信と科学</title>
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<description>『エロスの世界像』（竹田青嗣著、講談社学術文庫）に次のような記述があります。 　...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;『エロスの世界像』（竹田青嗣著、講談社学術文庫）に次のような記述があります。&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;　たとえば、未開の部族を目にした文明人は、奇妙な迷信や儀礼を共有する彼等を&amp;quot;幼稚&amp;quot;だと思うかもしれないが、これは、「文化」のルールの違いをしか意味しない。文明人もいろんな迷信や儀礼を持っている点では、&amp;quot;未開&amp;quot;の部族と本質的には変わらないからである。（22ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　はたして、奇妙な迷信や儀礼を共有するような認識と、例えば科学的な認識とは、本質的に全く同じだと、言い切れるのでしょうか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　どちらも、それぞれの社会において構築された「客観的な世界」「現実世界」である、ということについては同じであると思います（おそらく竹田さんの著書では、この点において「本質的」に同じだ、と述べているのかもしれません）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そして、（あまり好きな言葉ではありませんが）未開の部族における知識が迷信のみでないことも、私たちが普通に知っている事実でもあります。複雑な知識を持っているのは、先進国の住人のみではないと思います。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;『レヴィ＝ストロース　構造』（現代思想の冒険者たち20、渡辺公三著、講談社）の中の記述ですが、&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;「伝統社会における自然認識、そして生命形態の多様性の認識が、最先端の「科学的」分類にもけして劣らない首尾一貫した精緻なものでありうることを明らかにした。たとえばフィリピンに住むある集団は、1625種類の植物を区別するが、それは植物学上は650属約1100種に対応するという。」（216ページ）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;　ただ、&lt;/p&gt;&lt;blockquote dir=&quot;ltr&quot;&gt;&lt;p&gt;「そこでは人間に対して腹を立てた動物は病気を送り込み、人間の見方である植物が薬を供給して応戦すると解釈され、「胃病と足の痛みは蛇、赤痢はスカンク、鼻血はリス」等々・・・のせいにされる。」（228ページ、アメリカ合衆国南東部のインディアンの事例）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;p&gt;というような理論をどう思うか、ということです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　理論や知識が精密であることと、それが本当に正しいと思えるのか、ということとは別であると思います。このブログではしばしば触れていますが、結局のところ、「正しい」と思えるかどうかは、私たちの体験と理論とに矛盾が生じていないか、簡単にいえば、その治療法で本当に病気が治るのか？ということなのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　もちろん、広く信じられていた科学的理論が新たな理論で覆されることもしばしばですし、未開の部族の知識が、新たな思考のインスピレーションになることだって十分にありえると思います。また先進国においても、根拠が明確でないものを出発点として精緻な理論を作り上げている、そういう人たちもたくさんいるような気がします。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ、「正しい」「間違い」を単なる解釈である、と言い切っていいのか、迷信における「正しい」「間違い」を、科学的な「正しい」「間違い」と同列に扱ってしまって良いのだろうか、どちらもそれぞれの社会において人が構築した客観的世界であることは同じであるにせよ、全く別の社会の話として、それぞれがどちらも「正しい」のだ、と混同してしまうのは問題があるのではないか、そう思います。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>4. わかる・理解するということ</dc:subject>

<dc:creator>工房Miya</dc:creator>
<dc:date>2009-10-20T21:47:19+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-429a.html">
<title>絶対的真理（と呼ばれるもの）と客観的世界における真理について</title>
<link>http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-429a.html</link>
<description>　竹田青嗣さんの『エロスの世界像』について批判的に読み進めていこうと思っていたの...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　竹田青嗣さんの『エロスの世界像』について批判的に読み進めていこうと思っていたのですが、思った以上に難しいのと、じっくり本を読む気持ちの余裕がなくなってしまったので、しばらくブログの更新も出来ませんでした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それでもやはり少しでも考えを進めたいと思いなおし、見切り発進することにしました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;********************************&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私たちは、私たちが見て経験したものから観念・概念や因果関係を抽出し、客観的世界を構築しています。客観的世界における「真理」というものは、常に（それが錯覚であろうとなかろうと）私たちが見て経験したものと、客観的世界（現実世界）とが合致する（矛盾がない）かどうかで検証されています。（『現象学入門その５』の記事でもう少し詳しく書いています。&lt;a href=&quot;http://koubou-miya.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-fbc3.html&quot;&gt;記事はこちらです&lt;/a&gt;。）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これが客観的世界における「真理」であり、科学的真理でもあります。その中において、私たちは、より体験を積み重ねることにより、&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「客観的世界（現実世界）における理論と私たちの体験・経験が一致する・より矛盾が少ない」＝「より真理に近い」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;と判断することができます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　一方、私たちの判断のもととなる経験・体験、すなわち見たもの、聞いたもの、感じたもの、それ自体が、これまでに構築された客観的世界においても説明不能な、今の私たちが想像もしていなかったような錯覚である、という可能性を100％捨てきることはできません。つまり、「絶対的真理」のようなものに届いた、と言い切ることは出来ないのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ただ、実際、私たちの生活においてそこまで気にする必要は全くありませんし、考えたところでわかるはずもありません。しかし、今、私たちが客観的世界（現実世界）と考えているものが、一部分でも覆される可能性は常にある、ということです。「絶対的真理」という言葉を持ち出したために、少々大げさな雰囲気が出てしまいますが、要するに、私たちは客観的世界の中では&amp;quot;より真理に近い&amp;quot;、という感覚を持つことが可能ですが、その客観的世界が覆される可能性は常にある、ということを言っているだけなのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　私たちが構築した客観的世界における、ある理論について、今のところ矛盾をきたすような出来事、体験が出てこないから、その理論は正しいであろう、と感じることは可能です。ただ、科学的理論も常に覆される可能性を持っているのです（もちろん覆されない可能性もあります）。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>4. わかる・理解するということ</dc:subject>

<dc:creator>工房Miya</dc:creator>
<dc:date>2009-10-20T09:29:56+09:00</dc:date>
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